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六日目





 目を開けると、そこは見慣れた自宅の天井だった。

 だけど、ひょっこり顔を出してくるのは、見慣れた妻の顔じゃない。


「あー、良かった! お目覚めですね!」


 ホッと笑うのは、職場でしか会わないはずの後輩の姿。


「な――おまえ、どーして⁉」


 俺が慌てて布団から飛び起きると、後輩はボリボリと頭を掻く。


「どうして言われましても……今日も連絡無しで出社してこないから、代表としておれが様子を見に来たんすよ。てか係長、さすがに鍵もかけないのは危ないと思いますよ? そんなんじゃ、奥さんに怒られちゃいますって」

「今日も……?」


 枕元に投げてあった携帯の画面を見れば、すでに日付が変わっていた。時間ももう昼過ぎだ。どうりで、外からの光が眩しいはずである。


 それなのに、俺は昨日会社に行った時と変わらない姿。妻と選んだ大切なスーツも、ジャケットすら脱がずに寝てしまったからか、よれよれもいいとこだ。


「……てか、昨日の記憶すらないんだけど……」


 思わず呟くと、後輩は一瞬顔をしかめつつも、ゆっくりと話してくれる。


「昨日も、給湯室で倒れたのは覚えてます?」

「あ、あぁ……ぼんやりとだけど」

「すぐに目を覚ましたけど、早退したじゃないっすか。病院は行かなかったんですか?」

「……記憶にない」

「まぁ、あの空き缶の山みたら、そーでしょうね」


 後輩が見やるのは、ローテーブルに山程転がる缶ビールのゴミ。だけど、ゴミはそれだけじゃなかった。部屋中そこかしろに酒を飲んだ形跡が散乱しており、脱ぎ捨てられた洋服なども含め、足の踏み場がまともにない。


「あいつ、どんだけ部屋を汚せば……」


 そうやって見渡しても、妻の姿はないが――あぁ、そうだ。妻は三センチのミニマムサイズになったんだった。ざっと見渡した限り、部屋の中に妖精モドキの姿もないな。そういや、スーツのポケットに入ってたんだっけ? あいつ潰れてなければいいけど――――


「――てか、係長きいてます⁉」

「あ? なんだよ。まだいたのか?」

「まだいたのか、じゃなくてですねー……」


 俺がスーツのポケットを覗こうとした時、後輩は懇切丁寧に俺の声真似をしながらも、困ったように顔をしかめていた。


「こんな酒ばかり飲んでないでですねー、ちゃんと病院に行って、きちんと寝ましょうよ。まずはそれからでしょう? こんな姿の係長を奥さん見たら、間違いなく泣いちゃいますよ」

「……こないだもそんなこと言ってたな。おまえも知ってるだろ? あいつは酔いつぶれた俺なんか見ても、喧しい説教するだけで――」

「なにバカなこと言ってるんすか! 奥さんが倒れてから、ろくに寝れてないんですよね?」


 ――――え?


 なんか、おかしなことを言われた気がする。

 俺がバカだって……? そこからして気になりもするけれど、そうじゃなくて……。


「アナタ……」


 ふと、小さく妻の声がした。

 そうだよ、確かに最近まともに寝れてないけど、それは妻のせいなんだ。あいつがいきなり身長三センチなんかになりやがったせいで、余計に手間や心配ばかり掛けさせるから……。


 スーツの胸ポケットを覗き込むと、やっぱり三センチの妻が俺を見上げていた。しいて俺の想像と違うことといえば、「窮屈だった!」て怒っているのではなく、泣きそうな顔で俺を見上げていることだ。


 やばいな。そんなに苦しい思いさせてたか……とりあえず、後輩をさっさと追い返してから――


「奥さん説教したくても、病院のベッドで寝たきりで説教すらできないんすよ! こんな時ですから、仕事はどーでもいいんすよ。でもね、奥さんのお見舞いにすらまともに行ってないって話じゃないっすか! おれなんかが言うことじゃないかもしれないっすけど、奥さん身内もまともにいないんすよね? 係長がこんなで、どーするんすか⁉ 奥さんには、係長しかいないんですよっ!」


 後輩は言いたいことだけ言って、立ち上がった。俺を見下ろす目が、とても悲しそうだった。


「先週、部長と一緒に奥さんのお見舞いに行ったんです。気のせいかもしれないですけど、奥さんの寝顔、すごく寂しそうに見えました。部長にはおれから、具合悪そうだから休むと伝えておきます。明日ちょうど土曜ですから、今日ゆっくり休んで、明日こそ奥さんに会いに行ってあげてくださいね!」


 後輩が何を言っているのか、理解ができなかった。


 妻のお見舞い? そんなんじゃまるで、妻が入院しているみたいじゃないか。


 俺が呆然としている間に、後輩は家から出ていく。


 あーそういや、鍵を閉めてなかったんだっけ? 俺は足をもたつかせながらも、玄関に向かおうとした。確かに頭が割れそうに痛い。


 ふと、テーブルの空き缶の山が目に入った。少なく見積もっても、十本近く空いている。そんなに飲んだ記憶はないし、そもそも俺も妻も酒は強くないから、買い置きもしていなかったはずだが――と、そこで、空き缶の下に埋もれている一枚の紙が目に止まった。


 それを手に取ってみると、あまり読みやすいとは言えない字と、簡単な絵で何かを説明しているようなものだった。その中でも、一際大きな文字で『脳卒中』と書いてある。


「アナタ……」


 ポケットの中の妻が、膝を崩した俺を呼んだ。


 再びポケットを押さえる俺の手に、微かな温もりを感じる。穴から手を出したのだろう、妻の小さすぎる手に、思わず涙が出そうになった。


「はは……なぁ? どうしておまえ、ちゃんと温かいんだよ……?」


 俺の質問に、いつもうるさいはずの妻は、何も答えてくれない。


「なぁ? どうしてなんだよ……なぁ! なんでおまえは、そんな姿になってまで、こんな俺の心配なんかしてるんだよっ‼」


 俺はテーブルの上の物を薙ぎ払う。それは、妻のお飯事ままごとのような生活用品紛いのものではない。全部ただのゴミだった。俺が現実から逃げるための道具にすぎないゴミだったのだ。


「くそっ‼」


 テーブルに顔を伏せると、ふと鼻頭に温かいものを感じた。少しだけ顔を上げると、どうやって移動したかわからない三センチの妻が、心配そうな顔で俺の鼻頭を撫でている。


「おまえは……何者なんだよ?」

「わたしは……」


 しぼむように細まる声は、肝心な単語を俺の耳まで届けてはくれない。


「どうして……どうして……!」


 俺はテーブルを叩いて、そのまま再び目を閉じる。



 ◆ ◆ ◆



 妻が倒れたのは、半年前だった。


 いつも通り残業して家に帰ったら、妻が倒れていた。料理の途中だったのだろうか、少し焦げたカレーの匂いが漂う部屋で、吐いた跡と共に横たわっていたのだ。


 声をかけても意識が朦朧としている妻を抱きながら、呼ぶのはもちろん救急車。


 搬送された病院で、医師から告げられたのは聞き覚えのある脳の病気。女性の方がなりやすく、また発症年齢が若いとはいえ、因子があれば若い女性でもなる確率は低くないという。早くに他界してしまった彼女のご両親ともに、高血圧の薬を飲んでいたらしい。充分にその遺伝子を受け継いでいたのだろう。


 命に別状はない――という医師の奇跡的な言葉に安堵したのも束の間、搬送までの時間がかかったことから、意識が戻るまでに時間がかかるという診断にショックを受けたのは言うまでもない。


 それから、半年。


 しばらくは溜まった有休を無理矢理消化して妻の眠る病院に通っていたが、いつ回復かわからない最中、職を失うというリスクは非常にまずかった。世の中は非情で、なにをするにも金がかかるのだ。


 入院するのも。点滴するのも。手術するのも。着替えを用意してもらうのも。


 気休め程度の保険は、本当に気休めにしかならなかった。

 国の制度を利用しても、それでも月に十万以上が飛んでいく。


 金。金。金。

 

 金がなければ、妻が死んでしまう。

 金がなければ、妻の喧しいわがままを、二度と聞けなくなってしまう。


 金。金。金。


 働かなくては、妻の顔が見れなくなってしまう。

 働かなくては、妻の可愛い願い事を、二度と叶えられなくなってしまう。


 最初は、俺も頑張った。仕事と病院の往復はとても辛かったけれど、それでも、妻がまた笑ってくれるかと思えば、いくらでも身体が動いた。俺には疲労という感覚が初めからなかったのかと思うほど、いくらでも妻のためにと、働くことができた。


 ――――だけど、妻は一向に目覚めてくれなかった。


 どんなに声をかけようとも、どんなに笑わそうとしても、どんなに手を握っても。


 ずっと、彼女は目を瞑ったまま。


 目を閉じれば、すぐにでも妻の笑顔が浮かんでくるのに。

 耳をすませば、今も耳の奥に妻の声が残っているのに。


 ベッドに横たわったままの青白い妻は、話してもくれなければ、手を握り返してもくれない。


 毎日。毎日。毎日――彼女は眠ったまま。





 いつしか、俺は病院に行くのが怖くなった。だって、いくら足を運んでも、妻は何も反応してくれないのだ。


 妻に繋がった機械の音が、継続的に響くだけの病室。俺がいくら話しかけても、ピ、ピ、ピ、と全く同じ心電図の音でしか答えてくれない妻。


 始めは、それが妻が生きている証だと、自分に言い聞かせた。

 だけどいつしか、それすらも怖くなった。


 この音が変わってしまったら――その時は、妻が死んでしまう時。

 喧しくなったが最期――その時こそ、妻から永遠の別れを告げられる時。


 それが怖くて。怖くて。怖くて。


 俺はいつしか、仕事と家の往復しかしなくなった。


 仕事に行かないという選択肢はなかった。

 だって、金がなくなってしまったら、妻のわがままが叶えられないから。


 わたしは病院でずっと寝ていたいのよ――という、わがまますら、叶えられなくなってしまうから。


 少しだけ、働いている時だけは妻のことが忘れたというのもある。

 それでも、ふとした瞬間に思い出すのは、妻のこと。


 いつ携帯に急変の連絡が来るかもしれない――その恐怖は、ふと緊張の糸が切れた瞬間、必ずといってよいほどやって来る。


 だからその恐怖を消すために、俺は家に帰るとひたすら酒を飲んだ。

 しかし、まるで美味しくない。そもそも、酒は苦手なのだ。


 それでも、俺は浴びるほど酒を飲む――このまま眠れれば、夢で元気な妻に会えるんじゃないか、という、一縷の望みをかけて。


 



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