062.賽銭をあなたへ
翌朝、目を覚ますと、隣にルシュの姿はなく、布団はきれいに畳まれていた。外はまだ仄暗く、本格的な一日の始まりまでにはあと半刻といったところだろうか。
服を着替えて部屋を出ると、キッチンの方から軽快な包丁の音が聞こえてくる。
「おはよー、ルシュ。早起きだな」
「おはようございます。アキラさん、でしたよね?」
赤毛のロングヘアの女性がこちらを振り向く——なんだ、天使か……
「昨日は大変お世話になったみたいで、どうもありがとうございました」
「あの……もしかして、バイエンさんの奥さん、ですか?」
「はい。バイエンの妻のスズと申します」
天使にも名前ってあるんだな……
とんでもなく美人さんの少女のような可愛らしい笑顔につい見惚れてしまう。
羨ましいを通り越して怒りすら覚えるほどの綺麗な奥さんじゃなないか……
せっかく仲良くできそうだと思っていたのに、バイエンの野郎……
「た、体調はいかがですか?」
魂の底から滲み出る怒りを奥歯で噛み殺し、スズさんの体調を気遣う言葉をかける。一応俺も、その程度には紳士なのだ。
「ええ、薬がよく効いたみたいで、もうすっかりよくなりました。せっかく来ていただいたのに、ご迷惑をおかけしてしまって……」
「迷惑だなんてとんでもない!」
あなたに出会えただけで十分です。人妻だけど。
「朝から鼻の下を伸ばして何をやっているんですか、あ、な、た?」
「ル、ルシュ!」
突然のルシュの登場に思わず背筋が伸びてしまう。後ろ暗いことは何もしていない。していないけども、ついそうしてしまうのが、男の性ってやつだ。
「か、顔洗ってたのか?」
「不倫は神への裏切り行為ですよ」
「ば、ばかやろう、ちげーよ!」
「やあやあ、おはよう。アキラどんにルシュどん。二人とも朝から元気だなあ」
やんやと痴話喧嘩を始めたところに入ってきたのはバイエンさんだった。
「昨日はゆっくり眠れただか? いやいや、若い二人にそれを聞くのは野暮だったかあ!」
「…………」
「…………」
「あなた!」
「す、すまねえ……」
豪快に笑っていたバイエンさんだったが、スズさんに一喝されて、一瞬でシュンとなる。
奥さんが元気になって嬉しいのはわかるけど、調子に乗ってそんな低俗な話をするもんじゃないよ。ただでさえこっちは、あんたに怒りを覚えているんだからさ。
「さ、朝ごはんにしましょう。もうすぐトリィたちも卵を採って帰ってくるわ。アキラさんもルシュさんも座ってくださいな」
「飯食ったら神社に行こう。それが目的でわざわざこんな村まできたんだもんなあ、アキラどん」
「あら、神社を見に?」
「そうなんです。俺の国にも神社があったので、懐かしくなって。バイエンさん、よろしくお願いします」
元の世界に帰るための手掛かりになるかもしれない——その可能性は高くはないのかもしれないが、ほんのわずかな希望があるだけでもわくわくする。
隣に座るルシュに少しの罪悪感を覚えながらも、俺ははやる気持ちを抑えきれないでいたのだった。
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美味しい朝食を頂いたあと、バイエンさんに連れられてやって来たのは、村の一番奥。背後に広がる森の入り口であるかのように佇む真っ赤な鳥居の前だ。
暖かみのある朱色ではなく、燃えるような赤色ではあるものの、その姿形は俺が知っている鳥居そのものだ。短い参道の先には本殿がポツンと一つあるだけ。日本の田舎にならどこにでもあるような小さな神社だ。
「神社だ……」
「そうだ」
いやいや、バイエンさん。あんたは俺の驚きを本当の意味では理解していないよ。今、俺の目の前にあるのはザ・神社。日本に帰って来たんじゃないかと思うほどのザ・神社だ。
これだけ日本っぽくて何の繋がりも関係もないなんてことがあるだろうか——いや、ない!
否が応でも期待が高まるってもんだ。
で、どうやったら帰れるんだろう?
どうやって手がかりを探せばいいんだ?
まあ、とりあえずお参りでもしてみるか。神託があるかもしれないしな。
「バイエンさん、この神社は何を祀っているんですか?」
「何をって、そりゃあ火の神様に決まってるだよ」
「ああ、そうでしたね」
この世界には四神がいるって話だけど、この国では火の神だけを信仰の対象にしているんだった。神社ってそれぞれ祀っている神霊が違ったりするからうっかりしてたぜ。
「じゃあ、参拝の作法みたいなものってありますか?」
「作法? んなもんはねえだよ。両手を組んで祈るだけだ」
「そうですか。だったら、俺の国のやり方でやってみますね」
まずは賽銭を入れる。ここは奮発して銀貨一枚だ。
次に鈴を鳴らす。神様、日本の神様、聞こえてますか?
そして、柏手を二回打つ。さあ、いつでもいいですよ。カモン!
深く頭を下げて、神託を待つ。待つ、待つ、待つ——
最後に柏手をもう一度——終了。
「珍しいお祈りの仕方だね」
「ま、まあな……」
おかしい……何も起こらない。そんなはずはないはずだ……
奮発したつもりだったが、賽銭が少なかったのかもしれない。
俺は金貨を一枚握りしめ、その拳を賽銭箱の上に突き出し、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、ゆっくりと手を開く。俺の手から零れ落ちた金貨は、別れを惜しむように何度か賽銭箱の上で跳ねて最後の抵抗を見せるが、万有引力には逆えず、ついには賽銭箱に吸い込まれてしまった。
「さあ、これでどうだ!」
俺は再び頭を下げて、神に祈りを捧げる。
しかし、何も起こらない。神託も降りてはこない。スズメがバカにしたかのようにチュンチュン鳴くのが聞こえるだけだ。
ぐぬぬ……
お前ら、ここが稲荷神社だったら、焼き鳥になってるんだからな!
「こ、こうなったら、仕方がない……」
俺は鞄から大きな巾着袋を取り出す。金貨百枚入りだ。神とはいえども、さすがにこれは無視できまい。
「ちょ、ちょっと、アキラ! 敬虔な祈りはいいことだけど、お金で神様を振り向かせることはできないよ!」
今にも金貨を袋ごと賽銭箱に叩きつけようとする俺の右腕にぶら下がりながら、ルシュが必死で俺の暴挙を制止する。
「お、俺はいったい何を……」
ルシュのおかげで正気に戻った俺は、冷や汗を垂らしながら、金貨袋を握る自分の右手を見詰める。
危ない……ドブに金を捨てるところだった……
「助かったよ、ルシュ」
「ほんとだよ、もう! それでどれだけ美味しいものが食べられると思ってるの!」
「え? いや、まあ、うん。ごめん」
そういうところだよ、ルシュ。そういうところが偽巫女疑惑を呼んでいるんだよ。
それにしても困った。神頼み以外全くのノープランだった俺が悪いのだが、他にどうすればいいのやら、皆目検討もつかな——いや、そうなじゃない。あるじゃないか!
思い出せ、俺がこの世界にやって来た日のことを。俺はどうやってこの世界にやって来た? 扉を開けたら、そこは異世界だったはずだ。
「バイエンさん、本殿の中に入ることってできますか?」
「本殿にかあ? 清めをせんと入っちゃあならねえことになってるんだけども、子どもたちもかくれんぼでいつも入っとるしなあ」
「じゃあ、目を瞑っててください。バイエンさんは何も知らない、何も見てない」
「しょうがねえなあ。中のもんには触るんじゃあねえぞ」
「了解ッス!」
本殿の戸に手をかけて目を瞑り、深呼吸を一つ。
そして、目を見開くのと同時に、観音開きの戸を勢いよく開ける。
ただいま!
扉の先には、いつもの見慣れた俺の部屋——というわけにはいかなかった。
「ま、そりゃそうだよな」
さすがの俺もそう簡単に解決するとは思っていなかったよ。ただ、可能性がゼロじゃないなら試してみようかなって思っただけさ。だから全然ショックなんて受けていない。全然ふつう。これは負け惜しみではない。絶対にだ。
それに諦めるのはまだ早い。仮にもこの世界には神がいるとされていて、ここは一応神域とされる場所だ。全ての望みが立たれたわけではない。
その証拠に、目を瞑って耳を澄ますと、ほら、『ズーン、ズーン』ってさっきまで聞こえてなかった音が響いてくるだろう?
「アキラ!」
焦ったようなルシュの声に俺は我に返る。
いかん、ぼんやりしてしまっていた。これは、魔物の気配だ。それもかなり禍々しい。
急いで外に出てみると、バイエンさんが腰を抜かして、神社の奥にある森を見詰めていた。その視線の先には——森の木々の上にひょっこりと顔を出す、巨大な熊の化物がいた。




