第七話 安らかな朝
『レイドリオン大陸』。
この大陸は、遥か数万年前の古き時代から、人類世界の中心地としてこの世界で栄えて来た。
そして約一千年前まで、世界には魔法による高度な文明が存在していた。
世界の各地を遍く魔法の力で治め、高度な学問、巨大で複雑な建築物、満ち足りた水準の生活を築き上げていたという。
しかし、それらの魔法文明は多くの謎を残しつつ、『文明崩壊』と呼ばれる日を境に滅亡した。
魔法の栄えた時代が終わり、今現在、人々は独自の力で文明を再興させて来た。
多くの魔法の知識や技術は失われたが、残された物も多く、それらは今も尚人々の暮らしを様々な面で支えていた。
大陸各地を繋ぐ、長大な街道。
大都市に残された、上下水道の設備。
品種改良された、様々な家畜や作物。
そして広く浅く残された、魔法の知識と技術。
しかし、その全てが有益なものとは限らない。
今となっては何の為に造られたのかも判らない、多くの廃墟や遺跡群。そこに残されているのは、過去の正負の遺産。
人を狂わせる莫大な富と、それを守る恐怖の罠と異形の番人達。
文明崩壊以来、宝を求めてそれらに挑み、多くの命が失われて来た。
現代、それは血と鉄の時代。
自らの力を高める為、或いは富と名声を得る為、古代の脅威に立ち向かうそれらの危険を敢えて冒さんとする者達の事を、人々は『冒険者』と呼んだ。
レイドリオン大陸の多くの場所では、乱雑に『人』と呼ばれるいくつかの知的生物が支配者として君臨し、各地に国を作り暮らしている。
特に、その数が最も多い『人間』族の国は、大陸西方と呼ばれる場所に広く栄えていた。
その中でも『西方の三大国』と呼ばれる三つの国が、最も名高いであろう。
森と湖、鋼と獣の帝国『ジーネボリス』。
小麦と果実、詩と書物の王国『ロルドニア』。
退廃と黄金、海賊と奴隷の王国『ヘルトーラ』。
それぞれ広大な地を皇帝や王、貴族や大商人と呼ばれる特権階級が支配し、多くの農民や一般市民、或いは奴隷達がその生活を支えている。
無論、大陸の各地に人の住まう領域は他にも多数あった。
大陸の北の大地に広がる広大な『北方山岳地帯』と、そこに暮らす蛮族と呼ばれる部族の民達。山々の地下に広がる『ドワーフ』族の王国。
多数の小国家が乱立し、戦乱の絶えない『小国家群』。
その深部に、『エルフ』族の王国を抱える緑の大海『大森林』。
大陸東方、文明崩壊で海に沈んだと語られる、東の島の移住者達が建国した国家『ホウライ』。
海峡を通じて外海と繋がる、大陸内に広がる地中の海『エゼルティール海』。その海の南側、砂塵の舞う地に栄える『ジプティール王国』。
それより南には通常、人の足では達する事が出来ない。大陸は中央部分で、人が通えぬ秘境によって分断されているからだ。
大陸を中央で遮るのは、灼熱の『ユーミード砂漠』。打ち捨てられ廃墟と魔物が蠢く『大荒野』。聳えるは、目が眩むほどに雄大な『大巨人山脈』。
海を船で渡るなら、大陸南方には熱帯地方や大草原が広がり、三国による植民都市が建設され、珍しい産物が貿易されている。
さらに大陸南部には、古き神々を崇める謎の国家があるとも噂されていた。
謎と神秘、危険と財宝、そして血に飢えた魔者達。
古き大陸レイドリオンでは、常に多くの物語が紡がれて行くのであった。
セディル達兄妹が、森の中で忍者の男に救われてから、一晩が経った。
この数日間、地面に掘った穴に隠れての野宿の日々が続いていた。
その疲れが出たのだろう。
館の二階の客間にあった柔らかいベッドに、先に眠ってしまったセディナを寝かせ、自分もその横で布団を被ると、セディルもすぐに目蓋を閉じてしまった。
久しぶりにグッスリと眠り、体力を回復させたセディルは、翌朝セディナと一緒に元気良く目を覚ましたのである。
「お兄ちゃん、これも」
妹に服を着せてやると、セディナは最後に包帯を差し出した。いつものように、これを顔に巻いて欲しいようだ。
「セディナは、まだこれを巻き続けるの?」
村を飛び出した以上、もう二人が顔を隠す必要はない。
元々彼らの母親が、自分とは似ていない子供達の顔を人に見られるのを怖れ、行わせて続けていた習慣に過ぎないからだ。
「うん、お母さんのお願いだったから」
無邪気なセディナは、そう言って笑った。
この子にとっては、それが母親との繋がりなのだろう。幼いながらも賢いセディナは、自分達兄妹が母親に捨てられた事を何となく判っているようだった。
しかしそれでも、母親の言い付けを守っていればいつかまた会えると、信じているのかも知れない。
「そうか、セディナがそう言うなら、僕も巻いて置こうかな」
特に実害もあるまい、そう判断したセディルは、妹の顔に包帯を巻き自分にも同じように巻き付けて顔を隠した。
「お揃いだね、お兄ちゃん」
「そうだね」
二人は頷き合い、これからもこの習慣を続けて行く事にした。少なくとも母親と再会し、心に一定の区切りを付けるまでは、こうするのだ。
朝の支度が整い、セディル達が一階の食堂に行くと、男が朝食を食べていた。
テーブルの上には、さらに子供二人分の朝食も並んでいる。
「お早うございます、師匠!」
「お早うございます、おじさん」
子供達の朝の挨拶に男は無言で答え、目線でさっさと食べろと促した。
男の用意した黒パンと焼いたベーコン、チーズと赤い木の実の朝食を食べながら、セディルは昨日彼に聞いたこの辺りの地理について考える。
今彼らが居るのはレイドリオン大陸の西方、ジーネボリス帝国であった。
その帝国の貴族であり、この近辺を治めているのはオーネイル・クレイム伯爵。ここは伯爵の領地にある、森の中の別荘らしい。
二人が生まれ育った村は、ここから森を挟んで百キロ近くは東側にあるそうだ。そこは伯爵とは別の貴族の領地内なので、ここまで追手が来る事もない筈だった。
そもそもセディルとセディナの事は、村の中でも忌むべき者として隠され、公には存在しない者とされている。
当然、村を治める貴族から返還を求められる事も無いだろうし、追手の狩人達が生きて戻らなければ、あの村人達は二人の事も死んだと看做すだろう。
それだけの距離がある森の中を、妹を背負って踏破して来たと話すと、男は少し呆れたような顔をしていた。
ジーネボリス帝国は、国土の七割を深い森林に覆われている国だ。森の中に危険が多い事は、世間一般に広く認識されている。
普通は狼でもなければ、出来無い事だろう。
「悪運は、冒険者にとっては宝だが、お前の場合は『凶運』になりかねんぞ」
食後に熱い紅茶を飲みながら、男が言う。
「それって、師匠に出会った事がですか?」
危険な森の中を生き延びて、出会った相手が最後の忍者の男だった事は、確かに幸運とは別種の『運命の予兆』のようにも感じられる。
「俺は禍を呼ぶ男だ。元々目立つつもりはなかったが、今ではもう、人知れず朽ちて行くだけが望みだった……」
お前に出会ってしまうまでは、そう考えていたのだと、男の目が語っている。
どうやら男は、自分の存在が禍を呼ばない様に、ただの別荘の管理人としてここに引き籠っているらしい。
そうでなければ、絶滅した筈の忍者の最後の一人という存在は、注目の的だった筈だ。
もしも忍者の実在が世界に知られたなら、セディルと同様に、弟子入り志願者が殺到していたかも知れない。
「師匠は、有名な冒険者じゃないんですか?」
実際にはそんな事態になっていない様子なので、実力の割に男の知名度は低いのかも知れないと思い、セディルはそう訊ねてみた。
「俺を知っている奴の大半は、俺の事を『下忍』だと思っている。事実、俺は元々下忍だった。若い頃に、忍者に転職したがな」
男が自分の過去を少しだけ語った。相手が異常とはいえ幼児なので、かえって気軽に話せるのかも知れない。
一度就いた職から、別の職に就き直す事を『転職』と呼ぶ。
転職にはメリットとデメリットがあり、多くは一生に一度の大決断となる為に、転職を求める者はそれ程多い訳ではない。
最大のメリットは、誰でも頑張れば成れる『基本職』から、真の才能と努力を示した者しか成れない『上位職』に転職出来る事だろう。
上位職の多くは、基本職よりも強力なスキルを得られる。
職によっては、武力と同時に魔法の力すらも振るえるようになるのだ。
己の人生に於いて、もう一段高みを目指して人々は転職に挑戦するのである。
「忍者に転職した後も、一々詮索されたり忍者への転職の指導を求められるのが嫌だったからな、俺はずっと下忍だという事で通して来た。忍者は既に失われた存在。そう思われていたから出来た事だ」
男は、下忍から忍者に転職したという。
という事は、彼に忍者の指導を行った別の忍者がいたという事になる。それを知られれば、当然自分も忍者に成りたいと望む者が集まって来る。
男は、そうして目立つ事を嫌って、忍者の劣化職に過ぎない下忍という立場に居続けたのだろう。
「下忍としてなら、冒険者の間では知られた男だったかも知れん。尤も、冒険者を辞めてからもう八年経っているからな、そろそろ忘れられている頃だろう」
冒険者の世界は、入れ替わりが激しい。
夢や希望、それに野心と言った情熱を抱いて、冒険者志望の若者が飛び込んで来る事が多い世界だが、同時に脱落者も多いのだ。
魔物との戦いに敗れ、遺跡の罠に押し潰され、或いは自然の猛威に打ちのめされて冒険者は簡単に死ぬ。
この世界には、『僧侶系魔法』の中に死者の蘇生を可能にする魔法が存在している。
しかしそれは上位の魔法であり、寺院で高レベルの僧侶に掛けて貰うにも金が掛かる。その上、蘇生魔法の成功確率は決して高いものではなく、生き返れない者の方が多い。
少数の成功した冒険者なら財を築いて引退し、悠々自適の生活をするか、国家や寺院、魔法学院、盗賊ギルド等に迎えられ、幹部級の地位に就く等している。
しかし男は、名を成した冒険者だったにも関わらず、何らかの理由で姿を消したらしい。
「じゃあ、師匠が忍者だって事を知っている人はいるんですか?」
「俺が忍者だと知っているのは、昔の仲間以外では数えるくらいしかいないだろう」
少し遠くを見るような眼差しで、男はそう言った。彼の見た目の年齢は三十歳の手前くらいなのだが、その言葉からは、それなりに昔の事のようにセディルは感じた。
「師匠の昔の仲間か~」
どんな人達なんだろうと、セディルは想像した。
忍者の男と共に、数々の冒険を繰り広げたであろう強力な冒険者なのは間違いない。
セディルの想像の中の彼らは、いずれも屈強な戦士であり、清廉な僧侶や知性溢れる魔術師達であった。
「……言って置くが、皆変わり者で、はみ出し者だったぞ。今は、それぞれの道を歩んでいる筈だ。冒険者をしている者も、もういない」
若き頃の男と共に大陸を駆け抜けた彼らも、齢を重ね、ついにはパーティを解散して冒険者を終える日を迎えたのだった。
「じゃあ、師匠はその後どうしたの?」
セディルが素朴な疑問を口にした。
パーティが解散し、仲間達が冒険者を辞めた後、男はどんな道を進んだのか。そして何故、相当の高レベルと推察出来る彼が、今はただの別荘の管理人をしているのか。
「……俺ともう一人の仲間は、その後も冒険者を続けた。八年前までな……」
そこまで口にして、男は一度黙り込む。
これ以上の昔話はしたくないのだと、セディルは彼の表情から読み取った。
八年前、男の身に何かが起こったのだろう。
それを切っ掛けとして、男は冒険者を辞め、こんな寂しい森の中で別荘の管理人として忘れられ、朽ち果てて行く最後を選んだのだ。
「セディルと言ったな。お前は、俺が怖くはないのか? 俺が呼ぶ『禍』に自分達が巻き込まれるとは、考えないのか?」
男の鋭い眼差しが、セディルの漆黒の瞳を捉える。
最後の忍者などという怪しげな人物の事を、いきなり信用する子供がいたら、まずは親の躾方を疑うべきだろう。
知らない人に付いて行ってはいけない事は、子供なら誰でも教えられる筈だった。
「問題ありませんよ。だって、僕こそが師匠の元に呼ばれてやって来た、『大いなる禍』そのものなんですから!」
師匠となった男の問い掛けに、セディルは朗らかに、そして自信に満ちた瞳でそう言い返す。
彼が禍を呼ぶ男だったからこそ、自分達は出会ったのだと、セディルは疑っていないのだ。
「……冗談には聞こえんな」
軽く溜め息を吐きつつ、男は呆れた視線を弟子に送る。
自分が拾った子供が、色々な意味で難物だと改めて理解したようであった。