三の辺 転変/Transform 前編
「一の辺 目標」の最後で出てきた
高校時代の同級生の女の子からの視点です。
私はいつも人の顔色ばかり見ていた。
いい子でいなきゃダメなのだと、幼い私はそう信じ、
怒らせてはいないだろうか、
悲しませてはいないだろうか、
期待に応えているのだろうか、
そんな事ばかり気にしてた。
誰かが悪いわけではない。
偶然と必然の積み重なりが私にそう信じさせた。
それだけだ。
親は私を愛してくれる。
他のどんな親よりも子供を想ってくれている。
私はそう感じているし、今でもそう信じてる。
私が私らしくあるよう色んな事を配慮してくれて、親の参加行事には父か母のどちらかが必ず参加をしてくれた。
けれど、私と親の間に血の繋がりは存在しない。
今ではそれは重要でないと頭も心も分かってる。
だけど幼い頃に偶然その事を知った私は、そんな風には考えることが出来なかった。
私は他の子とは違う。
もらわれてきた子供だから、きっといい子でなくなった時はどこかに返されてしまうのだと、そう信じてしまっていた。
親に聞けば良かったのだろう。
聞けば悲しんだだろうけど、叱り諭し「それは違う」と、私の不安を取り除いてくれたと、今の私はそう思う。
私は私の誤解を解けずに、いい子の重しを背負ったままで中学生になっていた。
周りに合わせ笑うこと。
教師とうまくやっていくこと。
突出し過ぎず何事も上の真ん中あたりにいれば、親にはいい子と思われて、周りは嫉むこともない。
そんな下らないことばかりどんどん上手くなっていた。
そんな私を変えたのはたった一つの出来事だった。
仕事で出ていた母親に食事に行こうと誘われて、約束の場所に行く途中に電車でつい寝過ごしてしまった。
慌てて電車を降りてはみたがそこは知らない場所だった。
それだけならば戻りの電車に乗って戻れば良かったのだが、連絡しようと思い立ったとき、車内にバックを忘れたことに気付いてからはダメだった。
母にもらった大事なバック。
あれを無くすわけにはいかない。
だけど母との約束に遅れる事も許されない。
連絡する手段もなく、何から手を付けいいのか、軽いパニック状態になり、しゃがみ込んで泣きそうになった私に、声をかけてくれた人がいた。
怪訝そうな顔をして、「大丈夫か」と言葉をくれた、同じくらいの年頃の男の子。
逆立てた黒い前髪に白と黒のパーカーに黒のズボン。日も暮れて、辺りの電灯が灯り始めたぐらいの薄暗い時間に突然現れたその男の子に、私は僅かに恐怖を覚えた。
たった一人で見知らぬ場所にいたから、ということもあったからかもしれない。
「大丈夫です」
反射的にそう返したものの震える身体は止められず、きっと彼じゃない誰かが見たとしても、大丈夫には見えなかっただろう。
彼も当然そう思い、ため息を一つ吐き出すと、
「いいからあそこにまず座れ」
と近くのベンチを指差した。
言われるままに座った私は、無言で彼が差し出した紅茶の入った飲料缶を反射的に受け取っていた。
手にしたそれをどうすればよいのか、悩み見つめていると、彼は自分の手にある飲料缶のプルタブを開けて、私の手にしたものと交換した。
そこまでされて、ようやくこれを飲めばいいのか、と手にした紅茶缶に少し口をつけた。
今思えば、本当に何も考えられなくなっていたのだと思う。
「少しは落ち着けたか」
と問われ、自分の狼狽が恥ずかしくなり、とにかく一つ小さく頷く。
後はとにかく彼のペースで、どうして自分がうろたえていたかを全部話すことになった。
「親の番号覚えているか?」
私が話を終えると、彼は最初にそう言った。
自分の電話番号は頭に記憶してるが、親の電話番号はスマートフォンと手帳に記録があるだけ。
普段意識しないから記憶は少しも残ってなかった。
その後彼は駅員を呼び、遺失物の届け出をする。
連絡先には家の電話番号、それからすぐに見つかったならと、彼の電話番号を書いてくれた。
「あと、メモ用紙一枚もらえますか」
駅員さんにそう言ってもらった紙に、さっきと同じ彼の電話番号とメールアドレスを書くと、そのメモを私に差し出した。
「基本俺から連絡するけれど、これは念のため。あと、もしも今日、俺にだけ連絡がきても、そっちに状況が伝えられるように家の番号とか教えてもらえる?嫌なら無理にとは言わないけど」
私は頭を振ると、彼に私の家の電話番号を伝え、彼はスマートフォンにその番号を控えた。
バックを探す手配を終えると、母親を待たせているのならのまずは母親の元へ行こうと、彼は私の手を掴み、さっと電車に乗せてしまう。
未だ頭は混乱し、自分が何をしているのかもまともに自覚できないままに電車に乗ってしまったが、電車に揺られ時間が経つうち、それまで考えないようにしていたことが徐々に内から湧き出してきて、目的地となる駅に着く頃、私はまた震えだしてた。
「何かまだ不安なのか」
彼が顔を覗き込むように優しく声を掛けてくれて、優しい声であったからこそ今の私はそれが辛くて、心に積もり積もってた今の不安が溢れ出し、涙を抑えられなくなった。
目的の駅で電車を降りると、彼は私をホームのベンチに座らせて、とにかく少し落ち着くまではと、じっと待ってくれていた。
そうして私が涙を拭いて
「ごめんなさい」
と小さく言うと、
「話せるのならちゃんと話せ。出来ることならやってやる」
ぶっきらぼうにそう言って、私が話し始めるまではもう一度黙り込んでしまった。
こんなことを話したら、呆れられて嫌われて、放っていかれるかもしれない。
そんな不安もあったけど、それでもこうして待ってくれてて手を差し伸べてくれてるのだから、ちゃんと話すことこそが気遣ってくれたことに応えることだと、そう思った。
だから、私が幼い頃からずっと一人で誰にも言えずに抱え込んでた「いい子」でいなきゃいけない不安を彼に話すことにした。
彼は話を終えるまで笑うでもなく怒るでもなく、じっと考え込むようにずっと黙り込んでいた。
そうして話し終えたとき彼は無言で立ち上がった。
やはり呆れられ、放っていかれるのかと思ったけれど、それも予想の内だからそれならせめてちゃんとお礼だけはと、立ち上がろうとして目線を上げると、私を見つめる彼の目線に気付いた、
「待ち合わせ場所までとにかく行くか」
先程まで浮かべていた難しい表情は、いつの間にかどこかに消えていて、彼は優しく微笑んでくれていた。
私は母の元に行くのがとても不安になっていた。
約束の時間に遅れてしまい、遅れることを連絡もできず、せっかくもらえたスマートフォンも今は手元に持ってない。
歩きながら彼に伝え、出来れば今は行きたくないと必死で伝えてみたけれど
「とにかく行けば分かるから」
と、彼は聞いてはくれなかった。
「もしも何か言われても俺のせいだと言ってやるから、あんたが気にすることはない。
だけどそんな心配は絶対意味ないって思うけどな」
彼は笑ってそういうけれど、私の不安は消えなかった。
彼は私と違うのだ。
私が抱える不安なんて結局誰もわからないのだ。
私の想いは言葉になっていたのか、不意に彼は立ち止まると急に真面目な顔になって、
「親はどこまでいっても親だよ。
俺はまだお前のことよく知らないけど、それでもさっき話を聞いてて思ったことがある。
お前が不安に思うのは、親が大好きだからだ。
捨てられることが怖いんじゃない、離れることが怖いんだ、
お前がそんな風に思う、そういう親がお前の親だ」
「捨てられるって思うこと?」
「離れたくないって思うこと」
いまいち彼の言うことがそのときの私は分からなかった。
離れたくないと私が思うと、どうして大丈夫なんだろうか。
私が「いい子」でなくなったなら捨てられる事実は変わらないのに。
けれど彼はそれ以上私に話しかけなかった。
代わりに震える私の手をずっと握り締めててくれた。
約束の場所に到着したのは待ち合わせから2時間も過ぎ、母は私を見つけた途端、顔をしかめて駆け寄ってきた。
その表情にやはり怒ってるのだと思っていた私は、次の瞬間母に抱きとめられていて、何が起きたのか理解が追いつかないでいた。
「良かった」
という母の言葉に、何がなんだか分からないまま、それでも涙が溢れ出てきて
「ごめんなさい」
それだけが私に言えた言葉だった。
「待ち合わせをしていたのに遅くさせて、ご心配をおかけするようなことをしてしまってすみません。
僕のせいで彼女が電車に荷物を置き忘れることになってしまって、それを探してるうちにこんな時間に。
待ち合わせがあったことを知らず、要領が悪く、ずいぶん長く引っ張りまわして遅くなってしまいました」
申し訳ありませんと頭を下げた彼を見て、「それは」といいかけた私より前に母が先に「ありがとう」と一言お礼を言っていた。
「何かトラブルがあったことはこの子の様子で分かります。ちゃんとここまで連れてきてくれて、この子を無事に連れてきてくれて、本当にありがとう」
「せっかくの時間を台無しにしてすみませんでした。
それじゃ、僕は失礼します」
母と彼のやり取りになぜか私は何も言えず、ただ、母が震えながら握り締めてた手の温もりが、私の心の中までも温かくしてくれていた。
「離れたくない」と思うのは私が親を愛しているから。
「離れたくない」と思うのは親が私を愛しているから。
血の繋がりは関係ない。
想ってくれるその事実だけが私の不安を消し去っていた。
それが私を変えてくれた、たった一つの出来事だった。