第68話 その後のその後の川平さん
川平都が狐のおうちで働きはじめ、すっかり仕事にも慣れた頃のことである。
仕事の内容は料理が主だ。平日の昼と夜の二食分と、週末の作りおきが都の担当である。朝食や使用人のまかないは、住み込みの家政婦さんが担当することになっている。
狐のおうちは自宅から三十分もかからない住宅街の中にある。
外見は西洋風の邸宅で、まさか狐が住んでいるとは思わなかったようなところだ。
玄関先には『伊万里』という表札がかかっている。
ただ、ここが普通の家ではないことは玄関をくぐって、建物に入るとすぐわかる。
表は西洋風だけれど、一歩足を踏み入れると、たちまち純和風建築が出現するのだ。しかも、寝殿造りというのだろうか、まさに平安貴族の邸宅だ。
巨大な母屋にいくつもある離れを、長い廊下が結んでいる。庭も大きく、池には人工島や橋がかかっていて、小さな船まで浮かんでいた。
外から見たときも大きい家だったが、これほどの敷地を有しているようには見えなかった。『狐につままれたよう』とはまさにこのことだ。
とはいえ、都が働く厨房は、爽やかな白い調度で統一された、オーブンもシンクもIHコンロも何もかもが最新式の、近代的なキッチンだ。
狐たちにとっても、いまでは社会科の資料集にしか載っていないような和風建築は扱いにくいのだろう。厨房を含め、寝室、トイレ、風呂、母屋のリビングに当たる部分は、あちこちが洋風に改築されていた。勤め始めたときに渡された十二単も形式的なもので、厨房では普通のエプロン姿で良いことになっている。
慣れてしまえば、狐のおうちで働くというのは、人間社会のどこかで家政婦をするのと変わりなかった。
彼女が夕飯の支度をはじめようとしたときだった。
母屋のほうがにわかに騒がしくなる気配がした。
四つ足の獣が廊下をてったりてったりと行ったりきたりしているような音が聞こえ、続いて引き戸のむこうで「どろん」と音がした。
扉を開けると、小柄な狐が、古風な小袴をはいて後ろ二本脚で立っている。
この狐は伊万里家に仕える使用人のひとりである。
彼は居住まいをただし、コホンコホンと咳払いをしてみせた。
「都さん、お忙しいのは承知の上ですが、少々お時間を頂戴してもよろしいですか」
「はい、なんでしょうか」
「お嬢様のことで…………」
「まあ、お嬢様に何かあったのですか」
お嬢様というのは、伊万里家の主人のひとり娘だ。
小学三年生で、驚くべきことにやつか町の小学校に通っている。
北の対の子ども部屋に急ぐと、ベッドに突っ伏して女の子が泣いていた。
顔を両腕で覆っているので、明るいグレーのワンピースと白いシャツのひじ、つやつやした長い黒髪と、ピンクの靴下の裏側までしか見えない。
「お、お嬢様……都殿を連れて来ましたぞ」
「じいやはあっち行ってて!」
激しく拒絶され、烏帽子をかぶった狐のじいやは口をあんぐり開けたまま固まってしまった。
「小学校からお戻りになってからずっとあの調子で、じいには訳も話してくださらず、もう……打つ手がないのですじゃ……」
そのまま瞳をうるませて都を見あげてくるので、思わず抱きしめたくなってしまう。しかし、助けが必要なのは、フカフカのじいやではなくお嬢様のほうである。
都はそばに行き、お嬢様の小さな背中をさすってやった。
そうしていると、娘の小さな頃を思い出した。
そのときはまだ親のほうも未熟で、心配が過ぎるあまり「泣いてちゃわからないでしょ!」と叱り飛ばしてよけいにこじれたのだった。もう二度と同じ轍は踏むまいと、そばに行って優しく背中を撫でる。
「お嬢様、都が来ましたよ。むりに話そうとしなくて大丈夫ですからね。私はしばらくここにいますから……」
嗚咽の合間に、うん、と頷く小さな声があった。
しばらく待つと、泣き声がだんだん小さくなった。
「あのね…………今日、学校でね…………」
ようやく小さな声が話しだす。
「わたし、先週からようやく、お父様から、給食のじかんまで学校にいてもいいってゆるしてもらったでしょう?」
「ええ、そうですね」
伊万里家のひとり娘、伊万里玉乃は、まだ幼いこともあり、変化の術がうまく使えない。学校に行ってもみんなと一緒に勉強できるのは、変化の術の効果が切れるまでだった。
術が切れてしまうと、まるでシンデレラのように玉乃は子ぎつねの姿に戻ってしまう。
それでも玉乃はお友達と学校で過ごす時間をたのしみにしていて、変化の術の練習を頑張り、もう一時間だけ長く学校にいてもいいという許可を父・鷹取に取り付けたばかりなのだった。
「でも今日は、四時間目の体育で疲れてしまって、気分が悪くなっちゃったの……。校庭の隅で休んでいたら、クラスメイトの男の子が保健室に連れていってくれて……」
玉乃はそこで黙りこむ。
「まあ……かわいそうでしたね……。でも、親切な子がいてくれてよかったですね」
都が合いの手を入れると、彼女は小さな頭を左右に動かした。
涙と共に小さな悲しみの粒が飛び散ったような気がした。
「ぜんぜんよくないのよ、都さん」
「あら、どうして?」
「わたし、まだ時間はだいじょうぶだと思っていたから、油断してしまってて。…………ほら!」
玉乃はベッドから上半身を起こすと、顔を覆っていた両手を外した。
玉乃がなぜそんなふうに悲嘆に暮れていたのか、ひとめでわかった。
玉乃の顔は、目や頭や髪はいつもどおり、かわいらしい美少女のものだが、鼻のまわりや口のあたりは、フカフカ金色の毛で覆われた狐の顔にもどってしまっていた。
体調をくずしたことによって、変化の術が中途半端に解けてしまったのだ。
しかもシッポや耳などの、言い訳ができそうな部位ではなく、顔である。
「わたしの顔……おかしいでしょう? 伊根君にみられちゃった。気持ち悪いからもう二度と学校に来るなって言われたらどうしよう!」
伊根君というのが、玉乃を保健室に連れていってくれた男の子の名字なのだろう。そう言ってまた、しくしくと泣き崩れる。
「まあ、お嬢様。そんなに思い詰めて。心配しなくても大丈夫ですよ」
そう言って慰めるのだが、人間である都には、この状況が本当に大丈夫なのかどうか自信がなかった。
やつかには怪異が多いというし、学校に怪異が正体を隠して通うこともあるという噂は耳にしたことがあるけれど、相手が「そうだ」と言わないかぎりはわからないもので、実際に目にしたのはこれが初めてなのだ。
子どもたちのなかには都と同じく、怪異にあまり会ったことがなく、単なる噂だと思い込んでいる子もいるだろう。クラスメイトが狐の子だと知ったらどんな反応をみせるか、想像できない。
まさかイジメにあったりはしないだろうが……子どもは無邪気だし、遠慮がないものだ。
じいやはオロオロと廊下を行ったり来たりしているだけで、頼りになりそうもなかった。
かといって玉乃の両親は共に忙しい。母親は海外を飛び回って高級アンティークの売買をしており、日本に戻るのは一年に一日か、二日くらいだ。インテリアデザイナーとして働いている父親が戻ってくるのも深夜になるだろう。
いったいどうしたものかと考えをめぐらせていると、中庭から大きな声が聞こえてきた。
「たまちゃーーーーん! たまちゃーーん、どこーーーー!?」
びっくりして窓から外を見ると、両脇にピアニカを抱え、青と薄紫色のランドセルをふたつ背負った男の子が池のそばをウロウロしていた。
「お嬢様、クラスメイトの子じゃありませんか?」
玉乃はびくっとして机の下に隠れてしまった。
仕方なく、都は廊下に出て「たまちゃん」を呼んで歩き回る少年を呼び止めた。
「玉ちゃんのお母さんですか!?」
「家政婦をしている川平です」
「ぼく、クラスメイトの伊根良則です。クラスではよっちゃんって呼ばれてます! たまちゃんの荷物と連絡帳を持ってきました!」
よっちゃんはそう言ってぺこりと頭を下げた。
その拍子にピアニカがひとつ芝生の上に落ちた。
「玉ちゃんいますか!?」
「えーと……お嬢様は、今ちょっと気分が悪くて部屋から出てこれないの」
「そうですか。じゃあ玉ちゃんに、明日の二時間目は音楽のテストで、そんで、給食は冷凍みかんで、すごくおいしいから、早く元気になって食べに来れるといいねって伝えておいてください! それじゃあ!」
よっちゃんはそう言って、玉乃のランドセルとピアニカを渡し、嵐のように勢いよく帰っていった。
都が荷物を持ってお嬢様の部屋に戻ると、玉乃は窓から脇目もふらずに駆けていくよっちゃんの背中をじっと見つめていた。
その瞳は涙でうるみ、頬はばら色に染まっている。
「お嬢様、よかったですね。よっちゃん、全然気にしてなかったですよ」
「うん……よかった……」
「どうしましょう、お嬢様。伊根君の電話番号を調べて、お礼を伝えますか?」
「ううん……。あした学校で、直接、お礼を言います」
その後、お嬢様は大好きなマカロニグラタンをぺろりとたいらげ、ぐっすり眠り、翌朝は元気に変身して学校に行った。
それからというもの、お嬢様は「よっちゃん」のことを話すことが多くなった。
お父さんはやきもきしているようだが、家政婦たちはみんな、小さな二人のことを応援しているということである。