第十六話 『聞こえない』 体験者:k.m(23) 自称サービス業
松本奏は夜の新宿をおぼつかない足取りで進んでいた。
眩暈を催すほど強いネオンの光に不意に足を止める。夜の繁華街にポツンと立つ彼女に黒服のキャッチ達が群がる。口々に誘い文句を口にする男達には目もくれず、右手に持った小さなバッグに視線を落とす。奏はそれを見て安心するかのように力無く嗤った。
「……今日で全て、終わりにしよう」
独り言を溢して嗤う奏を見た男達は、不気味そうに離れていった。
奏の視線は偽物のブランドバッグに付いたぬいぐるみのストラップを見て止まった。薄汚れた小さな狐のぬいぐるみが少しだけ揺れる。目を細め、それを優しく掴んだ。
「もうすぐ……、私もそっちに行くから。だから、こんな馬鹿な私を許してね」
お揃いで買ったキャラクターのストラップの片方は、友人と一緒に火葬場で燃えた。事故から五年が経った今でも、親友を失くした心の傷は癒えることはなかった。
夢を語りあった、あの日の部活の帰り道。
人一倍心配性で、面倒見が良いあの子は誰からも好かれていた。
何で死んじゃったのよ。あの日、轢かれたのが私だったらどれだけ皆は喜んだと思う?
誰も決して口に出さないけれど、本当は誰もがそう思ってたはずだ。
『――何でお前だけ助かったの?』
今の自分を見れば、皆は「やっぱりな」と罵るだろう。私が今、彼処に居ないことだけが唯一の救いだ。
見知らぬ土地で馴染めなかった私の安らぎは、初めて出来た彼だけだった。彼はいつでも私を気に掛けてくれた。彼と一緒なら新しい自分に生まれ変われる気がしていた。
だけどそれはただの営業、私は数ある財布の一つにしか過ぎなかった。
それでも信じて通い続け、残ったのは多額の売掛金だけ。見知らぬ大人に身体を売って、それでも必死で貢いだ。
やっぱりあの時、私が死ぬべきだったんだよ。
あの子に助けられた私は、結局ただの屑にしか成れなかったのだから。
鞄の中から金属が擦れ合うような音が鳴る。両手で抱えるように持つと、そっと音を隠した。
「私、もう疲れたよ……鈴那」
重い身体を引きずるように夜の繁華街へと吸い込まれて行く。
花道通りを抜けると、赤と青のネオンが乱反射し、目がくらみそうだった。視界の中心には、煌びやかなパチンコ店の看板が大きく光っていた。派手な衣装の女性たちが行き交い、クラブの重低音が遠くまで響いていた。建ち並ぶ雑居ビルには大きなパネル看板が所狭しと敷き詰められている。その中でも一際目を引く優美な電飾の前で、奏は足を止めた。
ホストクラブ【銀嶺】。高級ホテルのような重厚な入り口に人影が見える。銀髪の背の高いスーツ姿の男性が、派手なドレス姿の女性をエスコートするように扉を開いていた。
「また違う女の子、捕まえたんだね……煌夜」
奏は物陰に隠れ男女を見ていた。小脇に抱えたバッグに手を入れる、左手にプラスチックを握る感触が伝わる。次第に荒くなる呼吸を落ち着かせながら、奏はホストクラブを睨み付けた。
◆
店が終わるのは深夜零時。二十三時過ぎに入店して、煌夜を見つけて、そして……
街路樹に寄りかかり身を隠す奏は、ホストクラブ銀嶺を見つめていた。現在時刻は二十二時三十分を過ぎた頃、逸る気持ちを抑えるようにバッグの紐を握り締める。
奏の意志ははっきりと固まっていた。
アイツを殺して、店に火を着ける。もう私だって終わってるんだ、一緒に焼け死んだって構わない。
煌夜にホストであると告げられた奏は、少しでも彼の力に成りたいと望んでいた。少ないバイト代を使い果たし、遂には親から借りた大学の費用まで注ぎ込んだ。使えば使う程、煌夜は優しく癒してくれる。奏はいつしか店でしか煌夜と会えなくなっていた。
莫大に膨れ上がった売掛金は到底返せる手だてはない。煌夜の勧めで始めた風俗の仕事も、裏でホストクラブと繋がっていると知った時には愕然とした。稼いでも、稼いでも、煌夜は奏に金を使わせ続ける。
大学を辞めた奏は夜の仕事とは別に路上売春を始めた。初めは売掛金を少しでも返済する為と決めていたものの、気が付くとまた彼に会いに足が向いていた。
「もう、終わりだよ……、こんな惨めな人生なんて」
ポツリと溢れた独り言、乾いた瞳からは涙すら流れてこない。
夜に輝くネオンサインに目が眩む。頭の中では何度も思い描いている。
「……あと十分」
スマホを見ると液晶には二十二時四十九分と表示されている。
扉を開けて、中に入ったら煌夜を探す。そして、これで……
鞄の中に手を入れる、プラスチックの柄を確かめる様に握った。
ゆっくりと、奏は歩きだしていた。
道路を挟んだ向かい側、一際輝く店のネオン。さっまで聞こえていたはずの喧騒が、今は一つも耳に届いてこないかった。視線は重厚なあの扉を見つめて離れない。
「待ってて……、鈴那……、もう少しだからね」
一歩、また一歩と足は動いていた。鞄を持った左手が小刻みに震えている。
――ブツ……
「あ……」
何かが切れる音に奏は足を止めた。足元に落ちたストラップのぬいぐるみが転がると、奏は慌ててそれを拾おうとする。店のすぐ目の前まで転がる狐のぬいぐるみをやっと掴まえた時、異様な叫び声に気が付いた。
「何、今の声……?」
悲鳴は確かに店の中から聞こえてきた。しばし呆然としていると、けたたましい音を上げて急に扉が開いた。
勢いよく開かれた扉の向こうから何人もの女性が逃げるように飛び出て来る。皆揃って恐怖に歪んだ形相で脇目もふらず我先にとばかり駆け出していた。
何かトラブルが起こってる。これはチャンスなのではないか?
奏の頭にそんな言葉が浮かぶ。次の瞬間には扉に手を掛け、店の中へと入っていった。
◆◆
赤い絨毯が敷かれたフロアには、妖艶な音楽が流れ、鏡張りの壁に自分の顔が映る。心なしか店内を流れるBGMはいつもより大きく思えた。
広いフロアに並んだソファー席には、何人ものホスト達が座っているのが見える。いつもと違うのはそこに女性客の姿が見えないことだ。一人として客の座っていないテーブルに、ホスト達だけは座っていた。
煌夜は……?
奏はそんな異様な店内を気に止める事なく、標的を探していた。フロアを端から見渡すと、奥の卓に銀髪の頭が見えた。
あそこだ。
奏はバッグに手を掛けて卓へと近寄る。横を通りすぎる時も、他のホスト達はなんの反応も示さない。流石に奇妙に感じた奏は横目で近くに座る男の顔を窺ったのであった。
「え、」
異常さに奏の思考は硬直した。卓についたホストの男は半目を開いて口だけ何か動かしている。うわ言のように何かを呟く男に恐怖心を覚えた奏は、周囲を見ないように奥へと進んだ。
「……煌夜」
奥にある一番広いソファーの卓、奏が初めてこの店に来店した時もこの場所だった。革のソファーに項垂れる様に座る銀髪の男は小刻みに体を揺らしている。
「ねぇ、私の事、覚えてる……?」
奏は震える声で尋ねた。心臓がバクバクと鳴り、手のひらには冷や汗が滲んでいた。
男は彼女の声に反応もせず、ただ体を揺らしてうわ言を呟いていた。
煌夜の顔は、青白く血の気が引いていた。
「やっぱり、殺さなきゃ……」
奏は静かに息を吸い込み、包丁を握り締めた。
「けて……たす……けて」
煌夜はか細い声で何かを溢した。
「何? 今さら謝るつもり?」
奏は両手で握り締めた出刃包丁を向けたまま、彼の正面へと廻った。真っ青な顔の煌夜を見た時、彼が怯えているのは自分ではない事に気が付いた。
「たすけて……あいつが、カシマ……レイ、コが……」
「は?! 何言ってんのよ、また別の女の話? あんたのせいで私はーー」
頭を抱える煌夜は心底怯えきっていた。その異常さに、さすがの奏も一瞬たじろぐのであった。煌夜はすぐ側に立っている奏の存在に気が付くと、救いを求める様に抱きついてきた。
「助けてっ、助けてくれ! アイツが、まだ近くにーー」
突然の彼の行動に奏は動揺する。
「ちょっと、やめて! なんのつもり!?」
言葉とは裏腹に、奏の内心は不思議と穏やかだった。久しぶりに自分に触れてくれた最愛の人。割りきった筈なのに、煌夜の抱き締めた両腕を拒めない自分がいたのである。
「助けて、助けて……、俺にはやっぱり、お前しかいないんだ……」
ムシのいい話だ。頭ではそう思っているのに、彼の言葉を信じてしまいたい自分がいる。奏の心は否定と幸福の矛盾の中で揺れていた。
「煌夜……、本当に、私だけを見てくれるの?」
思わぬ言葉が口から溢れる。幸福だった彼との日々が頭の中を一気に駆け巡ったのであった。気が付くと奏は手に持った物を放り投げていた。
「お前だけだ……、お前だけを愛してる、だから、助けてくれ」
怯えきった彼の頭を優しく撫でる。震える彼の身体が愛おしくて堪らない。
「大丈夫よ。煌夜には私がついているから……」
「助けて、助けて……」
奏は強く抱き締め返す。煌夜は安心したように奏の胸の中に顔を埋めていた。
「私がずっと側にいてあげるから、ずっとね」
煌夜の身体は次第に震えが治まり始めていた。彼はうわ言のようにまた何か呟いている。
「どうしたの? なんでも聞いてあげるよ?」
奏は甘い声で囁いた。
「ありがとう……、ずっと、俺の側にいてくれ……、美桜」
血の気が引いてゆくのが分かる。
彼はまた別の誰かを思っている。
奏は傍らに手を伸ばす。
手探りでそれを見つけると、力を込めて握った。
音のない鈍い感触の後、生温いモノが右手に流れて伝う。
耳元で叫ぶ悲鳴は聞こえない。
もう、この男の声は何も聞こえない。