第十二話 『忘れモノ』体験者:K.M(23) H.S(24) アパレル店員
定刻通りの就業時間を終えた邑井心結は、同僚である鈴木陽葵と共に、新宿西口近くのbarにいた。【オフシェア・スプリ】に勤め始めて約半年、二人はたまたま年齢が近かったのと、同じアーティストの熱心なファンであったことから、すぐに打ち解けていた。それからは、まるで習慣のように仕事帰りにこのbarに立ち寄るのが常となっていた。
「ねぇ、今日の昼間の話、あれって本当にゾッとしなかった?」
手元のグラスの中で、マリブミルクの白濁した液体がゆっくりと揺蕩う。邑井は顔をしかめ、言いようのない不安を滲ませた。
「まぁ、確かにね……でも、さっきも言ったように、店長の前ではあまり口にしない方がいいと思うよ。あの人に目をつけられて、ゴミみたいに辞めていった先輩、前にいたじゃない」
鈴木は、カクテルグラスの縁を指でなぞりながら、どこか他人事のように答えた。
「だってさぁ……あの写真の子。公園で、何かを恨むみたいにズタズタに切り刻まれて死んでたんでしょ? 本当に怖い。怨念とか、そういうのが渦巻いてたのかも……もし、通り魔とかだったらもっと……」
「変に関わらないのが一番よ。事情聴取なんて名目で警察に連れて行かれたら、あの店長の性格からして、絶対に欠勤扱いにされるわ」
「あー……それな、本当にあり得る」
二人は、こうして職場の陰鬱な出来事を肴に、束の間の休息をbarで過ごすのが好きだった。十歳以上も年上の店長のことは、率直に言って、二人とも心の底から苦手としていた。
『♪♪♪……♪♪♪……』
着信音に気づいた鈴木は、小さなバッグに手を伸ばした。取り出したスマートフォンの液晶には、まるで悪夢のように忌々しい名前が浮かび上がっている。一瞬、顔が歪んだ彼女は、隣の邑井にそれを見せた。邑井は、声にならない悲鳴を上げ、顔を青ざめさせた。
まるで重い足枷を引きずるように、通話ボタンをスライドする。耳に当てると、できる限り平静を装い、声を発した。
「はい……、どうされましたか?」
『鈴木さん? 夜分にごめんなさいね、私だけど、今大丈夫かしら?』
そんなことは百も承知だ。思わず眉間に深く刻まれた皺を見て、隣で邑井が苦笑いを浮かべている。
「今はまだ出先ですので、少しなら。何かありましたか?」
最低限の棘を含ませて答えてみる。しかし、電話の向こうの鈍感な上司は、まるで良い知らせでも聞いたかのように、声のトーンを上げた。
『出先って、もしかして、まだお店の近くにいらっしゃるの?』
嫌な予感が胸をざわつかせたが、一応、何の用件か問い返した。
『あら、よかった。実はね、お店のPCから今日までの日報を私のスマホに送っていただきたいの。月末の収支報告会が本社であるから、明後日までには必要なのよ。私、明日はどうしても外せない用事があってお店に行けないの。悪いんだけど、お願いできないかしら?』
隣で息を潜めて聞き入っていた邑井が、まるで苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見ている。あまりにも身勝手なお願いに、断りの言葉を口にしようとした瞬間、電話口からまた声が聞こえた。
『そういえば、鈴木さんと邑井さんは再来月、同じ日に有給休暇を申請していたわよね? いつも頑張ってくれているから、前向きに検討しようと思っているんだけど……』
あまりにも露骨で卑劣なやり口に、鈴木の表情は凍り付いたように険しくなる。しかし、その日は二人にとって特別な日だった。敬愛するアーティストの、待ちに待ったライブツアーの最終日なのだ。
「……わかりました。今日までの月報を送ればいいのですね。これからお店に向かいます」
通話を終えると、鈴木は堪えきれずに小さく舌打ちをした。電話口で最後に聞こえた相手の、ねっとりとした喜びを含んだ声が耳にこびりつき、再び苛立ちが込み上げてくる。
「ちょっと、本当にこれから行くの?」
「仕方ないでしょ? 邑井さんも関係あるんだから、一緒に行ってもらうわよ」
「えー、マジで嫌なんですけどぉ……」
グラスに残ったマリブミルクを一口で飲み干すと、二人は重い足取りでbarを後にした。
◆
店舗のある巨大なショッピングモールに到着したのは、午後十一時を過ぎた頃だった。深夜に差し掛かろうとしているにもかかわらず、この界隈の人通りはまだ絶えることがない。もっとも、通常の入り口はすでに固く閉ざされており、二人は少し離れた場所にある、薄暗い運搬用の通用口へと向かった。
冷たい鉄製の裏口の扉を開き、隣接する警備員室に繋がるインターホンを押す。インターホンの向こうから、低い、警戒心を含んだ男の声が応答した。二人が事情を説明すると、裏口の扉はまるで機械的に、何の感情も持たずに解錠された。
点々と、まるで幽霊の灯火のように頼りなく灯る非常灯の光を頼りに、二人は静まり返ったモールの中を進む。その沈黙を破るように、邑井がか細い、震える声で呟いた。
「なんかさ、夜のモールって、異様な雰囲気だよね……」
邑井の小さな声は、信じられないほど静まり返った空間に反響し、まるで遠くから聞こえる幽霊の囁きのようだった。突然、目の前に広がった底なしの暗闇に、言いようのない不安が二人の心を締め付ける。
「警備の人だってちゃんといるんだから、そんなに怖がらせないでよ」
鈴木は、自分自身に言い聞かせるように、努めて明るい声を出した。エレベーターはおろか、エスカレーターまでもが完全に停止している。仕方なく二人は、目的の店がある七階を目指して、冷たいコンクリートの階段を一段ずつ昇っていく。
無機質なテラゾータイルの床に、二人の足音だけが空虚に反響する。もし、この単調な音に混じって、自分たち以外の足音が聞こえたら、きっと二人とも悲鳴を上げてしまうだろう。いつの間にか、二人はまるで凍り付いたように身を寄せ合い、階段を一段、また一段と昇っていた。
「え……?」
「ど、どうしたの?」
四階の表示が見えた瞬間、鈴木はまるで何かに引き寄せられるように突然振り返った。青白い顔をした邑井は、彼女の凍り付いたような表情に、さらに声を震わせて問いかけた。
「な、な、何? なにかあったの!?」
「いや、気の、せい……?」
「やめてよ、本当に怖いから! そういう冗談、マジで勘弁して!」
取り乱す邑井に、鈴木は申し訳なさそうに謝った。しかし、確かに今、背後から聞こえるはずのない、奇妙な声が聞こえた気がしたのだ。警備員の男性の声とは明らかに違う、甲高く、耳にまとわりつくような女性の声が……。
「ごめん、本当に気のせいだって。早く済ませて帰ろう」
「マジでやめてよね、私、こういうの本当に、本当に苦手なんだから」
再び、二人の足音が冷たい床に反響する。規則的にタイルを叩く音に混じるように、まるで何かが引きずられるような、微かな音が聞こえ始めた。
……、……、セ……、ン……
◆◆
「やっと着いた……」
邑井は、七階と記された無機質な通用扉に、まるで最後の希望を託すように手をかけた。冷たい金属のノブを回し、扉を引くと、鈍く軋む音が、まるで断末魔の叫びのように静寂を切り裂いた。
「うわ、本当に真っ暗じゃん……」
「警備室で懐中電灯でも借りてくればよかった。とりあえず、スマホのライトで照らすしかないか」
バッグの中をまさぐり、震える手でスマートフォンを取り出すと、微弱な光の中に鈴木の青ざめた顔が浮かび上がった。心もとない二つの小さな光だけが、辛うじて前方を照らし出す。見慣れた七階のフロアの配置を頭の中で辿りながら、二人は目的の店を探した。すると、暗闇の中で微かに光を反射する何かが視界に入った。それが、エスカレーターの冷たい手すりであると気づいた時、【オフシェア・スプリ】の入り口は、すぐ目の前に現れた。
「さっさとPC立ち上げて、日報送っちゃおう。邑井さん、お店の照明、点けて――」
「――シッ!」
手元を照らしていたスマートフォンの光を、突然強い力で押さえつけられた。何事かと邑井が顔を上げると、鈴木はまるで氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
「な、何を――」
「……静かにしてッ!」
暗闇の中で邑井の顔は見えないが、その声には、まるで鬼のような、尋常ではない気迫が宿っていた。
「……早く、明かりッ、すぐに消して!」
言われるがままに、邑井はスマートフォンのライトを消した。微かな光に慣れていた視界は、再び漆黒の闇に溶け込んでいく。
「……急に何? いったいどうしたのよ?」
鈴木の腕を掴んでいる邑井の手は、まるで氷のように冷たく、激しく震えている。
「だ、誰か、私たち以外に誰かいる……こ、声が聞こえたの」
邑井はそう言うと、鈴木の腕を強く引き、まるで獲物を恐れる小動物のように身を低くしてしゃがみ込んだ。暗闇の中でも、すぐ隣にいる彼女の表情だけは辛うじて見えた。その顔は、まるで魂が抜け落ちたかのように青ざめ、恐怖に歪んでいた。
「……ほ、ほら!」
邑井は、まるで何か恐ろしいものを見たかのように、目を大きく見開き、エスカレーターを挟んだ向かい側の、深い闇を見つめていた。
……、イ……、マ……
確かに、微かに声が聞こえた。しかし、その声の主らしき灯りも姿も、全く見えない。
……ス……マ……
それは、甲高く、掠れた、まるで古びたレコードのような
声で、女の声だと感じさせた。しばらくの間、まるで石像のように動けずにいた鈴木は、怯える邑井の手をそっと引くと、身を屈めたまま、ゆっくりと動き出した。
「……き、気づかれるって」
「……このままじゃ、向こうから丸見えでしょ。とにかく、あの試着室に隠れよう」
……スイ……ン……
声は、まるで忍び寄る悪霊のように、段々と近づいてきていた。それと同時に、床を叩くような、硬質な何かがぶつかる音も聞こえてくる。二人は、まるで喉が張り付いたように荒くなる呼吸の音を、両手で必死に抑え込んでいた。
……スイマセン……
甲高い、若い女性の声が、まるで耳元で囁くように「スイマセン」と聞こえた。何かに謝っているのか、それとも、何かを探し求めているのか……?
……スイマセン
声は、まるで目の前にいるかのように、すぐ近くで聞こえた。
扉の向こうに、確かに何かがいる。
――スイマセン。
二人の存在に気づいている。
扉が、ゆっくりと、まるで意思を持っているかのように回り始めた。
駄目だ、開いてはいけない。
『スイマセン』
鈍い金属音が響き、扉が僅かに開いた。二人はもう終わりだと覚悟し、固く目を閉じた。
――バタン……。
……スイマ……ン……
声が、まるで遠ざかっていくように……?
どうやら、開かれたのは隣の試着室だったようだ。まるで心臓が口から飛び出しそうになるほど激しく脈打つ音だけが、二人の耳に響いている。二人は、まだ両手を口に当てたまま、恐怖で身を強張らせていた。
……イ……ン……
あの不気味な声は、完全に聞こえなくなった。今にも泣き出しそうな表情で邑井を見ると、彼女は何度も小さく頷いている。今のうちに、ここから逃げ出そう。二人が考えていることは、まるで鏡に映したように同じだった。
「……聞こえなくなった。今のうちに……」
『――ッ♪♪♪、――ッ♪♪』
突然、鈴木のスマートフォンがけたたましい音を立てた。鈴木は慌てて音を消す。今の音で、あの何かに気づかれたかもしれない。悲鳴を上げそうになる邑井を必死に落ち着かせると、再び、まるで息を殺したようにじっと身を潜めた。
……気づかれていない?
あの、骨まで凍り付かせるような不気味な声は、もう聞こえなかった。滲み出る冷たい汗が首筋を伝い、背中へと流れ落ちる。まるで氷水を浴びせられたような、不快な感触。そっと、震える指先でスマートフォンに視線を向ける。液晶画面には、この最悪のタイミングで、あの忌々しい上司の名前が表示されていた。
――― 新着メッセージ 一件 @菅沼店長―――
無視してしまおうかとも思ったが、鈴木はまるで抗うことのできない力に導かれるように、メッセージを開いた。こんな異常な状況で、悠長に日報など送っている場合ではない。いっそのこと、断りの連絡を入れてやれば、この身に降りかかった悪夢のような出来事に対する、ほんの少しの憂さ晴らしになるかもしれないと思ったのだ。
「え、なに……」
思わず、小さな声が漏れてしまった。
「ちょっと! さっきのものがまだ近くにいるかもしれないんだよ?! そんな大きな声出さないで……」
邑井は、まるで怯える小鳥のような声を投げかけたが、鈴木のまるで石のように固まった表情を見て、言葉を止めた。鈴木は、ゆっくりと、まるで操り人形のようにスマートフォンの画面を邑井に向けた。
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譚・縺ヲ縺上l縺ヲ縺ゅj縺後→縺?? 諤懆。」縺。繧?s縺碁縺ウ縺ォ譚・縺ヲ縺上l縺溘h? 莉雁コヲ縺ッ縺。繧?s縺ィ隕壹∴縺ヲ縺?※縺ゅ£縺ヲ縺ュ縲
ワタシウエダヨ。
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二人は、まるで時間が止まったかのように見つめ合い、凍り付いていた。意味不明な文字化けした文章の下に、まるで底なしの闇から響いてくるような、今の二人に向けられたメッセージ。
まるでガラス玉のように冷たい汗が額を伝い、首筋を滑り落ち、背中を這いずり回る。
心臓の鼓動が、まるで壊れた太鼓のように激しく打ち始める。
お互いの心臓の音が、まるで隣で聞こえるかのように、空気は重く、ねっとりとまとわりつく。
見てはいけない。
決して、顔を上げてはいけない。
頭では理解しているはずなのに、邑井の頭はまるで操り糸で引かれているかのように、ゆっくりと動き始めた。彼女の顔は、今にも堰を切ったように涙が溢れ出しそうなほど、歪んでいた。
駄目だ。それ以上は……。
まるで磁石に引き寄せられるように、自分の視線もまた、ゆっくりと動き始める。
暗く、底冷えするような壁を、まるで何かを探すように視線がなぞる。
駄目だ、もう、これ以上は……。
何もない、ただの真っ黒な天井。
この試着室の天井には、仕切りなどないはずだ。
……じゃあ、あれは、いったい……?
天井には、まるで生きているかのように蠢く、無数の赤い文字が浮かび上がっていた。
「……ワタシハココニイル……」
その文字は、まるで生き物のようにゆっくりと形を変え、歪んでいく。
『スイマセン、ワタシノコトオボエテル?』
引き裂かれたばかりの傷口から流れ出したような、生臭く、鉄のような匂いを孕んだ液体が、まるで雨のように二人の顔に滴り落ちる。凍り付いたような静寂を破り、悲鳴は底なしの深淵へと吸い込まれるように、虚しく反響した。




