ドアマットヒロインなぞやっている暇はございません
ストレス解消に書きました。読んでくださった方のストレス軽減にもなれば幸いです。
沢山の誤字報告ありがとうございました。沢山過ぎて申し訳ありません。
バシャーッ!
手桶の水が勢いよく頭から掛けられた。髪に、服に染み込んでいく。同時に鼻に届く不快な匂い。
「まったく、掃除の一つもまともにできないなんて情けない」
「お義姉さまには雑巾水がお似合いですわ!」
そんなことを言われましても、昨日まで侯爵家の跡取り娘として育てられてきたわたくしが、掃除のやり方なぞ知るはずもありません。そもそも、何故わたくしが突然現れた父の愛人と娘にこのような目に遭わされているのでしょう? まるでこれではドアマットヒロインのようではありませんか。
あら? ドアマットヒロインとは何でしょう?
玄関の靴拭きのように心身共にボロボロに虐げられる令嬢、ですか。どこからこんな知識が出てきたのでしょう?
座り込んでいるわたくしの頭上からは先程同様の嘲笑がかけられておりますが、考え事の邪魔ですわね。
ポタリポタリと髪を伝わって落ちる水滴をなんとはなしに眺めておりました。髪から服から落ちた水は流れて石作りの床に、やがて廊下の中央に細く長く伸びる絨毯へとゆっくりと染み込もうと……。
「何いつまでもボンヤリしてるのよ!」
そう言いながらわたくしを今にも蹴りつけようと向かってきた愛人の娘の足を咄嗟に掴んで、気付けば叫んでおりました。
「何やっとんじゃはそっちや! こんなとこで水ぶち撒けるとか阿呆ちゃうんか! 自分、絨毯、どんだけするか知っとんのか!? 弁償させんぞ、こらっ!」
そのまま掴んだ足を更に引いて、相手の着ているドレスの裾で絨毯を忙しく叩きます。
「シミになったらどないすんねん!」
ゴツンと何かがぶつかる音がしまして何やら泣き声が聞こえますが、知ったことではございません。怒りのまま絨毯を叩いている内に、頭の整理もついたようで。
どうやら。わたくし異世界転生者だったようですの。
水を掛けられた衝撃で記憶の蓋が開き、絨毯が染みになるかもという前世でのトラウマにピンポイントで刺さった事で明瞭に思い出したのです。……前世のわたくし、一体何をやらかし……あ、この記憶は埋めて置くのが吉、と。了解です。
ただ、思い出したとはいえ、あくまでも現世で十二年生きてきたわたくしが主体であり、前世の記憶は脳内で質問に答えてくれるバーチャル・アシスタントのよう。先ほどの罵倒はその助言によるものですが、淑女が口にするようなものではありませんでしたわね。恥ずかしいわ。
ところで絨毯なのですが、客間の近くですから染みが落ちなければ全部取り替えになるかと。わたくしに水を掛ける事を許す訳ではありませんが、場所を選ぶ頭もないなんて気の毒になってしまいます。だって、あの方たちに支払い能力があるとは思えないのですもの。
それにしても、ドレスの裾は水を吸い取りにくいものですわね。……あら、そう言えば。わたくし魔法が使えるのでしたわ。魔法のない前世の記憶が蘇ったことで混乱していたようです。ではクリーン魔法で絨毯をきれいに。ついでにわたくし自身にもクリーン。そして使っていたドレスにも……。
「あら、このドレス、わたくしのですわね? 子豚に着られてしまっては、もう捨てるしかないですわ」
「誰が子豚よっ!」
「あなたの事ですわよ、もちろん。ほらこんなにぽっちゃりされて。歳が近いからって、サイズが違うのですもの。わたくしのドレスを無理矢理お召しになるから脇が弾けて破れてしまっているではないですか」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
躾のなっていない子供のように地団駄踏んでいらっしゃる子豚さんは、わたくしの義妹なのだそうです。父が昨日そう言っておりました。子豚さんはわたくしより半年後に生まれたそうですが、その年齢差に父の妊娠中の母への思いやりの無さが表れております。本来我が家に引き取る筋合いのない方なので、これまで存在は知っていても顔を合わすこともない相手だとしか思っておりませんでした。小遣いの範囲内であれば、と母と目こぼししていたのですが。何しろ、わたくしの父は婿養子ですので。
ドアマットヒロインでもうお分かりかと思いますが、先日、侯爵家当主であった母が亡くなりまして。それからまだ十日も経っていないのに昨日いきなり父が愛人と子供を我が家に連れ込み、まだ母を喪った悲しみの中にいて状況が理解出来ないままのわたくしを部屋から引き摺り出して屋根裏部屋に閉じ込めました。そして今日になって食事も与えられずに襤褸を纏わされ、下女のように扱われたのです。まさにテンプレという、それですわね。
確かに先程迄は現実感もなく呆然とするばかりで、大声での罵倒や暴力に怯えて抵抗も出来ずにいました。ドアマットヒロインらしくそのまま流されて味方を奪われて、まだ子供だから外に逃げることも助けを求めることも出来ずに、心を折られて何年も良いように使われるとか、冗談ではございません。それは本来のわたくしではございません。
水のおかげで目も覚めたことですし。正当性は我にあり。思い上がった愚物にはきちんと上下関係を教えてさしあげないと。まずは、身の程知らずの愛人女からですわね。
「まあ、こんなところに汚物が! 大変ですわ、綺麗にいたしませんと!」
背伸びして愛人女の顔に雑巾を押し付け、そのままゴシゴシしてさしあげます。
「何をするの!」
残念ながらあちらはとっくに成人済みの大人でこちらは子供。あっさり振り払われましたが、
「『風護』」
自分の身体を魔法で守りましたのでこちらに被害はございません。それよりもあちらのお顔、お化粧がどろどろになって、道化師のようですわ。よくお似合いですこと。
「『風圧』」
風魔法の威力を上げて、愛人女を壁に貼り付けてさしあげました。そして先ほどより気になっていたことを指摘して差し上げることにいたしました。
「おまえ、汚物の分際で誰の許しを得てお母様の宝石やドレスを身に着けているの!? それは次期当主であるわたくしの管理下にあるものと知っての事ですの? 返して貰いましょう。『風操』」
魔法の制御は得意ですのよ。ピアスを左右共に引いてわたくしの手元に。魔法を使わないと背が届かないのですもの。両の耳朶が裂けたと泣き喚いているけれど知ったことではないわ。ネックレスは流石に引き千切る事などできないから、きちんと金具を外すよう風を操りましてよ。
「指を切り取られたくないなら、指輪は自分で外して寄越しなさい」
魔法で簡単に指を落とすことはできますが、それをすると廊下も絨毯も汚れそうですしね。それに欲張って両の親指以外に嵌めておられたものだから、指が親指だけになってしまうのはさすがにお嫌でしょう? と教えて差し上げたら、震えながら返してきましたわ。
それにしても、と衿ぐりの大きく開いたドレスと取り返したアクセサリーにため息が出ます。
「まったく、ドレスやアクセサリーの選び方も知らないなんて。よいこと? おまえが今着ているのは夜会用のものです。家の中はもちろん、他家に招かれた場合でも着用はしません。日中は肌を極力晒さないのが淑女というもの。アクセサリーもですわ。日中は真珠や珊瑚、翡翠などの光らない物を選ぶのが常識。特に家の中では小振りのものをひとつかふたつ選ぶ程度。今まで縁がなかったものに手を出すからそうなるのですわ。例え侯爵家であってもそのルールに従うのが常識。好む好まない、ではありませんのよ」
さてアクセサリーは回収できましたけれどドレスはどういたしましょう。わたくしひとりでは脱がせられませんから。でも、お母さまの物をいつまでも着たままにさせておく気もございません。
「『風切』。糸を切らせていただきました」
バラバラとパーツに分かれて愛人女が纏っていたドレスが床に落ちていきます。縫い直させれば元通りになるでしょう。
「わたくしはこの家の次期当主なのですよ。代々血によって受け継がれた魔力を自在に操れるよう母より指導を受けて参りました。我が家が得意とするのは風魔法。まだ見せていない魔法もございましてよ。もっとその身に教えて差し上げましょうか?」
壁に貼り付けられた上、ドレスも奪われて下着姿のまま震える愛人女は、言葉もなく首を振ります。次は髪でも切ってやろうかと思っていたのですが存外素直ですのね。余計なことをするからこんな目に遭うのです。自業自得ですわ。
「お嬢様! 遅くなって申し訳ございません!」
執事がわたくしの元まで駆けつけてまいりました。本当に遅いんですのよ。彼は一昨日より領地との連絡で邸にいなかったのです。彼がいれば父の愚行を止められたでしょうに。
「お前の留守を選んでお父様が連れ込んだこの汚物はお父様の愛人らしいのだけれど、お母さまの物を勝手に持ち出す手癖の悪い害悪です。始末しておいて頂戴。
子豚の方はそうね、親を選べず教育されていない哀れな身の上には違いはないから、己が分際を弁えさせた後、領内の孤児院に送りなさい。その際には寄付を忘れないように」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
愛人女は大人なのだから自分の行動に責任を持たねば。そのまま邸から放逐されるだけで済むのか、売り払われでもするのかはもう、わたくしの手を離れたのでどうでも良いこと。子豚はわたくしと歳が変わらない子供だから、まだ矯正の余地もあるでしょう。バランスの取れた粗食と労働でダイエットに励んでもらって。上下をきちんと身に教え込んでおかないと逆恨みしそうだから芽は刈り取ってからの放逐にせねば。更生の機会を与えるだけ慈悲深いと受け取れるように躾してくれるよう、というわたくしの意図は執事に伝わっているはず。上手く洗脳……教育できれば使える駒になるやもしれないし。
「そういえば元凶のお父様、いえ、不良債権と化したわたくしの生物上の父親はどこにおりますの?」
「執務室でございます」
「執務室になどいたところで、書類を捌くこともできないでしょうに」
侯爵家を動かしていたのはお母さまとこの執事。わたくしも最近は任されることが増えておりましたが、能力に期待されずにいた父にはほとんど仕事を回しておりませんでした。回したところでアテにできないのだから当然でしょう。
「通告をして参ります。そうね、四半刻ほど経ったら捕縛のための騎士を寄越して頂戴」
後は執事に任せて大丈夫。彼は先代からの家に忠実で有能な人物だから。わたくしが道を外さない限り見捨てられることもない。
その足でノックもせずに執務室に入りこむと、当主しか座れない席についてご満悦の愚父がいた。
「ごきげんよう。昨日までお父様だったクズ野郎?」
「侯爵たる私に、何という言いよう。やはりお前に侯爵家は任せられん!」
「『風沈』」
この程度の煽りに簡単に乗ってくるようでは貴族社会で生きていけませんわよ。少し教えてさしあげないと、と声が出ないようにしてさしあげました。空気が振動しないと音になりませんでしょう? 風魔法って本当に使えますこと。
「それを決める権利はお父様にはございませんよ? あなたは侯爵家当主であったお母様の配偶者に過ぎません。既に貴族院にはわたくしが後継者であると届けられております。成人するまでの後見人も叔父様が指名されておりまして、数日内にこちらに来られる予定ですわ。もうあなたの出る幕などありませんの。
あなたの仕事はわたくしが生まれたことで終了しておりますもの。種馬の分際で当主になれるなどと、何を思い上がったのやら。そもそも伯爵家の三男だったお父様は魔力量が少なすぎて当主を務めるだけの器ではありませんわ。『風圧』」
愛人にしたのと同じように壁に貼り付けてさしあげました。お揃いですわね。ご自分とわたくしの魔力量の差を思い知っていただけまして? 次いで、徐々に父の周りの空気を薄くしていきましょう。脳に酸素が供給されなくなったら、どれほどで意識混濁したかしら。どの道、父にはもう先はございませんけれど。
貴族家当主には、水晶に魔力を込めたものを地位に応じた数を国に納める義務がございます。これが第一の責務ですの。その水晶は王宮にある結界魔道具に使用するのが主ですわね。魔獣や外敵から国を守らねばなりませんもの。他国では常に現れるかもわからない聖女ひとりに負担をかけたりしているようで合理性に欠けますわね。
我が国では、男女関係なしに第一子を跡取りと定め、以降に生まれた子供は当主により生まれ落ちてすぐに魔力の封じが行われます。それにより行使できる魔力は本来の四分の一程度。その圧倒的な魔力量の差があるために他国と違って後継者争いが起こることはほとんどございません。後継者は幼い頃から当主直々に代々血によって継承されてきた魔法を学び受け継ぐのです。次子以降の魔力が封じられているだけなのは、死亡ないし病気や事故で後継者がその役目を果たせないと判断された時にスペアとして復活させる可能性があるからです。封じた当主にしか封印の解除は叶いません。
稀に当主死去後に後継者に難があって結果的に家の存続ができなくなることもあるそうですが、この慣例が覆るほどの件数もないので改められることはないでしょう。他国のようにお家騒動が頻発することに比べたら微々たるものですし。
そういった教えも後継者のみに授けられます。わたくしも幼い頃より厳しい魔力制御と共に教えられて参りました。水晶に魔力補填ができるようになれば次期当主として準備ができたと貴族院に報告もされます。わたくしのことも先年既に報告済みですわ。
わたくしに何かあった場合は、隠居されているお祖父様が叔父様の封印を解いて今から再教育という道になるでしょう。これまで魔力を封じられていた叔父様にも子供はおりますが、魔力を封じられた状態で成された子供は生まれつきの魔力も多くありませんので次期後継者にはできません。その場合、新たに子供をもうけねばならないでしょう。そうなると家庭内でも荒れそうですわね。もっとも、わたくしがこの座を降りることはございませんので、これは万が一の仮定のお話に過ぎませんけれど。
「これは考えも無しにお家乗っ取りを企んだ罪人です。王宮に連絡して指示を待つ間、牢に入れておきなさい」
指示通り執務室に現れた複数名の騎士に父の捕縛を命じて退去させて、ようやく息が付けます。わたくしが成人しておれば家内のこととして処理することも許されますが、後見人の到着前であっては判断を仰ぐしかありません。ちなみに侯爵邸の地下には罪人を留め置く牢が勿論ありましてよ。
「お嬢様、湯あみとお着換えをなさってください!」
侍女長がわたくしの様子を見て悲鳴をあげます。彼女も愛人女に従わなかったからと、今まで部屋に閉じ込められていたと執事からの報告がありました。
「そうするわ。ああ、朝から何も頂いてないから軽食の用意もお願い」
自室へと移動しながら、騎士に邸内を見回らせて、他に閉じ込められたり、この隙に家財を持ち出した者がいないか等調べるよう指示を出していきます。
「叔父様が到着されるまでに元通りにしておかないとね」
愚父はまったく余計な手間を増やしてくれたものだけれど、この機に当主交代の隙を突いて利を得ようと画策する者がいないか調査する良い機会かもしれないわ。不穏分子の炙り出しに使うことにしましょう。
次期当主となるわたくしには、ドアマットヒロインなどやっている暇は、本当に少しもございませんのよ。
一日たりともドアマットヒロインなぞやっていられるか、と反発を食らいました。
この国には聖女は必要ありません。属性に関係なく水晶に込められた魔力を使用して王族が統治と管理をしています。
読んでいただいてありがとうございます。
追記。
設定に関しての疑問質問等にお応えしていましたら感想返信が設定補完のようになっております。お時間ございましたら感想欄もご覧いただけますよう。
……こんな短い話に設定盛り込んだ私のせいですが。
だって設定考えるのって楽しいからつい。後付けも多いですが。