うすぐもちゃんと明菜さん
ル・ニュアージュでバイトを始めた明菜とさな。二人は両極端だった。服装は明菜がパンツ系でシンプルなのに対して、さなはスカートでフリル付きのシャツを好んで着ている。一人で黙々と作業したい明菜、人に暖かく迎えられたいさな。
今日も休憩の時間、まったく違う行動をしていた。
明菜は休まずテーブルをずっと拭いている。一周終わってももう一度テーブルチェックして砂糖壺などの位置を微妙に変えたり窓際の花を生けなおすなど、何かしらお店の作業をしていた。
さなが明菜になぜそんなに仕事をするのかと聞いたところ明菜はこう言った。
「お客さんが気持ちよくお店を使ってもらえるようにしようとしたらテーブル拭くのは当たり前だし、小物を整理整頓するのも当たり前の行為」
確かにそうだけど、明菜は神経質なほど整えているような気がするさなだった。明菜は実は一人で行動するのが好きで、テーブル拭きはただの口実だったのだが、それをさなに言ってもしょうがないと思って言わないだけだったが。
さなはというと、休憩と言われたら普通に休憩して、他の店員と談笑していた。
ある時、こんな話になった。
「側溝に入った男がいたらしい。女性のスカートの中を覗きたかったんだって」
いやー! 女性店員が全員言う中、さな一人だけこんな反応をした。
「そんなの居たら、こうしてやりますよ~。ほ~れほ~れ、目が腐るぞ~って言いながら」
と、スカートの中を見せるふり。あまりの返答に明菜以外みんな笑っていた。
明菜はさなのこういうところが嫌いだった。捨て身ギャグ。誰かが笑ってくれるならと自分を貶めてみせる。自分もつらいくせに。こんなところがなければとてもかわいらしい女性なのに。とてももったいないと思っていた。
もくもくと作業する明菜を見て、うすぐもは、やっぱりこの人は信頼していいのではと思い始めていた。迷った末、自分から話しかける。
「あの……明菜さんがテーブルを整えるととても綺麗ですね」
うすぐもから声をかけられると思ってなかった明菜は少し照れた。明菜はあまり感情を出さないうすぐもに親近感を持っていた。
一人が好き。でも、一人ではいられない。自分の中に矛盾が生まれているのを感じていた明菜は少しうすぐもに自分を重ねていた。
「……ありがとう」
普段人と関わらないため、こんな簡単な挨拶も不器用な返事になる。しかし、うすぐもとしてはこんな不器用な一言のほうが伝わりやすかったようだ。ほとんど感情を出さない彼女の口元が少しだけ上がっている。
そして、このことがきっかけでうすぐもと明菜の不器用な関係が始まる。
「うすぐもちゃん、マックでバイト始めた理由がここでご飯食べるためって、ほんと?」
「はい。ここのご飯が一番おいしいので」
ほむほむ、と明菜が頷く。
「確かにおいしいよね、ここのご飯。しかも安いからびっくりだよ。どうしたらあの値段でこのクオリティー出せるかほんと不思議」
店のことを褒められたうすぐもはちょっと嬉しかった。
今日もキッチンで包丁を握るオーナー孝はシェフたちに指導している。それも、すごい熱意だ。
「おっと、ブドウはカットしないで使ってくれ」
「え……クリームで見えませんよ?」
きょとんとしている店員たちに大きな声で孝は言った。
「おいしさを最大限にお客様に提供するんだ。カットすることで食感が変わるからな」
そういいながらクリームのチューブを受け取り、シェフに、こんな感じで、とデザートの盛り付けをした。
「何回聞いてもいいから覚えてくれ。君たちは大事な店員だ。私たちの力だからなっ!」
そういうと孝は他の作業を始めようとした。
「たかし~」
緊張が漂っていたキッチンに間延びした声が響いた。
「たかし、充電」
そういいながら入ってきたのは妻の詠美だった。
「お? どうした、寂しかったか?」
そういうと、孝は包丁を置いてシェフたちの目を全く気にせずに詠美をハグする。
シェフの一人が呟いた。
「……うらやまけしからん…………」
シェフ全員がため息をついている。偶然ではあるが、シェフたち全員、付き合っている異性がいない。薄井夫婦は仲が良すぎる。
「ホールは大丈夫か?」
「ええ、ちょうどお客さんが途切れたところよ。と、言うより、客はうすぐもちゃんしかいないわ」
「そうか」
孝は詠美を抱きしめている手を離した。
「詠美、雲からもお客としてお金をもらってるんだって? 僕のツケでいいのに」
「あの子も高校生よ。社会性を教えないと」
「雲も高校生か……大きくなったな」
孝がしみじみとそういうと詠美もそれにうんうん、と頷いていた。
「でも、小遣いはどうしてる? ここでいつも食べてるみたいだが。あれだけでは追いつかないんじゃないか?」
「マックでバイトを始めたらしいわよ」
詠美が言うと、孝は目を大きく開いた。
「雲が、バイト!!! ああ、成長した我が子がいとおしい!!!」
孝は日本人離れしたジェスチャーで叫ぶ。その声はホールにまで響いた。
「……お恥ずかしい」
うすぐもが呟くと明菜は吹いた。
「明菜さん、キッチンに行ってきていい?」
うすぐもが聞くと明菜は頷く。
「今、お客さんいないからいいよ」
それを聞いたうすぐもはササっとキッチンに移動する。
「お父さーん、ホールまで声、響いてたよ! 恥ずかしいからやめてよ」
珍しく感情を出しながらうすぐもは言う。
「おお、うすぐも、会いに来てくれてお父さんは嬉しいぞ!」
そういいながら今度はうすぐもをギューッとハグする。
「や、やめて、みんな見てるじゃない!」
捕まったうすぐもは手足をバタバタさせてなんとか逃げようとする。シェフたちはめったに感情を出さないうすぐもの慌てぶりに驚きながら微笑ましく見守った。
ホールにまで響いたうすぐもの叫びを聞いていた明菜は微笑みながらボソッと呟いた。
「あのオーナー、熱すぎて嫌いだわ。ついでに、仕事しない奥さんも次に嫌いだわ」
この呟きを知る者は誰もいない。
次の日、明菜が出勤するとホールのカウンターで珍しく詠美が洗い物をしていた。明菜は思わず一言、言った。
「あ、マシなほうがいる」
その声は明菜が思っていたより大きく、詠美の耳まで届いてしまっていた。
「ん? マシなほうって?」
明菜は焦って取り繕おうとする。
「いえ、詠美さんがいるなぁっと……あ、いや、そうじゃなくって…………」
言えば言うほどドツボにはまる。アタフタしている明菜を詠美は笑顔で見ていた。そして。
「心の声、漏れてるよ?」
起こるでもなく、笑顔のまま言う詠美。
「いえ、あの、その……」
なんとか興味をそらそうと短い時間でいろいろ考えるが、いい案が思いつかない。明菜はどんどんテンションが落ちていった。
「明菜ちゃん?」
「は、はい!」
明菜はこれから詠美の説教が始まるものだと思い込んでいた。それなのに。
「そういう時はね、お互い黙るの。ケンカにならない法則よ?」
そういうと詠美がウインクした。めっちゃ決まっていた。
た、只者じゃねぇ……。
明菜は完敗した気分だった。この時、明菜の中で何かがカタリと動いた。
明菜は詠美に言われた通りに黙り、下を向き、荷物を定位置において仕事の支度をする。キッチンやホールのスタッフたちに挨拶して回る。詠美には言われた通り、無言で通り抜けた。詠美はなぜかきょとんとしていた。どうやらすでに先ほどのことを忘れているらしい。詠美はちょっとだけ頭を傾けてから気に留めずソーサーを洗い続けた。
明菜はすでに出勤していたさなに話しかける。
「あのさ、奥さん、大丈夫かしら。人が良すぎて騙されるんじゃない?」
先ほどのやり取りを見ていたさなは少し考えた。
「うーん、ちょっと心配にはなったけど。でも、面接で基本的にスタッフを採用するか決めるのは奥さんみたいだし、スタッフの中に変な人もいないから、その辺は見抜いているんじゃない?」
「そーかなー、あのオーナーと結婚した人だよ?」
「それはこの店の七不思議の一つですな」
二人が話しているとお客さんが来店した。
「いらっしゃいませ!」
ホールの店員全員が声をかける。明菜はおしぼりとお冷を用意するとテーブルに着いたお客さんに出す。
「お決まりの頃にお伺いします」
一礼してカウンターに戻る。すでに詠美はキッチンに入っていた。
「またイチャイチャするのか、あの夫婦。お客さん来る時間なのに…………」
感情が出やすくなっている明菜。
「いいなぁ……」
これを明菜が呟いた時、さなは明菜を二度見した。
また新しいお客さんが入ってくる。今日も忙しそうだ。