第十五話 幽霊のジレンマ
「わあ、なんて豪華なマンションやろ。東京の幽霊はこないなところに住んどるなんて、想像もしてなかったわ」
鈴那の懇願に負けた怜衣は渋々といった様子でマンションへ帰ってきていた。エントランスの自動ドアをすり抜ける二人はエレベーターの前で立ち止まる。
「あっ、しまった。釉乃さんがいないとボタンも押せないんだ」
何度かボタンを押してみるが人差し指はなんの感触もなくすり抜ける。眉を下げて鈴那を見ると、彼女も同じように物に触れることは出来ないようであった。
「階段で上がるしかないか。まぁ、ウチら幽霊やし。いくら登っても疲れへんから、ええやん?」
二人は顔を見合わせ、苦笑い交わすと、改めて幽霊であることを自覚したかのように、軽やかに階段へと足を踏み入れた。
◆
「やっとついたぁ……」
「疲れへんけど、十一階はえげつない程に長いなぁ」
折り返す階段を進むこと数分。二人はようやく目当てのフロアに辿り着いた。薄暗い廊下の奥に、羽仁塚の部屋の灯りがかすかに見えた。怜衣は、一抹の不安を感じながら足を進めた。
……勝手に知らない幽霊を連れてきて、ハニーさんに怒らないかな。
「あそこがレイちの住んでる部屋? 最上階なんて凄いやん」
「い、いや、ここは私の家じゃなくて……」
鈴那は急かすように先を進む。慌てて彼女を追いかける怜衣は、違和感を覚えた。
ここの廊下、こんなに長かったっけ……?
羽仁塚の部屋の扉は遠くに見えている。それなのにいつまでたってもまるで近付いていないような気がする。騙し絵のように進んでも辿り着けない部屋の扉に、鈴那も何か感じたようだった。
「待って、ウチら全然進んでなくない? さっきからあの部屋にちっとも近付いてない気がする」
「うん、私もそう思ってた。さっきまではこんな感じじゃなかったのに」
二人は足を止めて辺りを見る。目印になりそうな非常灯を指差すと、頷きあって駆け出した。流れるように変わる景色は確かに進んでいる、それでも部屋の扉まではいっこうに近付いていないのだった。
無限に続く廊下のようで、恐怖が二人を襲う。
……このまま永遠にこの廊下を進み続けるのだろうか?
「嘘やん?! 全然、辿り着けへん」
鈴那はまた周囲に目をやる。さっき見たはずの非常灯は、視線の先で緑色にぼんやりと灯っている。
「そんなはずはない。さっきまで、ごく普通の廊下だったのに」
怜衣はもと来た廊下を振り返る。登ってきた筈の階段も部屋の扉と同じように遠くに見える。
「もっかい、走るで」
「う、うん!」
二人は部屋を目指して走り出した。肉体的な疲れこそないものの、閉じ込められたような閉鎖空間には精神的な圧迫感を感じてしまう。進むことも戻ることも出来ない長い廊下に二人の表情はいつしか険しく変わっていたのであった。
……このまま永遠にこの廊下を進み続けるのだろうか?
そんな不安が頭を過る。無限に続くこの長い廊下に、終わりなどないのではないか? このまま永遠にここを彷徨い続けるのではないか?
時間にしてみれば三十分にも満たないはず。それなのに二人はもう何時間、何日も同じ場所を歩き続けているような錯覚を感じていたのであった。
「こんなん……、嘘やろ……」
あんなにはしゃいでいた鈴那も、いつしか顔を歪めて唸っている。怜衣もあり得ないこの状況を必死に否定していた。
進まない廊下。変わらない景色。心なしか来た時よりも廊下の明かりは暗くなってきている気がする。二人の頭に諦めが浮かび始めていた。
『ーーレイちゃん?』
遠いような、すぐ近くにいるような。その声は確かに自分の名を呼んでいた。
「この声……、釉乃さん!?」
顔をあげると目の前の廊下はぐんと歪む。激しい眩暈のように景色が廻ると、次の瞬間、目の前には扉が現れていた。
僅かに開かれたダークブラウンの扉の隙間から光が漏れだしている。そこから覗き込むように出た顔を見て、怜衣は心から安堵したのであった。
◆◆
「なぁんだ、呼んでくれれば下まで迎えに行ったのに」
釉乃は嗤いながら二人の前にティーカップを並べて言った。
「おつやさんの言う通りよ。私はてっきりそこらの浮遊霊が迷い混んできたの思ったわ。私の城に浮遊霊なんて入らせてたまるもんですかってね」
羽仁塚は鼻息荒く呟くと、自分の前にあるカップを口元に運ぶ。
「ご、ごめんなさい」
「す、すんません」
ラグのしかれたフローリングに正座で座る二人は軽く頭を下げた。
釉乃の出迎えでようやく羽仁塚の部屋にたどり着いた怜衣と鈴那は、これまでの経緯を話した。釉乃と羽仁塚は二人の話を聞くと眉を寄せて嗤っていた。
「まあでも、二人ともまだ物には触れられないからね。考えてみたら私達に知らせようもないか」
「窓から知らせればいいじゃない。幽霊のあなたたちなら、飛べるでしょう?」
「と、飛ぶ……?」
二人の会話に怜衣と鈴那は首を傾げて聞いていた。羽仁塚の話ではこの十一階フロアにはエレベーターで訪れた者以外、侵入を拒む仕掛けが施されているらしい。怜衣と鈴那の二人が彷徨っていた長い廊下は、迷い混んだ見ず知らずの浮遊霊を追い返すための仕掛けらしい。
「で……、鈴那ちゃんだっけ? あなたはどうして都市伝説を目指しているの」
釉乃は向き直すと尋ねた。
「は、はい。ウチは未練とかあんまし無いんですけど……、それでも気になる事があるって言うか……」
歯切れの悪い口ぶりで鈴那は答えていた。鈴那が何故、縁も所縁もないこの新宿で彷徨っていたのか。怜衣はその理由を彼女に尋ねていなかった。
「気になるって、いったいどんな?」
今度は羽仁塚が尋ねていた。
「それは……。ウチが死んだ理由の子が、今この新宿にいるんです」
「死んだ理由?」
隣で座る怜衣は思わず口を開いていた。顔を下げる鈴那は思い悩んだように首を縦にふった。
「ウチな、高校生の頃に交通事故で死んでん。歩道に突っ込んできたアホな車に轢かれてな。そん時、一緒に歩いてた友達を庇ぉてウチだけ轢かれて。その友達は無事やったんけど、あれからずっとウチが死んだ事を引きずっとるみたいで。地元に居づらくなったんか、その子、大学進学する言うて東京来てん。けど最近地元で噂になってるん聞いて、ウチ、いてもたってもおらんくなって、それで東京に来たんです」
鈴那はさらに深く下を向いて話していた。
「その噂って?」
釉乃は足を組み替えると、真剣な眼差しで尋ねた。
「借金して大学やめて、トー横辺りで売りやっとるって。そないな子やないねん、きっと悪い人に騙されてんのやと思とります。せやから、ウチにも何か出来ることあればと思って」
鈴那は顔をあげると必死に訴えていた。
「いっぺんだけ、新宿でその子を見かけたんや。ウチ、声かけたけど、幽霊やから、わかるわけなくって……。なんも出来へん自分が悔しくって」
つい先刻見た彼女の明るい表情は、きっと思い悩んだ気持ちを隠していたのだろう。怜衣は胸の奥にチクリと痛みを感じていた。
「なるほどねぇ……、それで生きている人に干渉できる都市伝説に成りたかったって理由か」
「はい。ウチ、なんでもやります。そやから、ウチにも都市伝説になるやり方教えてください」
座り直した鈴那は額を擦り付けるように釉乃に頭を下げていた。
「そうね、だけど鈴那ちゃんが都市伝説になるには時間が掛かるよ。その間、そのお友達はずっと困り続ける事になる。たぶん手遅れになるんじゃないかな?」
「そ、そんな……、せやったらウチ、どうしたらいいんですか?!」
釉乃は何か考えるように口元に人差し指を置いた。騒ぎ出す鈴那を宥める怜衣は、すがるように釉乃を見る。
「鈴那ちゃん、どうしてもそのお友達を助けてあげたい?」
「当たり前やないですか! ウチはその為に来たんや」
必死の形相の鈴那に釉乃は溜め息のような短い息をついて微笑んだ。
「そう。なら、これからそのお友達について調べてみましょう」
「調べは済んでます。何処に住んでいるかも、何処に通っているかも、やから、早く助けてあげたいんです」
「り、鈴那ちゃん、落ち着いて」
立ち上がる鈴那を怜衣が心配そうに声を掛ける。羽仁塚はずっと閉じていた目を開くと、釉乃に向かって頷いて見せた。
「わかった。それなら今夜にでも、動きましょうか。鈴那ちゃん、あなたにもちゃんと働いて貰うわよ?」
怪しく微笑む釉乃はチラリと怜衣を見る。その視線の意図は何となく察しがついていた。それでも怜衣は、釉乃に頷いて返すのであった。