第一話 思い残し
ぴたりと止まったかのような静寂の中、新宿の街は午後10時を過ぎてもなお、その喧騒を響かせている。月曜の夜だというのに、人々は深い宵闇に溶け込み、抑えきれない欲望を撒き散らしている。それはまるで、光に誘われる夏の虫のように、きらめくネオンの箱庭へと次々に吸い込まれては消えていく。この街は今夜も、人々の欲望と業を糧に肥え太っていくのだ。
そう、この街は狂っている。いや、それはどこも同じなのかもしれない。いつもと同じように、混沌と欲望にまみれている。
人影まばらな公園の片隅で、一人の少女がその儚い命を終えようとしていた。
「痛ッ……なんで……こんな事に」
背中に響く鈍い痛み。神子島怜衣は荒い呼吸で独りごちた。生温かい体液がじわりと頬を伝う。初夏の夜にもかかわらず、身体は抑えきれないほどの悪寒に震えている。
――バチが当たったんだ。これまでのツケが返ってきただけさ。
唐突に頭に浮かんだ言葉。昔見たテレビの刑事ドラマを思い出す。主人公の刑事が逮捕直後、犯人の家族に刺されて殉職するシーンだ。思っていた走馬灯とはずいぶん違うなと、くだらない感情に怜衣は嗤った。
私の人生、何か意味なんてものがあったのかな……?
これまでの思い出を辿っても、これといって誇れることなど何一つない。楽しかったはずの幼少期の記憶も、今はただのトラウマでしかない。
お母さんも……こんな気持ちだったの?
混濁する意識の中、思い出したのは母の最期の姿だった。高校卒業のあの日。恥ずかしくて友達にも教えられなかった六畳一間のボロアパートに帰ると、いつもの我が家は見たこともない恐ろしいものへと変わっていた。滴る不快なあの音は、今でも頭にこびりついて離れない。糞尿混じりの鼻につく異臭は、忘れたくても記憶のずっと深いところに強く結びついてしまっている。
狭い部屋の真ん中で母は首を吊っていた。足元には倒れた子供用の小さな脚立。それは怜衣が小学生の時に作った物だった。
お母さん、あれって私への当てつけだったの?それとも……。
身体はどんどん冷たくなっていく。堪えきれず震える足が痙攣しているのだと気が付くまで少し時間がかかった。僅かに見えていた視界まで霞んできている。最後の時はもうすぐそこだ。
別にこの人生に未練はない。思い残すことがあるとすれば、そう、この事態を起こした当事者。そいつだけは許せない。
怜衣の頭の片隅には、つい今しがたの過去が鮮明に浮かんでいた。
顔も見せない卑怯者。最後に私の顔まで傷つけやがって。
数十箇所と突き刺された深い傷口。悲鳴をあげる間もなく行われた犯行は、強い殺意を連想させた。犯人は最後の示しとばかりに、痛みと恐怖に歪んだ怜衣の整った顔を切り裂いた。左のこめかみから右の顎下まで、反対側も同じように眼球ごと深く突き立てる。×印を描いた傷口は、とめどなく溢れた鮮血で埋まっては盛り上がる。止まらない身体の痛みは、もうどこから来るのかもわからない。
そうして霞む怜衣の意識は、新宿の街の片隅で消滅した。雑踏に賑わう繁華街。神子島怜衣の穢れた外殻は、翌朝ジョギング中の中年男性によって発見される。同日夕刻の情報番組で小さく取り上げられた。
【東京都新宿区の公園にて、身元不明の遺体を発見。遺体には無数の刺し傷】
僅かな好奇の目に拾われながらも、それは数ある事件の一つとして、すぐに忘れ去られていくのだった。
◆
「ん、ん……」
安らかな眠りを破ったのは、温かな朝の光だった。薄目で見る空は、やけに高く感じる。自分が地面に寝そべっていることに気が付くまで、また少し時間がかかった。
ああ……なんだ、私、死んでないじゃん。
いつもと変わらない日常が、いつも通りに怜衣を迎えていた。
呆れたふりをしながらも、変わらない光景に安堵する。遠くで聞こえる車の走行音、遥か頭上で鳴き散らす生き物の鳴き声。
さっきのはただの夢か……。
現実を受け止めた怜衣は、心の隅で安堵する。昨晩感じたあの痛みは、現実に起こったことではない。そう自分に言い聞かせるように、深く息をついた。
特に理由もなく、怜衣は視線を上げた。公園の入り口を行き交う人々を何となく見つめる。
派手な人……でも、すごく綺麗……キャバ嬢の人かな……?
怜衣の視線の先には、一人の女性が映っていた。透き通るようなベージュの明るい髪を優美にまとめたその女性は、他の人々と同じようにただ歩いているだけだ。それなのに、なぜだろう、周囲にはない不思議な輝きを感じてしまう。
気が付くと、胸元がざっくりと開いた鮮やかな色彩のワンピースドレス姿に視線は釘付けだった。自分でも無意識のうちに行ってしまった行為に気が付いたのは、それからすぐ後のことだ。
ヤバい、目があっちゃった。
思わず視線をそらす怜衣は、気まずそうに明後日の方向へ向き直す。そしてすぐに自分自身の醜態を思い返し、赤面した。
こんな真昼間に公園の中で寝転がっているなんて……どう考えても私、変人かヤバいやつじゃん。
とにかく今は立ち上がって、素知らぬ顔でこの場を立ち去ろう。そんな考えが浮かんだ一瞬、怜衣は初めて違和感に気が付いた。立ち上がろうと手を伸ばしてみても、感覚がないのだ。それどころか、あるべき場所にあるはずの身体が視界に映らない。
嘘……もしかして、これもまだ夢の中なの?
頭に次々と浮かんでくる疑問と焦燥感。しきりに周囲を見渡した刹那、突然目の前に現れた光景に彼女は声を上げて驚いた。
「ーーうわッ?!」
目の前に現れたのは、先ほどの妖艶な女性だった。彼女は不思議そうな表情で怜衣を見つめると、すぐにその端正な顔を緩めた。
「驚かせてごめんね。あなた、こっちの世界初めてでしょ?」
女性は優しい笑みを浮かべて、優しく囁いた。彼女のつけている香水の匂いだろうか、甘い香りが鼻の奥をくすぐる。動転する怜衣は、理由も分からずただ混乱していた。彼女が自分に何を尋ねているのか、全く理解できない。それでも鼻先近くで微笑む女性は、嬉しそうに語りかけてくる。
「あ、あ……の、私……」
「いいのいいの。初めは誰でも皆おんなじだから。それにしてもあなた……よくそんな状態で自我が保てるわね。もしかして大物になる才能があるとか?」
噛み合わない会話に、怜衣の頭はますます混乱する。彼女は一体何を話しているのだろう?それに「そんな状態」とは一体……?
「えっ、と……そんな状態って……私に何かあるんですか?」
恐る恐る尋ねる怜衣に、女性はほんの一瞬だけ固まった。すぐに何か思いついたのか、彼女は肩にかけていたショルダーバッグに手を伸ばした。グレーのエナメルのようなつるつるとした口の中から、何かを見つけて怜衣に向ける。
「無理もないよ。あなた生まれてまだ少ししか時間が経ってないもの。でも大丈夫、上手にやればすぐに元の見た目くらいには戻れるから」
怜衣は眉を寄せて聞いていた。 生まれてからすぐって……。いくら普段から童顔に見られるとはいえ、私、来月で二十歳なんだけど。
訝しげに彼女を見ると、得意げに視線で手鏡の方へと促している。渋々目を向けると、小さな手鏡には信じられない光景が映し出される。そこにいるはずの自分の姿は、予想外の形に変わっていたのだ。
「……はッ? えッ、ええッ?! 何これ、どうなってるの」
正方形の小さな窓の中には、見たこともない物体が揺れている。揺らめく小さな球体はまるで……
「あなた、とっくに死んでるよ?見ての通り、ただの人魂に生まれ変わってる」
「はッ、ハァッ!?ひ、ヒトダマって、私、やっぱり死んでる!?」
現実とは思えないあり得ない状況は、怜衣をさらなる混乱へと誘うのであった。