四日目
「お留守番やだああああああああああああ!」
「わーかってるよっ!」
ギャーギャー泣き叫ぶ三センチの妻を一人家に置いておけないのなら、どうするか。
答えは明白、連れて歩くしかなかった。
スーツの胸ポケットに入れてみたはいいものの、
「暗い……暗いよぉ。何も見えないよおおおおお」
と泣き止まないので、仕方なく安全ピンで少し大きめな穴を開けた。
あーあ。三十路の記念に買った新しいスーツだったのに。
一緒に選んでくれた妻は、そんな俺の気も知らずに、
「アナタの働いている姿見るのは久しぶりね! あのチャラい後輩くん、仕事できるようになったの?」
会社のビルの自動ドアを通る俺に対して、ご機嫌に話しかけてくる。
妻とは社内恋愛だった。身体が弱く、よく頭痛がすると悩んでいたため、結婚を機に退職した妻。久々に見る光景に、テンションが上がっているのだろう。
「……外であまり喋るなよ」
「いいじゃない。どうせ誰にも聴こえないんだし」
やっぱり疑問なのだが、どうして三センチしかない妻の声が、こんなハッキリと聴こえるのだろうか。
口も小さければ、喉も、肺も、それなりのサイズのはず。こうして外を歩いていても、他の音が特別大きく聴こえるわけではないから、俺の聴力が発達したわけでもない。
「おまえ、テレパシーでも発してんの?」
「まぁ、アナタへの愛のパワーだったら、誰にも負けるつもりはないけど?」
うん、知ってる。AかBと聞いたらCを答えるような奴だというのは、嫌でもよくわかっている。
「アナタのためならね、わたしは奇跡の一つや二つ起こすことだって出来るのよ?」
「くどい」
項垂れつつ足を進めると、肩を叩いてくるのは例の後輩だった。
「ちわーす、係長! 体調大丈夫なんすか?」
「あー……おかげさまでな」
俺がなげやりに応えると、胸にいる妻が「わぁ、後輩くん相変わらずだねぇ」なんて騒ぎ出すので、俺はとっさに胸ポケットを押さえた。
すると、後輩が心配そうに顔をしかめる。
「どうしたんすか、係長。胸、痛いんすか?」
「あ、別に……」
俺が誤魔化そうと頭を働かせていると、後輩は言う。
「無理はしないでくださいよー。係長倒れたら、奥さん泣いちゃいますよー?」
「……それはそれで迷惑だな」
そもそも、近頃の俺の苦労は、妻が三センチなんかになりやがったからだ。そのせいで散々振り回され、昨日だって出社できなかったのに、これ以上泣かれたらたまったもんじゃない。
俺がため息混じりに答えると、後輩が「ははっ」と笑う。
「その意気っす、係長! おれ、出来ること何でもしますからね!」
「そんな大袈裟言ってないで、とっとと仕事覚えてくれ……」
その後、昨日休んでしまったことを部長に謝罪しに行くと、部長も俺の肩を叩いて「無理はするな」と優しい言葉をかけてくれた。
俺がそんな居たたまれない一日を過ごす中で、妻は――――
「ねぇねぇ、アナタ。ちょっとその書類間違っているわよ? しっかりしなさいよ! あ、ここの予算、ちょっとオーバーしてないかなぁ? てか、なに手が止まってるのよ? おサボりは許さないぞっ!」
俺の胸ポケットから、重箱の隅を突っつくような勢いで、俺の仕事に口出ししてくる。
あー、仕事中くらい黙ってくれ……。
そうは思っても、俺は言わない。
まわりに聞かれたら――という問題以前に、どうせ言ったところで、妻が言うことを聞いてくれるわけがないのだから。