七日目
◆ ◆ ◆
妻の歌声が聴こえる。
音程は微妙にズレているものの、子守歌だろうか――と、そんな優しい雰囲気であるにも関わらず、よく聴けば昔の冒険モノのアニソンだった。
妻が大好きなアニメの主題歌だった。子供ができたら、そのアニメの主人公の名前にするんだと豪語していたっけ……? その時を想像するだけで、億劫だ。本当にドラゴンをなぎ倒すほど気の強い女の子に育ったら、どーするんだ。
そんな俺の心配をよそに、そのアニソンはどんどん激しくなっていく。下手くそなくせに、コブシが効いてノリノリだ。そんなに大熱唱されたら、どんなに疲れてたって、ツッコまないわけにはいかないじゃないか。
「おい――」
思わず苦笑して、顔を上げる。
いつも間にか寝ていたらしい。カーテンの隙間から見える空が明るい。時計を見ると、もう十二時を回っていた。
なに久々に熟睡してんだよ……。
自分自身に呆れつつ、俺が部屋を見渡す。
生活感が廃れつつある部屋。だけど元から、一角にある大きなメタルラックだけが、おもちゃ箱をひっくり返したようにぐちゃぐちゃだった。ここは、妻専用の物置。片付けられない妻のために、専用のスペースを作ったはいいものの、案の定、ただそこにツッコむだけで、一つ取り出すだけでモノが落ちてくる惨状となった。
「つまり、全部おまえに管理させても、ゴミ屋敷には変わらないってことだよな?」
厭味ったらしくそう言っても、もちろん返ってくる答えはない。
等身大の妻がいないのはもちろん、身長三センチの妻の姿もない。
「やっぱり、ただの幻覚だったのかな……」
それでも、歌声はまだ俺の耳に届いていた。
その微妙に下手な歌声は――部屋の外から聴こえてくる。
「いるのか?」
俺が問いかけても、妻は答えない。
気が付けば、アニソンも止んでしまっていた。静かな部屋。ただ時計の針と冷蔵庫だけが静かに音を立てている。
「……いつまでも、幻覚見てるわけにもいかないよな」
今日は休日。仕事はない。
それでも、俺はだるい身体でなんとか立ち上がった。
着たままのスーツは、すっかり汗臭くなってしまった。このまま妻に会ったら、さすがに怒られるかもしれない。
妻とこれを買いに行った翌日、彼女は倒れたのだ。新品だった記念のスーツがこんなにボロボロになったのを見たら、妻はショックを受けるだろうか。
埃を叩くように胸元を叩くと、ふとスーツが破けていることに気付く。
「マジかよ」
よく見ると、胸のポケットに安全ピンで無理やり開けたような穴があった。
病院へ行き、おぼつかない足取りで妻の部屋へと赴く。見覚えのある看護師に会釈したら、彼女は驚いたような顔をしていた。「あとで先生も呼びましょうか?」なんて言われても、俺は適当に愛想笑いで流すことしかできない。
病室の扉を開けると、妻はひとり、眠っていた。
昼寝が好きな妻である。点滴に繋がれ、優雅に目を閉じている姿は、もしかしたら彼女の本望かもしれない。
備えの冷たいパイプ椅子に座って、妻の手を握った時である。
彼女の胸の上でぴょこぴょこと、小さな虫が飛び跳ねていた。目を擦ってよく見てみると、白いフワフワなドレスを着た三センチくらいのそれが、両手をブンブン振って叫んでいる。
「チューして‼」
俺は即座に吹き出した。ウエディングドレスのようなティッシュペーパーで身を包んだ妻が口を尖らせて、やっぱりうるさい声でせがんでくるのだ。
「そんなにちっこいと、キスも出来ないんだけど?」
そう切り返すと、三センチの妻がてけてけと彼女自身の身体を登っていく。そして、首から顔に登れないのだろう、あごへと手を伸ばして、何度も飛び跳ねていた。
なんとなく言いたいことはわかった。どんな姿になっても、俺のただ一人の妻なのだ。
彼女のささやかな願いを叶える覚悟は、結婚式の時に誓っている。
だけど、その前に落ちたら危ないので、俺は小さすぎる妻をそっと摘み、元の胸の辺りに戻した。
「チュー‼」
「しつこい!」
たとえ幻覚であっても、やっぱり妻はやかましくて、飽きない。
「まったく」
病める時も、健やかなる時も。
たとえ寝たきりになっても、意識がなくても、三センチになっても、幻覚かもしれなくても。
妻のわがままを叶えるのは、俺でなくてはならないのだ。
「まぁ、程度にもよるけどな」
俺は人形のように眠る等身大の妻に、軽く口づけした。その唇は柔らかくて、思ったよりも温かい。
別に、俺はキスが嫌いなわけじゃない。だけど、やっぱり寝起きとか口が臭い時は嫌だし、仕事の前にして、そのまま抱きしめたくなっても困る。もちろん、人前は論外だ。
それなのに、妻は恩着せがましく言う。
「ようやくチューしてくれたね」
それは、確かに俺の鼓膜を揺るがした。
慌てて等身大の妻の顔を見れば、彼女はうっすらと目を開けて、苦笑していた。
いつもより少しだけ小さく、だけど人より高めの耳に残る声に、俺は思わず涙を零す。
そんな俺に、身長百五十センチの妻は言う。
「泣いてるの?」
「泣いてるよ!」
奇跡だろうが、愛のパワーだろうが、なんでもいい。
たとえ病んでいようが、健やかだろうが、この先も俺と一緒に生きてくれるならなんでもいい。
一緒に笑って、一緒に泣けるならなんでもいい。
俺は最愛の妻を抱きしめ、何度も、何度も彼女の名前を呼ぶ――――
「ふふ」
「なんだよ?」
「アナタのキスで目覚めるなんて、まるでお姫様みたいね」
「……そりゃあ、よかった」
その時、三センチの妻のまぼろしは、もうどこにもいなかった。
だけど、そりゃそうかと納得する。
「大好きよ」
「知ってる」
「わたしがいないと、本当アナタはダメなんだから」
「……それはどうかな」
本物の妻が、俺みたいなダメな亭主の顔を見て、幸せそうに笑ってくれているのだから。