054.決断をあなたへ
「父上! ヴィオラ殿は私の妻として迎えたい!」
その行動に、その宣言に、最初は呆気にとられていたノト侯爵だったが、その顔が次第に怒りで赤く染まっていく。
「ヴェルファ! 何を勝手なことを! これはノト侯爵家全体の問題だ。私情を挟むなど——」
「いいではないですか、あなた」
怒声を上げるノト侯爵を穏やかな声で制したのは、ベロニカ夫人だった。
「私は政治の話には口をだしませんけれど、これは単に、息子の結婚相手のお話でしょう? でしたら、ヴェルファの好きにさせてあげましょう」
そしてベロニカ夫人は、もうこれで決まりだと言わんばかりに、手にしていたグラスに口をつけた。
それを見たルファードもワインを一息に飲み干す。
ノト侯爵はなおも何かを言おうとしているが、口をパクパクさせるだけで言葉が出てこない。
「それに、サフォレスのお坊ちゃんも最初からそのつもりだったのでしょう?」
「さすがでございます、ベロニカ様」
ベロニカ夫人の言葉に、マリアンネ支部長はニコニコ笑顔のまま立ち上がって、恭しく礼をした。
俺はもはやこの展開についていけていない。ルシュはついていけているのか、いないのか、それともついていく気もないのか、ワインの香りを楽しみながら微笑んでいる。
混乱を生んだ張本人であるヴェルファは、嬉しいやら、恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、突っ立ったままオロオロとしている。
「ベロニカ様が仰られたとおり、ローデンス様は、ヴェルファ様とヴィオラ様のご成婚を望んでおられました」
「か、彼は、私を試した、というのかね?」
「そうではございません、閣下。ローデンス様がお試しになったのは——」
マリアンネ支部長の視線の先には、いまだに突っ立ったままのヴェルファ。
彼はみんなの視線が自分に集まっていることに気づくと、所在なさげに黙って着席した。
「兄馬鹿だとは聞いていたが、まさかここまでとはな」
そう言って笑ったのは、ルファードだった。
彼の言葉でようやく俺も事態を少しだけ飲み込むことができた。
すべてはヴェルファの気概を確かめるための壮大な茶番だったというわけね。
俺なんてそのために樹海縦断までさせられたんだぞ。妹愛を拗らせ過ぎだろ……
「さて、ヴェルファ様とヴィオラ様のご成婚が認められたときにお伝えするようにと、ローデンス様から言伝をお預かりしております。ここでお伝えしてもよろしいでしょうか?」
マリアンネ支部長は、その笑顔をノト侯爵に向ける。その目は彼にワインを、つまりは話を飲めと訴えている。
ノト侯爵はしばし瞑目した後、思い切ってグラスを呷り、ワインを飲み干した。
「ローデンス殿は何と?」
「では、失礼いたします。あー、あー、んッ」
急に咳払いなんか始めて何やってんだ、この人? と思ったところで、俺は味噌汁を噴いた。
「我がサフォレス家とノト家は最も近しい家族だ。家族に危機があれば、私は必ずその力になろう——そのように仰っておられます」
その言葉を聞いたノト侯爵は、目頭を抑えて言葉に詰まる。そして「ありがとう、ありがとう」と肩を震わせ始めた。
サフォレス公爵家をとるか、レシーノ公爵家をとるか——よほど苦しい決断だったのだろう。
一度はレシーノ公を取ることを選択した。サフォレス公を敵に回す覚悟で。しかし、それは許されたのだ。いや、許すも何も、ローデンスは最初からノト侯爵の困窮を救うつもりだったのだろう。そのことに気づいて、ノト侯爵は安堵し、歓喜しているのだ。
気持ちはわかる。わかるけれども、釈然としない。
なぜ声真似をする必要があった? なぜ誰もそれを気にしない?
しかし、そんな俺の疑問をよそに、話はなおも続く。
「さて、侯爵閣下、ローデンス様はヴィオラ様の結納の品として、赤貨三百枚を持参させたいとの仰せです」
「三百枚!」
いや、一番関係ない俺が一番驚いちゃってすみません。でも、日本円にしてざっくり三百億円ぐらいだよ? 結納金って額じゃないでしょ。
その思いは当然皆同じなのか、俺が驚いたことに驚かないほど、その金額に驚いている。
「し、しかし、我が家には、それに返礼できるだけの財力は……」
「返礼は不要とのことです。ただし、使途を限定させていただきたい、と」
「なるほど。その金でレシーノ公爵家との縁を切れ、ということかな?」
そう言ったルファード次期侯爵の視線は鋭く尖っている。自分の妻がレシーノ公爵家の出身なのだからそれも当然だろう。
「縁を切るのではなく、歪な関係性を改めるべきだ、と。ローデンス様はノト侯爵領の経済的な独立を願っておられます。そもそも、レシーノ公と縁を切ることや敵対することなど考えてはおられません。ローデンス様は、サフォレスとレシーノは今でも兄弟だと思っていると、いつもそう仰られております」
フレイミア帝国成立当時、皇帝となった長兄を助けるため、北の護りと南の平定の任にそれぞれついた二人の弟たち——それが後の二公爵家だという。ローデンスはそのことを言っているのだろう。
「ふふ、理想家なのね。それとも、懐古主義と言った方がいいかしら」
マリアンネ支部長の言葉に反応したのは、ネメシア夫人だった。ローデンス卿の思惑を一番面白くないと思っている人物がいるとすれば、それは彼女だろう。
「いいえ、ネメシア様。ローデンス様は未来志向の現実主義者でいらっしゃいます。叶いもしない絵を描こうとするお方ではございません」
上級貴族相手であっても少しも臆することなく、きっぱりと言うマリアンネ支部長。
次期公爵夫人はその笑顔をしばし見つめていたが、やがて表情を綻ばせ、ワインに口を付けた。
これで、侯爵家の全員がワインを飲んだことになる。
「そうですわね。私がお会いしたときにも、とても野心的な印象を受けましたもの。次代を担う殿方はそうでなくてはなりませんね。ねえ、あなた?」
「あ、ああ。そうだな」
ルファードは奥さんが恐いのかな? ノト侯爵もそうだし、ヴェルファの印象もそうだけど、ノト家の男性陣はみんな奥さんの尻に敷かれるタイプっぽいな。
「よろしいですわ。このことは私が父に、いえ、父ではもうダメね、兄にお伝えしましょう」
「き、君はそれでいいのかい、ネメシア?」
「もちろんですわ、お義父様。こちらに嫁いできたその日から私はとうにノトの人間です。ノト侯爵領の利益につながるのであれば、何だっていたしますわ」
「ありがとう、ネメシア。そう言ってもらえて嬉しいわ。それにしても——」
ネメシア次期侯爵夫人に柔和な笑顔を見せたベロニカ現侯爵夫人は、その表情を一変させて、怪訝な顔をマリアンネ支部長に向けた。
「ねえ、マリアンネ。あなたはずいぶんとローデンス殿と近しいようですけど、冒険者組合が特定の貴族に肩入れをすることは禁止されているのではなくって? それにあなたは、仮にもノト支部の支部長でしょう?」
「恐れながら、ベロニカ様。政治的依頼案件の処理については、支部長にその全権を委ねられております。その上で、私はノト支部長として、御依頼主、組合、そしてノト侯爵領のすべてに利があると確信して、この件の処理に当たっております。それに——」
「それに?」
「私は特定の貴族に肩入れをしている気など毛頭ございません。ただ、特定の男性に肩入れをしているだけでございます」
これまでの毅然とした態度とは一変して、マリアンネ支部長は年相応の女性らしくはにかんだ。その表情に、俺は初めてマリアンネ支部長の本当の笑顔を見たきがした。
マリアンネ支部長がやけにサフォレス公爵寄り、いや、ローデンス寄りだとは思っていたが、そういうことだったのね。
「あら! とてもわかりやすい理由で清々しいわ。でも、マリアンネ、あなたはイザダフ男爵家の出身ではなかったかしら。公爵家と縁組するには少々厳しいのではなくって?」
また序列の話か。マリアンネ支部長然り、ヴィオラ嬢然り、序列に、しがらみに、風習に。惚れた相手と結ばれることがこれほど困難な貴族社会というのもなかなか世知辛いものだな。
「どこかに養女にしてくださる物好きな上級貴族がいらっしゃればいいのですけど」
「ふふふ。あなたが仕事に一生懸命な理由がやっとわかったわ。いいわ、別室でお茶にしましょう。ネメシアと二人でたっぷり話を聞いてあげるわ。よろしければ、ルシュさんも。あなたたちの話もぜひ聞いてみたいわ。あとの難しいお話は、殿方だけでお願いしますわね」
「お、おい……」
完全においてけぼりとなっていたノト侯爵の力ない制止で止めることなどできるはずもなく、侯爵夫人は、恋バナに花を咲かせるべく女性陣を引き連れて部屋を出ていってしまった。
残されたのは、男性陣となんとなく気まずい沈黙——
一人は、いつものことだと達観した様子で黙って酒を飲み、一人は、のぼせたような表情で天井を見つめている。そしてもう一人は、事態の急展開に困惑し頭を抱えている。
全く関係のない俺でさえ、座っているだけでこれだけ疲れ果てたのだ。当事者の彼ら、ましてや責任者たるノト侯爵の気苦労は察するに余りある。
「……飲もうか?」
長い長い沈黙の後、ノト侯爵が絞り出したように発した言葉に、残された一同は頷きをもって答えたのだった。
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