うすぐもの日常
薄井雲、通称うすぐもは高校から一人で下校の途中、自分の父が経営している喫茶店『ル・ニュアージュ』に向かっていた。
入学したての春。普段感情を出さない彼女だが、世間の春のウキウキした雰囲気に少しだけ飲まれ、桜を見ながら人に気づかれない程度に口元が少し上がっていた。
ちなみに、喫茶店の店名、『ル・ニュアージュ』の由来は超親バカの両親が自分に付けた名前『雲』のフランス語を付けたものだが……正直、ここに来るたびに少しだけ恥ずかしく思ってしまう。何人が店名の意味を調べるかはわからないが、常連客の数名はこの店の由来を知っている。そんな常連客と顔を合わせるたびに『なんか、すいません』と言いたくなる。
店の中に入ると、オーナーの、雲の父である孝と、母の詠美が大学生くらいの女性二人と話している。履歴書らしき紙を孝が持っているということはどうやら面接らしい。
一人は黒縁めがねをかけたショートヘア、白シャツにパンツルックとシンプルな服装で、硬い表情をしている。もう一人はミディアムロングくらいの髪を束ねている。ひらひらした女性らしいシャツにピンクのスカート。ショートヘアの女性とは対照的に笑顔だった。
「どう思う?」
孝は履歴書をあまり見てないようだった。
「いいんじゃない?」
何を基準にしてなのか、詠美が言うと、孝はあっさり頷いていた。
「そうだな。……二人とも採用します。明日から来てくれますか?」
どうやら二人とも採用らしい。面接を受けている二人が呆気にとられていた。このような面接を見慣れているうすぐもには女性二人の心情が手に取るように分かった。そりゃ、驚くだろう。来て5分も経ってないうちに採用が決まれば。
ちなみに、不採用モードでも5分で決まるが、この場合、面接を受けに来た側が抗議する場合が多く、正直、見ているだけでめんどくさい。演技でももう少し考えてるふりをすればいいのに、と面接現場を見る度に必ず思ってしまううすぐもだった。
採用が決まった二人にシフトなどを話すのは詠美の役だ。孝はうすぐもが空いていたテーブルについているのを見て寄ってくる。
「お、夕飯を食べに来たか」
超デカい声で聞いてくる孝に少々うんざりしながらうすぐもは頷く。
「何にする?」
これまた大声で、満面の笑顔の孝に、うすぐもはにこりともせずに答えた。
「オムライスセット」
娘の注文に嬉しそうにする孝。
「かしこまりました。しばしお待ちください」
普通の客のように受け答えすると、孝は大きめの鼻歌を歌いながらキッチンへ向かった。
うすぐもはこの店の食べ物が世界で一番おいしいと思っている。特に、オムライスは絶品だ。
「うすぐもちゃん、最近、毎回オムライスセットだね」
店員の三井がお冷とおしぼりを置きながら言う。
「お店のオムライス、自分で作れないから」
料理はレシピさえあれば大体作れるうすぐもだが、火加減なのか、調味料に違いがあるのか、なかなか思うように作れない。孝も店のレシピはシェフにしか教えない、と家族のうすぐもにすら教えてくれない。
詠美にうすぐものことを聞いたのか、面接を受けに来ていた二人がうすぐもに挨拶に来る。
「早川明菜です。よろしくおねがいします」
黒縁めがねの女性がにこりともせずに言う。
「遠藤さなです。よろしくおねがいします」
髪を束ねている女性は対照的にニコニコしながら言う。
「薄井雲です。オーナーの娘です。よろしくお願いします。うすぐもって呼んでください」
うすぐもも挨拶する。うすぐもは簡単に笑顔を見せないという理由で信頼できそうなのは早川だと勝手に思っていた。
面接を受けた二人は店員たちに簡単な挨拶を済ませると店を出て行った。
学校の宿題をしながら待っていると、オムライスセットが出てきた。すぐに宿題をカバンにしまうと、テーブルに置かれたオムライスセットを食べる。普段、感情を出さないうすぐもも、これを食べるときは多少、ほほが緩んでいるような気がする。
ふわとろの卵、煮詰めたトマトの味がしっかりするケチャップライス、バターの香り、たまらないハーモニーだ。味わって、ゆっくり食べる。
どうやったらこの味が出せるんだろう。高校を出たらここで雇ってもらって作り方を聞こうか……いや、ここの店員になったらお父さんをオーナーと呼ばなければならない。そして、なぜかいつも勝てないお母さんとずっと一緒にいなければならない。それは嫌だ。やっぱり客として食べに来るか。そうなると、どこかで稼がないとお小遣いだけじゃぁ間に合わないし……。
あれこれ考えながらながら食べ、最後のひと掬いを名残惜しそうに口に運んで、ふう、と息をつくと、うすぐもは店員のところに行き、
「お代はお父さんに付けといて」
と言って店を出ようとした。それを詠美は聞き逃さなかった。
「うすぐもちゃん、もう高校生でしょ? そろそろ社会性を付けなきゃね。店員価格にしてあげるからお小遣いで払いなさい」
「え~……」
娘でも容赦しないあんまりな詠美の発言にうすぐもは少し反論したかったのだが。
「え~、じゃない」
食後の余韻をばっさりと打ち消す宣告に、うすぐもはため息を付いた。
「世の中、そんなモノよね……」
そう呟くとカバンの中のスマホを探す。マネーアプリをレジのリーダーにかざすとレジでピッと音がした。
「はい、払ったよ」
うすぐもは無表情で言う。
「よろしい」
詠美が満足げに言う。うすぐもはもう一度ため息をつくと店を出て行った。
と、なると。
うすぐもは考えていた。オムライスセットを食べたいときに気にせず食べるためにはお金がいるわけで。お金が欲しければ、バイトをしないといけないわけで。
マックの面接でも受けようかな。あそこは時給じゃなくて分給だから。少しでもお金は多くもらいたい。学生でも採用してくれるし、レジなら店の見て何となくわかるし。
この判断が苦難の始まりとは全く思っていないうすぐもだった。