第十三話 くねくね……?
朝の陽射しが顔にかかると、怜衣はぼんやりとした頭を振って起き上がった。暫く呆然とした後、不意に立ち上がった。
顔、洗わなきゃ……。そうだ、化粧したまんまだ、昨日は遅くに帰ってきたんだっけ。
リビングを出て廊下を曲がり、広々とした洗面台の前に立つ。綺麗に磨かれた蛇口を上に上げようとした時、違和感を覚えた。
ああ、そっか私、幽霊だった。
白い手で何度も触れてみようとするものの、簡単にすり抜けてしまう。顔を洗おうにも、そもそも水に触れることすら出来ないのであった。
「これなら夜遅くに帰ってきても化粧落とす必要もないし、案外、幽霊って便利なのかも。いや、そもそも幽霊なら化粧しないか……」
眠い目を擦りながら怜衣はぼんやりと独り言ちた。幽霊も普通に寝るものなのかと頬を摘まんでみる。顔にあたる柔らかな手の感触に、何か違和感を覚えた。
「いて……て、手ッ!?」
慌てて鏡を見る。そこに映る自分自身の姿に、怜衣は再び叫び声を上げるのだった。
「うぅん、何、どうしたの……」
折れた廊下から釉乃が顔を出していた。彼女はまだ眠いといった様に、片手で欠伸を隠す。
「つ、釉乃さん、見てッ、これ、私の顔!」
「あら? 元の姿に戻ったのね、その洋服も凄く可愛いよ。昨日の店の服?」
釉乃は嬉しそうに微笑んでいた。怜衣は嬉しさのあまり小躍りしそうな感情を必死で堪えながら、頷いて微笑み返していた。
「なんなのよ、朝から騒がしいわね……。って、あなた、レイ子ちゃん!? あらぁ、いつの間にかこんなに綺麗になっちゃって。やだ、誰かに似てるわね……? ねぇ、おつやさん。ほら、なんだっけあの、よくTVに出てるアイドルの子達で……」
奥から現れた羽仁塚は怜衣の姿を見るなり騒ぎ始めた。彼女の勢いに圧倒される怜衣であったが、自分の事のように喜ぶ羽仁塚の姿に心が暖まるような感覚を覚えていた。
「もとの姿に戻れた気分はどう? 何か変わったところとかある?」
騒がしい羽仁塚を宥めた釉乃は優しく尋ねていた。彼女にそう言われて改めて自分の身体に視線を向ける。違和感は無いものの、心なしか変化があるような気もする。
「あ……。ちょっ、ちょっと待っててください」
一人洗面所へ戻ると、怜衣は恐る恐る確認した。
「わ、わ、私、性別が無くなってる」
再び勢いよく飛び出した怜衣は目を丸くして驚いた。釉乃と羽仁塚は互いに顔を見合わさると、可笑しそうに笑って答えたのだった。
「だから言ったでしょ? 幽霊に性別なんて関係ないって。死んだら排泄も生殖も必要ない、魂の性別は身体じゃなくて心で決まるものよ」
釉乃は微笑むと、怜衣の頭を優しく撫でた。
「釉乃さん、本当にありがとうございます。死んでるのにこんな事思うのおかしいけど、私、今やっと、自分をちゃんと生きられてる気がする……」
本音を言うのは苦手だった。それでも心からそう思えたから、今は口を飛び出した気がする。
「そう思ってくれたなら手伝った甲斐があったわ。私も元の姿のレイちゃんに会えて嬉しいよ」
釉乃は本当に嬉しそうに笑ってた。気のせいか、うっすらと目元が輝いているようにも思える。
「ほらほら、二人とも。感極まるのはわかるけど、お祝いならこんな廊下の片隅じゃなくて、部屋に入ってからにしましょうよ!」
羽仁塚の急かす声で二人は恥ずかしそうに微笑みあう。急かされるように廊下を後にした。
◆
リビングに戻った羽仁塚は一人忙しそうに部屋中を飾付け始めていた。釉乃はというと広々としたカウンターキッチンに立ち、鼻歌交じりで何かを作っている。
忙しない二人の姿をただただ眺めるだけの怜衣は、一応声を掛けてみる。
「いいのよ、今日はレイ子ちゃんが主役なんだから。あなたはここっ、ソファーに座って大人しく待っててちょうだい」
羽仁塚はそう言って怜衣を座らせると、何処からか取り出したカラフルなリースを首に掛けてきた。まるで誕生日会のような扱いに、怜衣は戸惑ってしまう。
「ん? いいって、いいって。ハニーちゃんからもレイちゃんは座ってなって言われたでしょ?」
キッチンに立つ釉乃は可愛らしいエプロン姿であしらう。彼女は薄くスライスした赤い何かを怜衣の口元に寄越した。反射的に開くと、口の中に久しぶりの感覚が巡る。甘酸っぱい味覚が口いっぱいに拡がってゆく。
「苺だ、私、今食べれた……?」
感嘆する怜衣を見て釉乃は口元を弛ませた。
「レイちゃんも人の姿に戻ったからね。久しぶりの触感と味覚、驚いた?」
「は、はい! あれ、でもどうして……?」
怜衣はつい先ほどの洗面所での出来事を思い出していた。
「さっき私、顔を洗おうとして蛇口に触れようとしたけどすり抜けちゃって。全然触れられなかったのに、どうして釉乃さんやハニーさんから渡された物には触れられたんでしょう」
唸る怜衣の姿を見る釉乃と羽仁塚はフフッと口角を上げていた。
「やだわ、レイ子ちゃんったら、そんなの簡単な話よ。私はともかく、おつやさんは知名度No.1の都市伝説なんだからそれくらい出来て当然よ」
「ちょっとハニーちゃんてば、私はあくまで元都市伝説だから……。それにレイちゃんはまだこっちの世界の摂理を知らないのよ? ちゃんと説明してない私達が悪いわよ」
二人の会話はまた怜衣の理解が及ばない内容だった。それでも【都市伝説】という昨日から何度か耳にしている単語に、怜衣は釉乃のお願いを思い出したのだった。
「都市伝説……、そっか、私は」
期待に応えれる自信が無い。怜衣は自分の表情がどんどん強ばってゆくのを感じていた。
「ほらほら、レイちゃん。せっかく可愛い顔に戻れたんだから、そんな暗い表情しないの。その話は気が向いたらでいいから、私達には時間なんて無限にあるんだからさ?」
「は、はい。すいません」
「もぉ、すぐに謝らなくていいのよ。そうだ、お祝いの準備終わるまでまだ少し時間が掛かりそうだし……。せっかく元の姿に戻ったんだから、少し新宿でも散歩してきたら?」
釉乃の提案に羽仁塚も賛成といった表情で頷いている。二人に促されるまま怜衣も頷くのであった。
◆◆
「はぁー……。昨日も一昨日も新宿には来てたのに、やっぱり自分の身体だと全然違う感じがするなぁ」
駅前からあてもなく歩きだした怜衣は変わらない街の姿に独り言ちていた。生前この街に対して良い思い出なんて無かったはずなのに、幽霊に成った今は何故だかとても懐かしく思えた。忙しなく行き交う車や、楽しそうに嗤う人混みの喧騒。すぐ近くにあるはずなのに、とても遠くに感じてしまう。まるで映画の中にでも入ったような、不思議な感覚だった。
鏡面仕上げのビルの壁面に映る自分自身の姿を見てふと思う。ここに映ってる私は、今度は本当に誰にも見えないんだろうな……。
もともと人間関係など数える程しかない怜衣にとって、新宿の街は居心地が良かった。人混みに紛れ込む事で孤独を誰にも見られずにすんだのだ。それでも淋しさはいつも感じていた。
商業施設の立ち並ぶ区域に入る。平日の昼間でも若者の姿が目立つ。彼等もあてもなく、この街を彷徨っているのだろうか? そんな事を考えながら歩いていると、人気の少ない一角に視線が止まった。
……うわぁ、なんか、凄いな。
視線の先には異様な出立ちの人物が激しく身体を動かしていた。蛍光色の服装を靡かせあちこちくねらせるその姿は、誰の目にも怪しく見えるだろう。怜衣は見ては行けない気がしながらも、横目で盗み見てしまうのだった。
……ちょっと前にMVで流行ってた、何とかってダンスかな? あんな人前で堂々と、勇気あるなぁ。
踊っているのは女性、それもかなり若く見える。いつの間にじっと見つめていた怜衣は、その不思議な動きに魅せられていた。しばらく見とれていると、不意に身体を揺らす女性と目があった気がした。慌てて怜衣は視線を外す。
慌てなくても、向こうからは見えてるはずないか……。
幽霊であると思い出して、慌てた自分に恥ずかしくなる。
『――ねぇ、』
突然すぐ側で少女のように高い声が聞こえた。
「ねぇってば、そこのあんたに話しかけてんねんけど」
「えっ、わ、私?」
広場の片隅にいたはずの女性は、顔を上げるとすぐ目の前に立っていた。思わず応えてしまう怜衣に、派手なジャージ姿の少女は訝しそうに見つめていた。
「なんや、あんたも幽霊か? はぁ……、せっかく今日こそは成功したと思うたのになぁ」
突然目の前に現れた女性は、くりくりとした癖毛を指で摘まみながら溜め息をついたのだった。