第十一話 次はあいつ
新宿三丁目、地下鉄の駅を降り、目的の場所に一番近い出口を上る。通勤時間のピークを過ぎていても、この場所はいつも人で溢れている。向かってくる人混みについ癖で避けようとしてしまう。
……気まずいなぁ。
後ろを着いてきているはずの釉乃は黙ったままだ。昨晩の突然の告白に彼女はあからさまに視線を泳がせて動揺していた。翌朝、彼女の提案で私の生前の行動範囲を巡ろうと声を掛けてくれたのだが、その時もまだどこか遠慮がちに話していた。
動くエスカレーターに足を伸ばす。
こうゆう時どう声を掛けたらいいのだろうか? 交遊関係の乏しかった怜衣には言葉がまるで浮かばなかった。
「レイちゃん」
「は、はいっ!」
突然の呼び掛けに反射的に背筋が伸びる。恐る恐るふりえると、釉乃はあさっての方を向いていた。
「どうしてまたショッピングモールなの? 昨日、きたばかりじゃない」
昨日訪れたばかりの大きな自動ドアをすり抜ける釉乃は、まばらな施設の中を不思議そうに見渡して言った。
「あ、えと、私ここで良く買い物してて……、もしかしたら私の事を覚えている店員さんとか居るかと思って。ほ、ほら、刑事ドラマであるじゃないですか? 被害者の事を聴き込みする警察の人のシーンとか」
なんの反応を示さない釉乃の様子に、口にした事を後悔が襲う。作り物じゃあるまいし、いくらなんでもそんなに都合良く鉢合わせる事など奇跡に等しい。恥ずかしさから顔が真っ赤な気がしていた。
「なるほど……、好きな洋服のお店だったら、向こうも顔馴染みになるものよね。そのお店は何階?」
「そ、そうです、そうなんです! えっと、店は七階のこの……」
入り口すぐに設置されたフロア案内図を指を伸ばそうとして、怜衣はハッと固まった。
通っていた店は女性向けアパレル、それもゴシックロリータを専門に扱う店だ。これじゃあ、また、釉乃さんに変な目で見られちゃうじゃんか。
「レイちゃん?」
「あ、いえ、何でもないです……」
思わず顔を下げてしまった。釉乃の視線が怖い。これまで何度も感じたことのあるあの疎外感は、こんな姿になった今でも変わらず怖い。彼女の次の言葉が出る前に何か言わなくては……。
「レイちゃんさ」
「へ、え、っと、ご、ごめんなさ……」
思わず頭を下げてしまう。きっと責められるだろう。これまで良くしてくれた分、きっとその言葉はこれまでよりずっと……。
「私も、ハニーちゃんも、気にしてないからね」
「え……?」
顔を上げて彼女を見ると、驚くほど平然としていた。
「前にも言ったけど、私達は幽霊でしょ? 死んだら年齢なんて関係ない、それは性別だって一緒のこと」
釉乃は眉を寄せて続けていた。
「正直、話してくれた内容は驚いた。だけど、それと私達の関係性にはなんの影響もないのよ?」
彼女が何を話しているのかわからないまま聞いていた。
「私はレイちゃんの事を本当に友達だと思ってる。直感だけど、あなたとなら私は上手くいくように感じた、だから昨日は本当の事を話した。そんな私のお願いを真剣に答えるために、レイちゃんも自分自身の事を話してくれたんでしょ?」
理解が追い付かないが、なぜか彼女は自分を肯定してくれている。頭が働く前に頷いていた。
「私は嬉しかったよ。話したくない事でも言ってくれるなら、これ以上ない位の信頼だからね。だから、あなたが悪びれる事なんて一つもないの」
釉乃は昨日から何度も見せた、優しげな笑みを浮かべる。
彼女の話している言葉の意味は正直言ってわからなかった。それでも確かに胸のつかえが消えたように軽くなるのを感じていた。
◆
この人なら、話してもいいのかもしれない。釉乃に対しそんな風に思えたのは、実を言うと会ってすぐに感じていたのである。初対面である自分に友達だと言い放った彼女の表情に、微塵も嘘偽りを感じなかったからだった。
「……私の父は、少しだけ有名な声楽家でした。父が海外で公演する度、私はそれに着いて行かされました。幼い頃から本物の歌声を聴く事が声楽家になる為の近道だ、それが父の口癖だったからです」
ポツリと本当の事を漏らしてみた。これまで誰にも打ち明けてこなかった自分自身の正体、彼女にだけは聴いて欲しいと本気で思っていたのだ。
「私が六歳の時、父の仕事で訪れたヨーロッパのとある国で私は精巣切除の手術を受けました。それから私の身体は男性的な成長が止まってしまった……」
「ちょっと待ってそれって、レイちゃんはお父さんに無理矢理手術を受けさせられたの?!」
目を見開いた釉乃に首を左右に振って答える。
「ううん、もともと停留精巣という病気を放置してしまって手遅れだったらしいです。だから、父は不憫な私にせめてもとカストラートの道を目指させようとしたんだと思います」
「カストラート?」
「去勢手術で子供の澄んだ声を永遠に保存する方法です。私も詳しくないですけど、すっごく昔にイタリアで始まって、今は法律的に禁止されてます。たぶん、私が最後なんじゃないかな」
釉乃は何も言わずじっと視線を向けている。足元に違和感を感じた、並んで乗っていたエスカレーターは二階に到着していた。
「日本に帰って母が私の身体の変化に気が付くと、そこから変化は一瞬でした。父は手術の事を母に相談していなかったのでしょう。激昂した母は私を連れて家を出ました。それからはずっと昨日行ったアパートで暮らしたていんです」
記憶の中に残る生活の色を思い起こす。昨日、あのアパートには何も無かった。
「母は、私に女性として生きろと諭しました」
片手を顔の前に持ってきてみるが、黒い右手は形も朧気だった。
「……レイちゃんは、それでよかったの?」
三階に到着する間際、釉乃は尋ねてきた。
「正直、わかりません。どっちでも良かったってのが本音です。私はただ……、お父さんとお母さんと私、そんな普通の家庭がよかった。幸せだった」
黒い顔は何の変化もしていないだろう。私の頬を伝っているはずのこの感情は、今の私には表現することも出来ない。
「それから死ぬまで、私はずっと嘘つきで、誰にも本当の気持ちは言えませんでした。だから、今は釉乃さんに打ち明けて、少しだけスッキリしています」
本心から出た言葉だった。偏見も否定も失くなった世界、それは怜衣にとって初めて感じられた安息地なのであった。
「……ひとりで、ずっと頑張ってたんだね」
何かが触れている感覚を覚えた。振り替えると、抱きつくように腕を廻す釉乃の姿があった。
「釉乃さん、私ね。お母さん以外で私の事をレイちゃんって呼んでくれる人、初めてだったの。だから……、すごく嬉しかった」
エスカレーターは五階にたどり着く。
◆◆
『ご協力ありがとうございました。また何かあれば、お話をお願いさせていただきます』
目的の七階に着いたとき、目当ての店の前でスーツ姿の男女が頭を下げていた。エスカレーターを降りる怜衣と釉乃の横をその二人は通りすぎてゆく。
『え、てか、めっちゃ怖くないいですか? 男なの黙ってこの店通ってたとか』
ひとりの店員が騒ぐ。いかにも店のイメージといったロリータファッション、高い位置で結わいた黒髪を揺らした女性が声を荒げていた。
『邑井さん、そういうのあんまり言ってると良くないよ』
黒髪の短い髪を撫で付けるように耳にかけると、もう一人の店員はカーテンでしきられた裏へと消えた。
【オフシェア・スプリ】
エレベーター脇の一角に広がるその店舗は、独特な世界観のアパレルを展開していた。怜衣はこの日常離れした環境が好きだった。
『つか、店長。常連でしたよね? さっきの写真の子』
騒がしい女性店員が呟く。 店長と呼ばれた女性は渋々といった顔で答える。
『さぁ? 覚えてない』
店長はそのまま裏に消えていった。文句を溢す店員は、並んだきらびやかな衣装を動かす。
隣で震える釉乃の顔は、これまでみたこともない、言葉に表せない感情を帯びていたのだった。
「レイちゃん決定的。次は絶対、コイツらだよ」
釉乃は目を見開くと、優美な口元を開く。




