第81話 アリアドネの糸
鷲津茜という人物を分類するとしたら、断れないタイプの女であった。
仕事のことばかりではない。スーパーに買い物に行けば、二つセットで398円とか書かれている商品を確実に二つ買ってしまう。美容院に行ったりしてもそうだ。髪色をミルクティーピンクに染める予定が何かをしくじって野良猫オレンジに染め上がってしまったときでさえ、文句を言えなかったばかりか、長いつきあいの美容師に「前回と同じにしますか?」とすすめられると「はい」としか言えず、もう五年くらいオレンジ色の頭で過ごしている。冷蔵庫のなかにはいつも食べきれない8個入りヨーグルトが16個あった。
彼女は高校を卒業したばかりで右も左もわからない宿毛湊に狩人の仕事を教えてくれた恩人である。明るい性格で面倒見がよく、尊敬できる人物ではあるのだが、どうにも見逃し難い唯一の欠点がそれであった。
新人狩人の的矢樹の教育係を引き受けたのも、おおよそその性格の良さ、押しの弱さに起因するものであった。
東京本部に配属されたばかりの新人狩人は、生来の気難しさを遺憾なく発揮していた。遅刻早退はあたりまえ、敬語もできないし敬意もない。まさにイマドキの若者なのだった。
早朝から空き家調査の予定が入っていたその日、的矢樹は現場に現れなかった。
調査対象の古いアパートに到着すると、鷲津茜はすでに現場入りしていた。
しかし彼女は明らかに今日の仕事以外のことで何かを思い詰めた目つきをしており、勤務時間になっても煙草を咥えていた。
新人は待てど暮らせど現れず、十五分オーバーしたあたりで茜がぽつりとつぶやいた。
「私さ、的矢くんもう無理かもしんないわ……」
それは後輩の育成に悩む人物にありがちな台詞ではあったかもしれない。
しかし最新のゲーム機がもらえますよと言われ、新聞三社、クレジットカード五枚を契約した女から出るとなると異常である。
まだまだ新人気分が抜けきれない宿毛湊は少し緊張しながら「すみません」と口にしていた。
「茜先輩が教育係だからって、任せすぎにしてました。遅刻や勤務態度の件、俺からも注意すべきだったかもしれません」
「いやいやいや、宿毛君は間違ってないからね。あくまでも指導の責任は引き受けた私にあるし、君まで叱る側に回ったらよけいこじれるかもしれないでしょ。でもさ、この間、的矢くんに、仕事に来れないときは何があっても連絡だけはしなさいって言ったじゃない?」
「……はい」
また無断欠勤か、と宿毛湊が早合点して肩を落としかけたとき、鷲津茜はスマホの画面を示した。
「来たのよ、連絡」
「……えっ?」
「しかも動画つき」
「動画?」
鷲津茜が動画を再生すると、そこにはにこやかに笑う的矢樹と、見知らぬ街の風景が映っていた。建物や景色は、どこかヨーロッパの洒落た通りに見える。石畳の道を黒いコートを着こんでシルクハットをかぶった人々が足繁く行きかっていたが、その頭部は人間のものではない。ある者は本、ある者は懐中時計、ある者は薬缶など、異形の頭なのだった。
動画内で的矢樹は何かを喋っているのだが、支離滅裂な言葉の羅列にしか聞こえない。かろうじて聞き取れたのは「城崎の天気は晴れです」だった。かなり異常な映像である。
「どこなんですか、ここ……」
「わからない。たぶんこの世ではないと思うけど、どうやってこの動画を撮ってるのかさえわからない。さすがあだ名が『神隠し』なだけあるわ……。これ見たらもう、他の霊能力者とか子供の遊びに見えてくるよね」
鷲津茜は驚きを通り越して感心していた。
「ハイレベルすぎて茜先輩ももうどうしたらいいかわかんなくて、あと三十分連絡なかったらもう自衛隊に通報しようと思って」
「自衛隊で何とかしてくれますかね」
「きっと私達の税金を銃と弾に変えて異形頭と戦ってくれるよ。そう信じるしかないしさ……」
鷲津茜は笑ってみせたが、やや引きつった頬のあたりに「無理」と書いてあった。
そのとき、茜の目が目ざとく何かを見つけた。
「あれっ、宿毛くん、めずらしいね。糸くずついてるよ」
そう言って宿毛湊の肩に手を伸ばす。
その肩口には、五センチくらいの青い毛糸の先が見えていた。
「あ、それは……」
茜がその糸くずを引っ張ると、するりと10センチくらいに伸びた。
しかもその先は宿毛湊の肩の向こうに消えている。
「ん? なんだこれ?」
「すみません、これも何か怪異だと思います。朝からずっとあって……」
理解不能な後輩に悩んでいる鷲津茜に言いだすのは何とも言えず申し訳ない気持ちがしたが、隠していても仕方がない。
「起きたときからずっとあるんです。引っ張ると、何かが反対から引っ張り返す感触があるんですけど、何度やっても抜けてしまうんです」
「あっ本当だ」
鷲津茜は毛糸を引っ張ると、何もない空間で途切れているはずの反対側からも引き返す力がかかる。しかし、しばらくするとするりと抜けて糸がたるんでしまった。
「どこかに結びつけたらどうかな?」
「試してみたんですけど、ダメでした」
寮の扉や柱などでも結果は同じだった。
「なるほどね。たぶん、それは結び方が悪いね。宿毛くん、左手を貸して」
鷲津茜はそう言って、もう一度毛糸の端を掴んで長めに引き出すと、差し出した宿毛湊の左手の薬指に結びつけた。
薬指に直接、糸の向こうから引っ張る力がかかる。
しかし今度は抜けなかった。
「運命の赤い糸ってね。赤くはないけど」
「茜先輩、これ大丈夫なんですか? 放っておいたほうがいいものかもしれないと思って無視してたんですが」
「たぶん?」
しばらくすると、糸の向こうから手が現れた。
人間の手だ。咄嗟にそれを掴んだとたん、手は消えた。
糸も消える。
それから、東京本部と書かれたバンが揺れて「いてっ」と声が聞こえた。
鷲津茜と宿毛湊が中を覗きこむと、そこには寝間着姿に寝ぐせ頭のままの的矢樹がいた。
「いやあ、助かりました。鷲津先輩がいなかったら、さすがの僕ももう戻れなかったかもしれないですね」
的矢樹はケロっとした様子でそんなことを言う。
「やっぱり! アリアドネの糸だったわけだね」
「はい!」
鷲津茜と的矢樹は顔を見合わせてニコニコしている。
宿毛湊だけが蚊帳の外だった。
「アリアドネの糸……というと、ギリシャ神話の英雄テセウスの話ですよね」
「良く知ってるね。それそれ」
アリアドネはテセウスが迷宮内にひそむミノタウロスを退治するときに知恵を貸した少女の名前だ。彼女はテセウスが複雑な迷宮の内部で迷わないで済むよう、糸玉を渡した。テセウスは糸を引きながら迷宮を進み、ミノタウロスを倒したあとは、糸を辿って迷宮を脱出したと言われる。
「僕、よくああいうところに引っ張られるんですけど、またやばいところに連れてかれたな~と思って、咄嗟に着てたセーターをほどいたんです」
的矢樹は動画にあったあのよくわからない異世界から、毛糸を辿って現世に帰還したのだと言う。
「それなんだけどさ、なんで宿毛くんのところに毛糸の先っちょが行ったのかな? アリアドネにしちゃ見た目がいかついよ彼は」
「さあ、僕にもよくわかんないですけど……宿毛先輩は僕のことよく褒めてくれるから、無意識にですかね」
「なるほど」
鷲津茜は訳知り顔で頷いた後、宿毛湊の肩を叩いた。
「君はこれから褒める係だ。君の褒めがひとりの青少年を異世界の魔の手から救うだろう」
「ええっ!」
「ほら、さっそく褒めてあげたまえ」
「……遅刻の連絡をちゃんとできて偉かったぞ」
それからしばらく、宿毛湊はひたすら的矢樹を褒め、着替えのつなぎセットを持ち歩く日々が続いた。
数年後、宿毛湊は褒める係だけでなく、叱る係も兼任するようになった。
しかし最近では着替えセットの内容はパンツ一枚でよくなり(『お正月をしようよ』参照のこと)、ひそかに成長を確信しているとかいう話である。




