婚約破棄は大団円への序曲
「スカーレット! 貴様との婚約は破棄する!」
静寂を切り裂き唾を飛ばす勢いでそう言い放ったのは、この国の王太子であるベンジャミンだった。
金髪の王太子の隣には二人の少女が侍り、三人を守るように数名の男子生徒が周囲を取り囲んでいる。
場所は王都にある貴族と庶民が通う学園の多目的ホール。
この日は卒業式のため全生徒が集合している中での出来事だった。
突然の婚約破棄宣言にも関わらず名指しされたスカーレットと呼ばれた令嬢が、一切動じた風もなく微笑を湛えながらゆっくりと聞き返す。
「本当でございますか?」
「本当だ! 私は貴様との婚約を破棄しこのスミアを妃に迎える。スミア、こちらへ」
名前を呼ばれベビーピンクのふんわりとした髪にぱっちりとした金色の瞳をした可愛らしい少女が王太子の隣から顔を覗かせるが、スカーレットを見るなり怯えたようにベンジャミンの背にしがみついてしまった。
そんなスミアを労わりつつ射貫くような瞳でスカーレットを睨んだのは、王太子の隣にいたもう一人の少女で彼の双子の妹であるアンナ王女だった。
「私もお兄様の婚約破棄に同意いたしますわ。貴女みたいな性悪女はお兄様に相応しくありません! 悪女のくせにいつも大勢の取巻きに囲まれてずっと目障りでしたの!」
それはただ羨ましいだけでは? という周囲の怪訝な表情には気づかず、アンナとベンジャミンは意気揚々とスカーレットに指を突きつけた。
「「故に婚約を破棄する‼」」
双子だけに見事にハモった声音に、スカーレットは扇で口元を隠し蔑むような視線を投げる。
「このことは国王陛下のご承認は得ているのですか?」
「父上にはまだ伝えていない。だが既に破棄の書類は作成済だ! 後は貴様がサインをすれば完了する! さっさとこの書類にサインを「承知いたしました」
ベンジャミンの言葉が終わらないうちに筆をとったスカーレットは、出された書類を数秒凝視した後サラサラと署名をすると「ごきげんよう」と微笑み、くるりと踵を返し去ってゆく。
王太子の一方的な婚約破棄に全く異を唱えることなくスタスタとこの場を後にするスカーレットを、周囲の生徒たちは呆然と見守っていたがその背にベンジャミンの怒声が響く。
「待て! 貴様には罰を受けてもらう!」
「罰? 私が?」
振り返り深い笑みを浮かべたスカーレットの瞳が全く笑っていないことに、オロオロと成行きを見守っていた教師たちが気がついた。
婚約破棄をしているのが王太子で破棄されているのが公爵令嬢であったため静観するしかなかったが、彼女の瞳を見て戦慄を覚える。
スカーレットは公爵令嬢といっても彼女の母親は国王の妹で、実質この国の権力を握っているのは国王ではなくその王妹だということを教師たちは知っていたからである。
だが彼女を断罪しようとしているベンジャミンとアンナ、その後ろで怯え切った表情を浮かべているスミアと呼ばれた令嬢とその取り巻き達は、この国の高位貴族や学識者なら周知の事実であるそのことを知らないようだった。
「貴様は学園でスミアに嫌がらせを繰り返していたそうだな! スミアが下級貴族の娘だと蔑んだり嫌味を言ったりして、挙句の果てには教科書を破き池に落とし一昨日には階段から突き落としたと報告を受けている!」
「私が証人よ! 傷だらけのスミアを介抱したのは私だもの」
ベンジャミンの言葉をアンナがすかさず擁護する。
だが池に落とした所を見ていなければそれは証人とは言わない。ただの介抱した者だ。
入学した頃この王女の頭は残念らしいと噂が立っていたが、どうやら本当だったと野次馬達は呆れた瞳でアンナを見る。
しかし注目をあびたアンナは上機嫌で鼻の穴を膨らませていた。
「王女が証人なのだからアンタは罪人決定よ!」
「黙ってないで何とか言ったらどうだ! 王女という証人がいるから言い逃れは出来ないがな! 今日だってスミアは挫いた足を引き摺ってここへ来ているんだ。両腕にも痣があるし、貴様はなんて酷いことをするんだ!」
「ベンジャミン様、私は大丈夫です……。ただスカーレット様には一言、謝っていただきたいだけなんです。未来の国母となられる方が下級貴族の娘を虐げるなんて酷いことを、どうかもうしてほしくなくて」
「スミア、君はなんて優しいんだ。だがあの女はもう未来の国母になど成りえないよ。先程私との婚約を破棄したのを君も見ただろう?」
「あ……」
「未来の国母は君だ、スミア。君のように優しく清らかな令嬢こそ我が国の国母に相応しい。私との婚約を受け入れてくれるね?」
「はい。ベンジャミン様」
「スミア! 愛している!」
「良かった……おめでとうスミア! おめでとうお兄様!」
盛り上がる3人をスカーレットが冷めた瞳で見つめる。
「私は退出してもよろしいでしょうか?」
「いいわけないだろう! 衛兵! こやつをひっ捕らえろ! 未来の王妃に危害を加えた罪で処罰してやる!」
「そうよ! この女を早く牢へ!」
衛兵を呼びながら逃がさないとばかりに腕を掴んだベンジャミンに、スカーレットが一喝した。
「触るな! 屑が!」
スカーレットの凛とした声がホール全体に響き渡り静寂が支配する。
しかし屑と言われたベンジャミンだけはかっと目を見開くとスカーレットへ詰め寄った。
「は!? 今、屑って言った!? 王太子であるこの私を屑だと!?」
「それが何か?」
「貴様―――!!!」
腕を掴む力を強めようとしたベンジャミンの手をスカーレットは扇で払いのけると、すかさず距離をとり悠然と微笑む。
「私がそこのスミア様を蔑んだ? 当然でしょう? 彼女は私の所有物に手を出したのだから。万引きをしている者がいるのに指をくわえて見ている店主はいませんわ。これでも初めは忠告のみに留めておりましたのよ? それでもスミア様は頭の出来がよろしくないのか、全く行動を改めることなく殿下に取り入ることを止めませんでした。ですから制裁を強めていっただけですわ」
「だからといって池に落としたり階段から突き落としたりしたら、怪我をして危ないだろう!」
「怪我? 何を仰っていますの?」
「だから! 真冬の池に突き落とせばしもやけができてしまうし、階段を転げ落ちるのではなく突き飛ばされるように落とされたのでは着地の時に足を捻ってしまって危ないだろう!」
王太子の言葉に「池に落ちたの真冬だったんだ……しもやけなんかじゃ済まないよ、普通に死ぬよソレ?」とか「階段落ちっていうより下手したら墜落死じゃん」と固唾を呑んで見守っていた外野がどよめく。
騒めく外野に気をよくしたのかベンジャミンがドヤ顔でスカーレットへ指を突きつけた。
「貴様は己が行った残虐非道な行為を悪いとは思わないのか!? いくら私に対する嫉妬だとしても限度があるだろう!」
ベンジャミンの言葉に一瞬キョトンとしたスカーレットは、すぐに嘲るような眼差しを向けると淡々と言い放った。
「池に落とした時は凍死してしまえばいいと上がってこようとするスミア様の頭を何度も蹴り続けましたわ。階段では踊り場から回し蹴りをしてわざわざ吹っ飛ばして差し上げましたの。落ちた衝撃で首の骨でもへし折れればいいと思ったからですわ」
優雅に微笑みながら、とんでもないことを言うスカーレットに一同が絶句する。
「ですがその行為が殿下に対する嫉妬からくるもの、でしたっけ? そんなものございませんわ」
「で、ではスミアに対する嫌がらせの数々は何なのだ!?」
「そうよ! お兄様と親しくなっていくスミアが憎かったのでしょう!?」
「いいえ。ですから万引き犯に対する制裁といったところだと先程申し上げましたでしょう?」
「それは嫉妬ではないのか!?」
「違いますわ」
きっぱりと言い切ったスカーレットにベンジャミンは顔を歪ませ、アンナは不快も露に目を剥いた。
しかしそんな2人には目もくれずスカーレットは困惑したように頬へ手をやる。
「私、自分の所有物を無断でとられるのは我慢ならないんです。例えそれがいらない物だとしても」
さも困ったわというように微笑んだスカーレットの美しくも愛らしい仕草に、周囲の生徒達が頬を染める。尚、スカーレットは学園美少女選手権で入学以来3年連続首位を獲得するほど美しい令嬢なので、当然の出来事だった。
周囲の様子にアンナとスミアは眉を寄せたが、ベンジャミンさえ一瞬呆けて見惚れてしまっている。
そのベンジャミンへスカーレットは笑顔で鉄槌を下した。
「殿下との婚約ははっきり申し上げて死ぬ程嫌だったのですが、国王陛下じきじきの頼みで断りきれず渋々結んだものでしたの。あの時は辛くて辛くて、いっそ修道院でも入ろうかと思って泣き暮らしておりましたわ」
「なっ! 嘘だ! 嘘だ! スカーレットは私を愛するあまりスミアへ嫉妬して嫌がらせをしたんだ!」
「有り得ません。むしろ殿下のことは虫唾が走るほど嫌っております」
「嘘だぁ!」
顔を真っ赤にして反論するベンジャミンにスカーレットは1つ溜息を落とす。
「嘘だ、嘘だと、反論するにしても何て語彙が少ないのかしら。こんなバ、コホン、王太子でも婚約して私の所有物となったわけですから私の物です。それを無断で掠めとろうとしたのでお仕置きしただけですわ。素直に欲しいと言ってくださればすぐにでもお譲りしましたのに。どうせいらないモノでしたもの」
にっこりと微笑むスカーレットにベンジャミンは力なく弛緩し、アンナは唾を吐く勢いで怒鳴り散らした。
「スカーレット! 先程から王太子であるお兄様に不敬よ!」
「不敬?」
「そうよ! お兄様はれっきとした人間なのに所有物だなんて貴女バカじゃないの!」
アンナの言葉に「ツッコむ所そこ!?」と周囲は思ったが、ベンジャミンは妹の言葉で立ちなおったらしく高らかに宣言する。
「そうだ私は人間だ! それにお前はスミアを暴行した事実を認めた! 私への不敬罪と未来の王妃への暴行でスカーレットへ死刑を言い渡す!」
王太子の死刑という言葉に成行きを見守っていた者達が息を呑んだ。
ベンジャミンは言ってしまってから流石に狼狽えだしたがアンナはよく言ったとばかりに高笑いをし、スミアも怯えた表情を作っていたが一瞬ほくそ笑んでいたのをスカーレットは見逃さず、侮蔑の眼差しを向け溜息を吐いた。
「貴方がたは自国の法律を全くご存じないようですわね」
「な、何を言っている! 私はこの国の王太子だぞ! バカにするな! 死刑が嫌なら泣いて謝れ! 今なら慈悲深い私が考えなおしてやらんこともない」
自分で死刑と言っておきながら、ベンジャミンは減刑すると早くも言い始める。大方勢いで言ってしまったものの怖気づいたのだろうが、スカーレットはそれには取り合わず、相変わらず蔑むように王太子たちを見返した。
「この国では浮気はご法度であり、例え婚約中でも婚約者が不貞を働いた証拠があれば、不貞の相手にも報復が出来るのですわよ」
スカーレットの言葉に明らかに王太子と取り巻きの令息達の目が泳ぎ、スミアの肩がビクッと震えた。
「ふ、不貞なんて証拠あるわけないだろう!」
「そ、そうよ! 私達は清らかな交際をしているのよ!」
清らかだろうが婚約者がいる異性と交際してはだめだろう、という周囲の冷ややかな視線に気づかない2人の天然バカっぷりに、スカーレットは口角をあげてにっこりと微笑む。
「不貞の証拠ならありますわ。王太子の婚約者である私には王家の影がついておりますので、その方たちにお願いしてサクッと調べていただきました」
そう言ってスカーレットが右手を宙に差し出せば、どこからともなく現れた黒子がその手にピンクの花柄のノートを置いた。
「そ、それは‼」
「ええ。スミア様の日記帳ですわ」
「何でそれを持ってるのよお‼」
先程までの庇護欲をそそる仕草はどこへやら、眦をあげ鬼の形相でスカーレットへ飛びかかろうとするスミアを軽快に躱してスカーレットがパラパラと頁を捲る。
「○月1日 ベンジャミン殿下とお泊り
昼間からやたらとキスしてくる 殿下のキスは勢いがありすぎて歯が当たって痛い
夜も殿下ったら自分だけイっちゃってその後暫く再起不能なんだもん こっちは完全に不完全燃焼で欲求不満 前戯も下手くそだし、いいところは身分だけだわ」
「やめてぇぇぇ!!!」「うわぁぁぁ!!!」
スミアは顔面蒼白で叫び、ベンジャミンは早漏な上に下手くそだと全生徒の前で暴露され絶叫した。
そんなベンジャミンに追い打ちをかけるようにスカーレットが首を傾げる。
「あら、まあ、殿下ったら何をやらせても人並み以下なんですわね」
「ぐはぁ!」
心を折られたベンジャミンが灰と化したことを気にも留めずに、スカーレットは日記を読み進める。
「○月2日 伯爵家嫡男のフェルデナンド様と フェル様ったら足指フェチみたいでずっと舐めまわされて困っちゃう それでも殿下よりは上手だから許してあげる
○月3日 近衛騎士になるリューベル様と 一晩で5回もしちゃった さすが騎士様は体力が違うわ でも赤ちゃんプレイが好きでずっと幼児言葉でバブバブ言ってたことにはびっくりしちゃった
○月4日 王宮医師の息子のザクソン様と とにかく技巧がすごいの 縛られて燃え上がるなんて初めて ザク様の縛り方は芸術だわ 縛って吊るして弄られるのクセになりそう
○月5日 司教の跡取り息子のコリン様と ザクソン様と反対でコリン様は甚振られるのがお好きみたい 猿轡して蝋燭をお尻に垂らして鞭で叩いてあげたらすごく喜んでくれた
いけない扉、開いちゃったかも
○月6日 生徒会長のティンガー様と 学園でしたから盛り上がっちゃった 制服って盛り上がるのよね 靴下だけ脱がせないのがポイントだって力説してた 今度は体操服でしようって約束した
○月7日 肉屋のニックと やっぱり彼とするのが一番好き 貴族達って変態趣向が多くてスリリングだけど何か物足りないのよね モノが悪いのかしら? まあ一番下手でモノも悪いのは断トツでベンジャミン様だけど」
「「「「「やめてくれぇぇぇぇ!!!!!」」」」」
先程まで王太子の周囲でスカーレットを無言で睨みつけていた令息たちが、いきなり性癖を暴露された上に肉屋に劣ると言われシャンデリアを揺らす勢いで絶叫し膝から崩れ落ちる。
床に頭を擦り付け己が身をどうにか隠そうとする彼らに軽蔑の眼差しと、一部の男子生徒から同情の眼差しが注がれたが、そんな彼らにスカーレットは無邪気な笑顔で言い放った。
「皆さま婚約者がおありですのに浮気をなさるからですわ。この日記を読み上げることについては皆さまの婚約者の方に了解をとってありますし、ご実家へも伝えてありますのでご心配なく。勿論この日記の裏はとれておりますので言い逃れはできませんわよ?」
スカーレットの言葉に自分たちの未来が終わったことを悟った令息達が阿鼻叫喚の様を呈した。
もはや呆然自失の王太子とスミア、力尽き項垂れる令息達を見たアンナ王女だけがスカーレットを怒鳴り散らす。
「スカーレット! この性悪女! お兄様たちの仇は私が必ずうってみせるわ!」
その様子を冷めた目で見ながら、スカーレットは今度は左手を宙に差し出した。
するとまたしても黒子が現れ、今度は水色のリボン柄のノートを置いていく。
そのノートにアンナ王女が固まった。
「……ま、まさか!」
「うふふ。そのまさかですわ。王太子殿下の不貞の証拠のついでに王女様の醜聞も皆さまお知りになりたいかと思いまして。私、アンナ王女殿下には一方的に敵意を向けられて辟易しておりましたので、ちょっとした意趣返しですわ」
ウインクをしたスカーレットにアンナが飛びかかるが、またしてもヒラリと躱したスカーレットが快活に読み上げる。
「○月1日 東の国の王太子リオン様とデート(の予定) 妄想の中で手を繋いじゃった! きゃあ!
○月2日 西の国の宰相デイビット様と王宮で二人きり(の予定) 夢想してキス! 素敵!
○月3日 南の国の王子ザーブル様とお出掛け(の予定) 空想だけどきっと彼はテクニシャン! いやん!
○月4日 北の国の公爵サザーランド様と逢瀬(の予定) 幻想で彼が私を襲いにくるの! ああんっ!
○月5日 侯爵家のライザック様と逢引(の予定) 理想は馬車の中かしら? 夜会の庭? はうっ!
○月6日 養護教諭のフォンタナ先生と情事(の予定) 保健室、白衣、ベッド、嫌がる私をムリヤリ先生はって連想しちゃった! ウフフ!
○月7日 肉屋のニックと お忍びで行った城下の暗がりの裏路地で迫られてしちゃった! その後全然会ってくれなくなったけどきっと照れてるのね 夢じゃないわ! 現実よ! やったわ! 私はついに運命の愛を手に入れたのよ!」
読み終わる頃にはスカーレットの声は涙声になっていて、聞いていた生徒たちの中には哀愁の涙を流している者までいた。
日記に書かれたモテない王女の可哀想な願望と、ただのやり〇ン肉屋との一発限りであろうアバンチュールを喜ぶ内容はあまりにもシュールで悲しかった。
「ごめんなさい。最後のお肉屋さんのところだけ朗読すれば良かったですね……あら? でもこのお肉屋さんってスミアさんともご関係があったような?」
「いやぁぁあぁぁ!!!」
スカーレットの申し訳なさそうな声と、周囲の憐憫と同情の眼差しを受けてアンナ王女は絶叫する。
そこへ会場の扉が開く音が響き渡り、実質この国を治めるスカーレットの母、王妹オーハラが姿を現した。
颯爽と歩むオーハラに自然と人垣が割れる。
オーハラの後ろにはやたらと綺麗な顔をした品のある金髪碧眼の男性が続いていて、見かけないその顔に内心首を傾げたものの前を歩くオーハラの圧力に、この場にいる者全てが気圧されていた。
オーハラはベンジャミンとアンナの前まで歩を進めるとピタリと止まり、扇を広げてゆっくりと口元を隠す。
「ピーピーピーピー喧しいわね」
決して大声ではなく、むしろ声音を抑えた一言だったのだがオーハラの呟きは会場にいる者全ての動きを止めた。
「生意気にも私の可愛い娘に婚約破棄なんてしたのはその屑かしら?」
「屑じゃな……」
反論しようとしたベンジャミンを広げた扇の上から覗くオーハラの瞳が射貫く。
オーハラは静かにその翡翠の双眸を向けただけだったが、目が合ったベンジャミンは冷や汗が噴き出し、二の句がつげられないでいた。
完全に委縮し小さくなるベンジャミンに畳みかけるようにオーハラが問う。
「それで? 婚約破棄したの? していないの?」
「……あ……う……し、しました……」
尻すぼみになりながらも何とか答えたベンジャミンからは大量の汗が滴り落ちている。一方のオーハラはというと目を細めて動きを止めた。
その2人のやりとりに、見守るしか出来ない生徒たちはそれぞれ勝手な感想を思い浮かべる。
(凄い、一睨みだけで王太子が凍てついた!)
(オーハラ様の威圧感半端ねえ!)
(蛇に睨まれた蛙より縮こまってる)
(今の王太子は身体の大きさも息子サイズだ)
ふとオーハラが、背後に立っている綺麗な男性に視線を移す。
「お兄様、どうやら賭けは私の勝ちのようですわ」
「ええ~、ど~しよ~」
美しく気品がある金髪碧眼の男性が発した緩い言葉遣いに、生徒たちがコケそうになるのを堪える。
いや、それよりオーハラが「お兄様」と言ったということは、彼がこの国の国王ということだ。
生徒たちは貴族といってもまだ学生の身分だし、国王と王妃はいつも御簾越しに謁見がされていたのでその姿を拝見したことがない者がほとんどだった。ましてやその言葉を聞く者はごく僅かの近習に限られていたので、今初めて国王の声を聞いたのだが……。
(姿かたちは綺麗だけど、なんかバ○っぽい!)
全員一致した生徒たちの心の声が聞こえたかのようにオーハラが、たとえ胸中といえども○で誤魔化した言葉をはっきりと口にする。
「お兄様、そのバカっぽい話し方をいい加減改めてくださいませんこと?」
「う~ん、無理~。だって僕、正真正銘バカだも~ん」
「そうでしたわね。だからバカの代わりに私が執務をしなければいけませんでしたのよね」
「僕だって国王なんてなりたくなかったんだけど王妃が~、王妃になりたいっていうから~。国王の奥さんじゃないと王妃になれないからさぁ~」
「そのために私が国政という名の尻拭いをしてきたのですわね」
「あはは~、ごめんね~。別に悪いと思ってないけどね~」
「このド腐れ外道が」
繰り広げられる2人の会話はツッコミどころが満載で、もはやどこからツッコんでいいのかわからない。
「このバカと不毛な会話をしていても仕方がないわね」
唖然とする生徒たちを見て深い溜息を吐いたオーハラは、国王との会話を断ち切るようにパチンっと扇を閉じると、スカーレットの側に行きその髪を優しく撫でた。
「スカーレットは今までよく頑張りました。王太子という屑を投げ出したりもせず、浮気をされても婚約者としてきちんと相手に嫌がらせまでしてあげるなんて、我が娘ながらなんて優しいの」
「い、嫌がらせを擁護しないでよ! それに嫌がらせなんてレベルじゃ……」
「何か仰って?」
反論したアンナ王女にオーハラが微笑む。
顔は笑っているのに背後に大蛇がとぐろを巻いているように見えてアンナは恐怖で身体が震える。
ガタガタと震えるアンナを母に髪を撫でられながら一瞥したスカーレットが、興味なさげに成行きを眺めている国王に向きなおった。
「怖れながら発言をお許しいただけますでしょうか?」
「ん~、いいよ~?」
オーハラとは違い丁寧に頭を下げたスカーレットに国王は相変わらずの緩い返事を返したが、スカーレットは敬う姿勢を崩さず礼を述べる。
「ありがとうございます。では失礼ながら……我が母オーハラと陛下がなさった賭けの内容をお教えいただけないでしょうか?」
「ん~? ベンジャミンとスカーレットの婚約がうまくいけば僕の勝ちで、この国は今まで通りオーハラが執務を行って~、ゆくゆくはスカーレットが王妃としてその後任になるって賭けのこと~?」
「婚約破棄されればどうなるのでしょうか?」
「オーハラの勝ち~。王妃の秘密を暴露して~、あと一つは~」
「ちょっ……何それ!? わ、私、秘密なんてないもん!」
突然割り込んできた鈴の音を転がすような声に、スカーレットは不快げに溜息を吐いたがオーハラは捕食者のようにその口角を上げた。
国王の言葉を遮ったのはピンクブロンドの巻き毛に淡い紫色の瞳をした女性で、生徒たちはその愛らしい姿に一瞬見惚れてしまう。
まるで小説のヒロインを具現化したような女性は駆け込んでくるや国王の袖を引き、頬を膨らませた。
「それよりベンジャミンとアンナがスカーレットに意地悪されたんでしょ? これは明らかに王族に対する不敬罪なんだから! ね!? マー君!」
マー君と呼ばれた国王が困ったように笑っているのを唖然と見ながら生徒たちはフル回転で思考を巡らす。
(マー君とは誰ぞや!?)
(あ、国王ってマーカスって名前だったっけ?)
(国王を愛称呼びって……もしかして)
(うわっ……アレが我が国の王妃なのか!?)
(この国の王族は頭に花が咲いた奴しかいないのかー!?)
登場時は愛くるしい容姿に見惚れたが、よく見ればかなり無理をして若づくりをしている王妃は、紡ぐ言葉と仕草に全く品がなく、がっかり感が半端ない。
それに王妹ながら政治、経済、軍事と全てに恐るべき手腕を発揮し国を統べ、他国からも一目置かれるオーハラの名前は有名だが、何の政策もせずただいるだけの国王の名前は浸透しておらず、国王同様ただ王宮にいるだけの王妃のことも「そういえば、いたっけ?」程度の認識だった。
生徒たちはたった今発した少ない言葉だけで何故国のトップの2人があまり公にされていなかったのかを悟り落胆する。
バカを恥とも思っていないド腐れ外道の国王と頭に花の咲いた王妃では、そりゃオーハラ様が八面六臂の活躍をするしかないわな、と考えた。
王妃は周囲のイタい人を見る視線には気づくことなく国王の腕に自身の腕を絡めて、ビシっと人差し指をスカーレットに向ける。
「この際、親子一緒に追放しちゃいましょうよ! 私の子供達を虐めたんだから公爵家は取り潰しでみんな追放! はい決定!」
「え~、そんなことしたらオーハラ泣いちゃうよ~」
絡められた王妃の手を撫でながらフニャフニャと笑う国王に威厳は微塵もない。
こんな国王と王妃をリスペクトするのは無理! もういっそ見なかったことにしたいと生徒たちは思ったが、そこへ高らかに笑うベンジャミンの声が響いた。
「ははは! 追放だ! 泣いて悔やめばいい!」
「そうよ! 私達王族を貶めた罪は親子で被るべきよ! 追放よ!」
「あ、王太子と王女復活したんだ」と生徒たちが視線を向けると、ベンジャミンとアンナが王妃と同じく人差し指をスカーレットに突きつけている。
指を突きつけられる×3つまり失礼×3な状況にスカーレットが少しだけ目を伏せると、その態度に気を大きくした王妃が意気揚々と叫んだ。
「これで漸くオーハラっていう邪魔者がいなくなるわ!」
はしゃいだ声をあげて笑う王妃にそれまで静観していたオーハラの瞳が獰猛に光を帯びる。
「邪魔者? 粉骨砕身して国に尽くしてきたこの私が?」
再び扇を開き優雅に仰いだオーハラは空いている右手を宙に翳した。
「お兄様、賭けは私の勝ちなのですから一つ目を早速実行しますわよ」
そう言ったオーハラの右手には先程のスカーレット同様に、黒子によってハートの宝石が散りばめられた赤色のノートが置かれている。
そのノートを見た王妃の顔から表情が抜け落ちた。
「18年前のお・も・ひ・で、という名の王妃殿下の日記帳ですわ」
「ぎゃあぁぁぁあ!」
クスリと笑ったオーハラとは対照的に王妃はすっかり取り乱し、あろうことか勢い余って国王の豪華な服の袖を引きちぎっている。
そんな王妃を尻目にオーハラはコホンと一つ咳払いをするとハラリと頁を捲り、声のキーを高くして読み上げた。
「○月1日 マー君と謁見室で 下手くそだけどイったふりしたら喜んでる 頭は悪いけど顔と身分は最高ね 王太子が私に夢中っていう達成感がたまらない!
○月2日 宰相嫡男と執務室で 机の上は背中が痛いけど、婚約者より私を求める優越感が気分あげあげ!
○月3日 騎士団長の三男と兵舎で 何度もしてくるし躍動感が半端ない!
○月4日 大司祭の令息と礼拝堂で 神様が見てるっていう背徳感がやめられない!
○月5日 財務大臣の次男と王宮の庭園で 誰か来ちゃうかもって考えると高揚感がとまらない!
○月6日 外務大臣の弟と貴賓室で 他国の王族専用の客室でする罪悪感に萌える!
○月7日 肉屋のニクソンと調理場で すっごい満足感 やっぱり彼とするのが最高! 貴族って何が悪いのかなぁ? あ、ナニがダメなのか! なるほど、なるほど~」
周囲は王妃の声音に似せて読み上げたオーハラに驚くと同時に王妃の不貞の証拠に目を丸くするも、日記に書かれた7日目の相手にツッコまずにはいられない。
(錚々たる面々の中にまた肉屋出てきたー!)
(しかもやっぱり肉屋最高って、肉屋のレベルどんだけ? どんだけ~?)
(ナニがダメなら、どんだけ~しても、いっこーにダメじゃんか!)
「うっぎゃああああああ!!!」
国王の隣で奇声をあげはじめた王妃を無視してオーハラは淡々と続きを読み上げる。
「黄金ルーティンで毎日してるけど、そういえば最近アレがこない。子供できちゃったのかも? 誰の子だろ? 覚えがありすぎてわかんな~い! マー君の子供ってことにすればいっか。そしたら王妃になれるし! テヘペロ!」
日記に書かれている通りにテヘペロと舌を出したオーハラは、さすがに恥ずかしかったのか少しだけ頬を染める。
「あ、オーハラ様が少し可愛い」と生徒たちは軽く現実逃避した。
何せ聞かされた内容が王太子と王女の存在自体を根底から覆す内容だったからだ。
もはや学生の自分達が聞いていい内容ではないし、出来ればここから立ち去りたい。
そこへダアンッと足音が響き王妃が髪を振り乱しながらオーハラに詰め寄る。
「嘘よ! 嘘! でまかせよ! そんなノート知らないんだから!」
「あらあらまあまあ、でもこのノートは当時王太子だったお兄様が王妃殿下に特注で作ったものですわよ? こんな趣味の悪……おっと、高価なだけで使いづらいノートなんて他に需要が……おっと、今日はえらく口が滑る日ですわね。漸く賭けに勝つことができて浮かれているのかしら?」
「まあ、お母様ったらお茶目なんですから」
うふふふ、おほほほと笑いあうスカーレットとオーハラとは対照的に、奇声を出し尽くして、ぷるぷる震える王妃をベンジャミンとアンナが縋るように見つめた。
「母上? 嘘だろ? 貴族より肉屋のがいいなんて私は認めない! 私は早漏なんかじゃないし男は回数じゃない!」
「お母様? そんな……お母様がニックのお父様と関係があったなんて! 私とニックは結ばれない運命なの!?」
王太子と王女の言葉に生徒たちの頭にツッコミの嵐が舞う。
(マジかー!? 肉屋のニクソンってニックの親父かー!?)
(てか、今、大事なのそこじゃねえ! こいつら頭に花が咲きすぎだー!)
侮蔑のこもった生徒たちからの視線に王妃が、袖が破れてしまい剥きだしになった国王の腕をブンブンと振り回す。
「違うの! 嘘ったら、嘘なの! ベンジャミンもアンナもマー君の子供だもん! 私がそう言ったらそうなの! とにかく公爵家は取り潰し! オーハラとスカーレットは追放! 王妃の私が決めたんだから決定なの!」
甲高い声で一気に捲し立てた王妃にオーハラは鼻で笑った。
「追放? 望むところですわ」
「はい! お母様!」
踵を返したオーハラに嬉しそうにスカーレットが続くが、その背に呑気そうな国王の声がかかる。
「あはは~、オーハラ。ちょっと待ってよ~」
国王の言葉に足を止めたオーハラは底冷えする笑顔を浮かべる。
「嫌ですわ。お兄様がバカなせいで私ずっとこの国に縛られていたんですのよ?」
「お母様、早く帰って支度をしましょう」
「そうしましょう、スカーレット。そういえば先程、くそビッ……王妃殿下の日記を暴露する前に笑いそうになったでしょう?」
「指を指された時ですわね。だって追放、追放と嬉しい言葉を投げつけてくるのでつい」
「そうね。私も楽しみ過ぎてスキップしてしまいそう」
「もう、お母様ったら」
きゃっきゃ、うふふと、はしゃいだような声をあげるオーハラ達に王妃が眦を吊り上げた。
「ちょっと、どういうことよ! 追放なのに何でそんなに嬉しそうにしてるのよ!?」
地団太を踏む王妃に国王が不思議そうに首を傾げる。
「だから言ったでしょ~? 追放なんて言ったらオーハラ泣いちゃうって~」
「泣いてないじゃない!?」
「泣くほど喜んじゃうって話だよ~」
「へ?」「は?」「え?」
王妃と王太子と王女の素っ頓狂な声が重なる中、国王はゆるゆると笑いながら小さく嘆息した。
「オーハラはずっと冒険者になりたかったんだもんね~」
「ええ。冒険者になって海賊王になりますの」
「お父様はお母さまのマネージャーになると仰っておりましたわ。私もお母様をフォローしますね」
とびきりの笑顔を向けたスカーレットにベンジャミンの心臓が跳ねる。
急にそわそわし頬を染めるベンジャミンに周囲は困惑顔だ。
(え? 今頃スカーレット様の魅力に気づいたの?)
(それより自分の王太子の地位を心配しなくていいの? 国王の子供じゃないかもしれないんでしょ?)
(海賊王って、オーハラ様もしやワン〇ースを目指しているのか!?)
(つーか、オーハラ様を追放したらこの国、立ち行かなくなるんじゃない!?)
事の深刻さに気づいて青褪めはじめた生徒たちがザワザワと騒ぎ出す。今年の卒業式には何故か父兄の参加が認められず、国の重臣であるオーハラの側近たちの姿もないこの場でとんでもないことが起こっている状況に半ばパニック状態になる生徒たち。
その様子を見て国王は一層笑みを深めた。
「ほら~、オーハラが何も言わないから皆、不安になっちゃったでしょ~? ちゃんと説明してあげないと~」
「最後くらい、国王としての務めを果たしなさい」
「え~、面倒くさいなぁ~」
「お・に・い・さ・ま」
「あ~ハイハイ。解ったから、そのドラゴンも泣いて逃げ出すような怖い顔をしないでよ~」
ヤレヤレと言った体で自身の輝く金髪をクルクルと指で弄びながら、国王が何てことない話をするように口を開く。
「オーハラとした賭けのもう一個はね~、オーハラが貴族を辞めて、僕も王様辞めるってこと~。てか、この国の貴族は全員廃嫡~、今日でこの国は解散~!」
イエイと親指を突きたてて爽やかな笑顔を浮かべる国王に、生徒たちも王妃たちもあんぐりと口を開き暫く静止した後、絶叫した。
「「「「「「「ええええええ!!!!!!」」」」」」」
驚愕と混乱で阿鼻叫喚の有様を見せる会場は最早収集がつかない。
そのドサクサに紛れてスミアがこっそり逃げ出そうとしたが、がっしりと腕を掴まれた。
「ダメですわよ。くそビッチ2号様。ちゃんとご自分の所有物は最後まで責任をもって管理しなければ」
「誰がくそビッチ2号よ! 離しなさいよ!」
「えい!」
可愛らしい声でスカーレットがスミアの腕を引っ張り手を離した先は、ベンジャミンの正面だった。
「スミア! やはり私が一番いいのだな!」
そう言って倒れ込んだスミアを抱きしめたベンジャミンはスカーレットへも熱い視線を送る。
その視線に心底軽蔑するような眼差しを返してスカーレットはオーハラへ頷いた。
オーハラは広げていた扇をパチンと閉じると、腰を落とす。
「ふんっ!!!」
途端にオーハラの足元から風圧が沸き立ち一瞬で会場中を駆け抜ける。
いわゆる「海賊王になってやる!」という輩ならもれなく出せる覇気と呼ばれるものだ。
オーハラの風圧を受けた生徒たちは、あれだけ騒いでいたにも関わらず一様に鎮まり返った。
「混乱させてごめんなさいね。心配しなくても民主主義にする道筋はつけておきました。これからこの国は議会による合議制となります。このことはこの国の主要な人物は既に周知し納得しています。皆さんは民主化したこの国の最初の卒業生としてこれから大変になると思いますが、きっと本日以上に驚く日はもう来ないと思いますので、気を大きくもって頑張ってくださいね」
オーハラの言葉にこの場に宰相や大臣が来なかった意味が解り生徒たちがヘナヘナと座り込む。
不安はあるがオーハラの言う通り、きっと今日以上に混乱する日はこないだろう。それなら自分たちはこれから先きっといつだって平常心を保っていられる。
困惑しつつも納得しあって手をとり合う者が出てくる中、奇声をあげた者がいた。
「なに勝手にまとめてるのよ!」
声の先には頬を膨らませた王妃が両手をグーにして腕を上下に揺らしていた。
まるで幼子のような王妃の振舞いは結構な年齢なので見ていて痛々しい。だが、国王だけはにこやかに目を細めていた。
「何が民主主義よ! 反対! 反対! はんたーい! 私とマー君がいれば国政位平気だもん! 今までその女に邪魔されてやりたいことできなかっただけだもん!」
「あはは~、それほどでも~。でもね僕にとっては国政も国王の位もどうでもいいことなんだよね~。君がずっと秘密にしてたベンジャミンとアンナの父親が誰かなんてことも興味がないしね~。あ、それなりに大切にはしてきたよ? 2人は君の子だからね~。
ベンジャミンが傍若無人な振舞いを繰り返して国内の商人から苦情が押し寄せたり、アンナが妄想だけに飽き足らず、他国の要人にストーカー行為をして一触即発の事態になっても廃嫡にしなかったでしょ~? その度にオーハラが尻拭いで駆けまわってたんだけどね~」
衝撃の事実に生徒たちは固まり、オーハラのこめかみにはピシリッと青筋が浮かんだが、国王は笑顔のまま王妃の顔を覗き込んだ。
「でもさぁ~、さっきオーハラが君の日記を読んだ時、君と関係があった当時の宰相達の子息を物理的に粛正した気分を思い出して久しぶりにゾクゾクしたよ」
「え? しゅくせい?」
粛清の意味がわからなかったのかキョトンとする王妃のピンクブロンドの髪を手櫛で梳きながら国王が続ける。
「僕はね~、国王として1つだけ法律を作ったことがあったんだ~」
国王の言葉は相変わらず緩やかで笑顔も変わらないのに、何故か得体のしれない何かが見える気がして数名の生徒が後退る。
「不貞を働いた場合は不貞を働いた相手にも報復ができるって法律~、アレね~、僕が作ったの~。ねえ? 君と関係があった男を僕が赦すと思う?」
にこやかな微笑みの背後に禍々しいオーラが見えて、ゾクリとした感覚に囚われる。
国王の瞳の奥が仄暗い色を湛えているのを見た王妃が焦ったような声を出す
「マ、マー君?」
「二度と悪いことが出来ないように徹底しないとね~。もう王妃じゃないから御簾越しでも人前に立つことはないし、子供達も手がかからなくなったから~。だからもう僕は君を永遠に閉じ込めておけるんだ~、ね?」
狂愛の言葉を緩い口調で言い放った国王の、寒気がするような雰囲気に誰しもが息を呑む。
ああ、やはりこの国王はあのオーハラの兄なのだなと。
無能の皮を被っているがそれは単に全てのベクトルが王妃に向かっているから他の事に関心がないだけなのだと悟った。
ポカンと口を開けた王妃を国王は横抱きにしてスタスタとこの場を後にする。その背に向かってオーハラは深々と溜息を吐く。
「全く、普段はとろいくせにこんな時だけ風のように去りやがって腹が立つわね」
そう小さく呟き、高々と宣言をした。
「卒業おめでとう! この晴れの日に我が国は今この時より王制を廃止し、王族籍、貴族籍を撤廃する。以上を持って、解散!」
◇◇◇
「はい、ニクス。あ~ん」
「あ~ん」
今は首都と呼ばれる元王都の、とある店屋のカウンターで一口サイズのから揚げを手に新婚夫婦がちちくりあっている。
「君に食べさせてもらうから揚げはいつにも増して美味しい」と夫が頬を緩めると、妻が嬉しそうにはにかむ。
数年前に突然王制が廃止された時は驚天動地の騒ぎだったが、優秀な官僚のおかげでスムーズに民主化は進み国民は平和な日々が送れていた。
民主化モデルシティとして視察に来る他国の人々で、この夫婦が経営する肉屋の売上も上々だ。
妻はから揚げの最後の一個を夫に向ける。その時、カウンターの奥にある調理場に『だんっ!』という音が響き渡った。
「ニック、誰が途中で終えていいって言った?」
調理場の固い壁に包丁が刺さったすぐ脇には、唐揚げを食べていた夫であるニクスの弟ニックが薄ら笑いを浮かべて固まっている。
ニックの前にある作業台の上には豚肉の塊が半分程薄切りにされており、どうやら彼は仕事の途中で遊びに行こうとしたのを荒っぽいやり方で制止させられたらしい。
しかしこんなやりとりは日常茶飯事らしく渋々ニックが薄切り作業に戻ると、ニクスは妻が差し出したから揚げを美味しそうに平らげた。
その姿を目を細めて見ていた妻は何かを思い出したように首を傾げる。
「そういえば、お義父様は?」
「母さんに逆さ吊りにされて井戸に吊るされてる」
「お義父様も懲りないわね」
義父の浮気はもう病気だ。きっとまた若い女性に手を出して義母にお仕置きされているのだろうと見当をつけて苦笑する。
ついでにいえば夫の弟のニックもナンパ者で有名である。
彼女の夫は至って真面目で自分一筋だというのに親兄弟なのにこれほど違うものなのかと、妻が夫の顔をマジマジと覗き込むと彼は心配そうに彼女を見つめ返した。
「スカーレット、本当に俺で良かったのか? 俺はしがない肉屋だし、親父と弟は綿菓子よりも軽い人間だ。こんな俺に好きです! 結婚してください! って妖精が現れたときは詐欺師に引っかかったのかと思った」
そんなニクスの言葉にスカーレットはからころと明るく笑う。
「お母様と世界を旅している時に、この世で一番美味しいのはお肉なんだと気づいたんです。肉最高、肉天使、そんな素晴らしいお肉を扱うお肉屋さんに、ニクスのような素敵な男性がいたのですもの。プロポーズしない選択肢はありませんでしたわ。ニクスは性格も顔も全部私の好みで……その……夜の方もすごく……」
そう言って頬を染めたスカーレットの顔をニクスの両手が包むこみ見つめあう。
「スカーレットは煽り方が上手いな。今晩も……覚悟しろよ?」
「ニクス……」
「スカーレット……」
調理場の弟の存在など既に完全に忘れている2人の顔が徐々に近づき、お互いの唇が触れる寸前で、店の扉を勢いよく開ける音がした。
「スカーレット! ちょっと匿ってよ!」
扉を開けるなり乱暴に言い放った女性客に、スカーレットは舌打ちを堪え営業スマイルを貼りつける。
「あらスミア、いらっしゃい。今日は何にします? モモ? ロース? ヒレ?」
「ヒレよ! 畜生! あら? ニックいたのね?」
仕方なくというように高級部位を注文したスミアは、カウンターの奥にある調理場にニックがいることを知ると途端に破顔する。
「弟に色目を使うな。また騙されるぞ」
ニクスに苦い表情で言われたスミアだったが、名前を呼ばれたニックが笑みを浮かべて手を振ると目尻を下げて両手を振り返した。
スミアがニックに7股をかけられた挙句、財布から現金を抜き取られて振られたのは、ついこないだの話だったはずだ。盗んだお金はスミアへ返金させたが、その金はニクスが立替え払いしたため現在ニックは絶賛ただ働き中なのである。
そんなことをされたのに懲りていないのだろうかと呆れつつ、スカーレットはカウンターの扉を開ける。
「ヒレならカウンターの中に入れて差し上げますわ」
「しっかりしてる! ちなみにモモなら?」
「入口で放置」
にっこりと微笑みながら言われた冷たい一言に、スミアの顔が引き攣る。
「ヒレ1㎏でお願いするわ」
隠れるようにカウンターの隅に座り込んだスミアの薄いドレスは、ざっくりと開いた胸元が強調される作りでスカーレットは溜息を吐いた。
「毎度どうも。それにしても相変わらず目のやり場に困る衣装ね」
「娼婦なんだから仕方ないでしょ」
外の様子を気にしながらスミアは頬を膨らます。
あの婚約破棄からの王制廃止騒動の後、スミアは関係のあった男子生徒に詰め寄られ慰謝料を請求されていた。その慰謝料は到底下位貴族に支払える金額ではなく、困ったスミアの家族は彼女を娼館に売り飛ばし高跳びしてしまったのだった。
その後、慰謝料は双方合意の行為だったため支払い無用とされたのだが既にスミアは娼館に売られ客をとらされた後であった。
そんなスミアの境遇にさすがにスカーレットも眉を顰めたが、肩にかかるベビーピンクの髪を弄びながら本人はあっけらかんと言い放つ。
「私ねぇ娼館に売られた時には落ち込んで悲観したんだけど、娼婦って天職だと思うの! だって色んな男と色んなプレイが出来るもの! 最高だわ! まだまだ未知との遭遇がありそうで、やめられない止まらないわよ!」
「私はてっきり貴女はお金持ちかイケメンしか受付けないのかと思っていましたわ」
「お金とイケメンが好きなのは否定しないけどね! それよりモノとテクよ! うわっ! 来た!」
チチチと人差し指を横に振ったスミアは、店の外に金髪の人影が現れたのを発見するや、慌てて身を小さくする。
スミアがスンとした表情で膝を抱える向こう側では、金髪の男性がチリンチリンと店の扉を開けて入店してくるなり彼女のことを訊ねてきた。
「ちは~、スミア知らないか? おっ! スカーレット、私の愛人になる気になったか?」
「屑は屑箱に戻りなさい」
金髪の男性、ベンジャミン元王太子は廃嫡された後、暫くはやさぐれていたが同情した街の人によって清掃業の仕事を任されるようになっていた。清掃業の親方は厳しい人で有名だったのでベンジャミンの横柄な態度は今ではだいぶ改善されている……らしい。
しかし頭の中身は未だに花が咲いているようで、スカーレットのにべもない言葉に一瞬怯むもベンジャミンは彼女に腕を伸ばした。
「その冷たい眼差しも愛情表現の裏返しなんだろ? 婚約破棄の時に泣いて縋れば許してやったものを……」
刹那、牛刀の腹がベンジャミンの頬に当てられる。
「細切れにされたくなければその手をこれ以上伸ばさないことだな」
「げっ! ニクス、いたのか!?」
ニクスにぺチペチと牛刀で頬を叩かれたベンジャミンは後退りして狼狽えた。
最初からスカーレットの隣に立っていた大柄なニクスの存在に気づかないベンジャミンの視力を本気で疑いたくなったスカーレットだが、どうでもいいかと思いなおし営業スマイルを貼りつける。
「それで? 本日はどのお肉にいたしますか?」
「スカーレット、やっぱりお前はまだ私に未練があるんじゃ……」
スカーレットの営業スマイルにベンジャミンが呆け、またしても根拠のない思い込みを口にする。
「細切れではなくミンチが希望か」
ベンジャミンの妄言に牛刀を両手に構えたニクスがスカーレットとの間に立ちはだかり、眼からビームが出そうな形相で睨みつける。
その威圧感にベンジャミンはたじろぐと、逃げるように店の扉へ手をかけた。
「ちっ! 愛想のない肉屋だな! 今日は買い物に来たんじゃない! 私の婚約者……スミアを見かけたら連絡をくれ!」
「じゃあな」と言って脱兎のごとく店を出て行ったベンジャミンの姿が見えなくなってから、スミアがそろそろとカウンターから頭を出す。
「ったく! しつこいのよね。王太子じゃないベンジャミンなんてミジンコ以下だってのに! 誰があんな奴の婚約者になるかっての!」
心底嫌そうに舌を出したスミアにスカーレットが眉を下げる。
「結婚してあげたら? 相変わらず屑だけど、一応真面目に働いてるんでしょ?」
「あんな下手な奴い・や! イケない男とやる義理ないわ」
間髪を容れずに断言したスミアにスカーレットとニクスは目を合わせて肩を竦める。
そこへまたしても店の扉が開く音がした。
「スカーレット! ここにリオン様がこなかった?」
長い髪を振り乱してズカズカと入店して来た女性にスカーレットが目を丸くする。
「今日は千客万来ね。アンナ、久しぶり。興信所の仕事で隣国に行っていたのではなかったの?」
「それなら昨日完了したわ。それより東の国の王太子リオン様がこの国に視察に来て、ついでに超高級お肉を買うって噂を聞いてすっ飛んで帰ってきたんだけど」
スカーレットを敵視していたアンナ元王女は想像力と粘着質の性質を活かして興信所で尾行調査等の仕事をしている。暫く母オーハラについて冒険者になっていたスカーレットが離れていたことと、両名とも平民になったことで昔のように突っかかることがなくなり、今では肉屋の若女将と常連客として普通に過ごしていた。
アンナの髪の乱れ具合から、本当にすっ飛んで帰ってきたらしいとスカーレットは推察し、その情熱を違うことに向けたらいいのにと小さく溜息を吐いた。
「リオン様なら午前中に来られたわよ。奥様が美味しいお肉に目がないんですって」
「ぐっ! 躱されたか! って、お、奥様!? 奥様って何!?」
「知らなかったの? リオン様は自国の侯爵令嬢とご結婚されたのよ」
「嘘……知らなかった……私の髪の毛入りのクッキーも、血文字のラブレターも喜んでもらえてると思ったのに……」
(((怖い。何、そのプレゼント……)))
アンナ以外完全に引いているが、本人だけが「どうしてぇ!?」と泣き叫んでいる。
大体、東の国の王太子リオンが結婚したのはもう半年も前の話だ。
視察のついでにお肉を買うというレアな情報は掴んでくるくせに、どうして自分に都合の悪い話にはこうも盲目になれるのかと、スカーレットはアンナをいっそ尊敬さえしてしまいそうになる。
一気に意気消沈してしまったアンナの肩をスミアが労わるように叩いた。
「アンナ、もういい加減ストーカー行為はやめて落ち着きなよ」
「うちのニックなら遠慮なく進呈するぞ?」
「本当!?」「ええ!?」
ニクスの言葉にアンナが歓喜の、スミアが不服の声をあげる。
ちなみにアンナはニックが運命の相手だとのたまい一時ストーカー行為をしていたが、度重なる他の女性とのエロ現場を見せられ撃沈していた。それでも焼けぼっ杭に火がついたのか瞳を爛々とさせる。
スミアは単純に身体の相性がいいニックをとられるのが嫌で口を尖らせている。
ニヤリと笑ったニクスは調理場で黙々と細切れ肉をさばいている弟に目を向けた。釣られてアンナとスミアも視線をニックに向ける。
そんな二人にニックは女性受けする甘い笑顔を向けて爽やかな声で言い切った。
「いや、俺は永遠に色んな女と遊んでいたいから結婚とか無理」
蕩けるような笑顔から繰り出されたゲスな発言に、アンナとスミアは脱力しニクスの瞳は虚ろになる。
「お前は……本当に親父似、いや、それ以上だな……」
ニクスの言葉にスカーレットが胸中で「本当にね」と頷くと、早くも立ち直ったスミアが上目遣いをしながら娼婦らしく妖艶な笑みを浮かべた。
「そういえばニックとするのは最高だけどニクスはどうなの? 試してみたいわ。ねぇ、ニクス、私とイイ事しない?」
「俺はスカーレット以外興味はない」
しな垂れかかろうとしたスミアの手をすり抜けて不機嫌そうに調理場へ引っ込んだニクスを見送って、スカーレットがとんでもなく黒いオーラを纏わせて優雅に口角を上げる。
「……うふふふふ、スミアったら。今度はベンジャミンの時のように生温い制裁はしないわよ?」
「はぁ!? あれで生温いですって? 私、何度か死にかけたんですけど!?」
「そうなの? はい、ヒレ肉1㎏お待たせしました」
喚くスミアへヒレ肉を包んだ袋を渡したスカーレットが端然とした笑みを浮かべて囁く。
「でも人のモノに手を出したのですもの。当然よね?」
いまや世界屈指の冒険者で大海賊の一人となった母オーハラ譲りのスカーレットの眼力を受けて、スミアは咄嗟に視線を逸らす。
次のストーカー相手を誰にしようかとブツブツと地面にのの字を書いていたアンナも背筋に冷たいものが伝ってごくりと喉を鳴らした。
そんな二人にスカーレットはにっこりと微笑むと退店を促す。
「ありがとうございました。またどうぞご贔屓に」
◇◇◇
この国では浮気を決して許さない。
それは王制から合議制に変わった今でも変わることなく住民に周知されている。
しかしその法律を作ったのが王制最後の国王だったということはあまり知られておらず、彼と王妃がどのような最期を迎えたのかも解っていない。
大団円とか言いながら王妃だけハッピーなのかどうなのか、わからないオチになってしまい申し訳ないです。
ご高覧いただきまして、ありがとうございました。