第四話 師匠との出会い
妹を背負って村を飛び出し、森の中に逃げ込んでから、もう何日彷徨い歩いただろうか。
途中で狩人達に追跡され、大蜘蛛を嗾ける事で何とか相手を片付けたセディルだったが、深い森の中を行く当てもなく移動するのは、やはり困難の連続であった。
水だけは第二レベルの一般魔法【給水】で確保出来たが、家から持って来た食料は意外と早く底を尽いた。
それでも森の中で木の実や果物を探し、小動物を捕らえて焼いて食べたりして、二人は空腹をしのぎながら移動し続ける。
人の生活圏から外れた森の奥は、不思議で不気味な『異界』となっていた。
そこは普通の獣達や幻想の魔物、魔素の作用で変異した様々な怪異、人に敵対する亜人種達の棲み処でもある。
時折、そんな脅威にも遭遇したが、隠れたり逃げたりしてセディル達は危険を回避して来た。
ここまでは、運も二人に味方してくれた。
天候も荒れず、雨が降らなかったのも幸いだった。
しかし当然の事ながら、そんな幸運も無限に続く筈は無い。
今兄妹二人は、森の中で追い詰められていた。
「お兄ちゃん……」
セディナの泣きそうな声を耳元で聞きながら、セディルも目の前にまで迫って来た存在に、焦りと恐怖を隠せなかった。
大木を背にして妹を庇うセディルの前には、一匹の獣がいた。
熊である。
それも後ろ足で立ち上がれば、頭まで優にニメートル半はある巨獣だ。
魔物ではなく普通の動物に過ぎない熊なのだが、幼児達にとってはどちらであっても対抗不能な脅威である事には変わらない。
そんな大熊が金褐色の体毛を逆立たせ、二人を威嚇するように牙を剥いているのだ。
「グルルルルッ」
獣臭い息が嗅ぎ取れる程、両者の距離は近い。
(どうする、いくらなんでもこんなやつには勝てっこない!)
いくらセディルの身体能力が高いといっても、彼はまだ五歳児に過ぎない。使える魔法も殺傷能力のない、一般魔法だけ。
それでもセディルは、第一レベルの【照明】の魔法で作り出した光球と片手に握った小型ナイフで熊を牽制してみたが、熊は多少警戒する程度で怯えて逃げたりはしなかった。
完全に二人を捕食対象として認識し、容赦なく喰らうつもりでいるのだろう。
光球での牽制も、もう限界に来ている。
ふわふわ浮く光球を前足で邪魔物のように払い、大熊が立ち上がった。木々の枝の隙間から覗く太陽を背にしている為に、濃い影が二人に向かって伸びる。
「ガアアアアッ!」
大熊が、子供達の背筋を凍らせるような咆哮を上げる。セディナは目を瞑り、小さな手でギュッと兄の服にしがみ付いた。
妹に片手を翳して守りつつ、セディルは大熊を睨む。人の子供の眼光など、熊が恐れるとは彼も思ってはいないが、それでもセディルは目の前の野獣を睨みつける。
「こんな所で、死んでたまるか!」
手に持った小型ナイフを突き出し、セディルが吼えた。
それでも急所があると思える熊の頭部は、彼の身長の三倍くらい上にある。
届きそうな熊の身体は分厚い毛皮と脂肪、それに強靭な筋肉に守られていて、ナイフの小さな刃など通る筈もない。
今のセディルでは、万に一つの逆転勝ちも起こり得ない相手なのだ。
(力が欲しい! 今すぐに! この場を生き抜く力が!)
あの『何か』は、彼に力をくれると言った。
同時に、それ以上の手助けもしないとも言っていた。
今のところセディルが把握している自分の力は、幼児にしては異常な身体能力と世界の基礎知識、それに一般魔法を操れるという程度のものだった。
いずれも、今のこの絶体絶命の危機を脱する力としては、全く足りていない。
しかし、それは『何か』が仕組んだシナリオだったのか。それとも、世界を動かす運命の歯車が噛み合ったのか。
セディル達兄妹は、この場を生き延びる事になった。
「ガハッ!」
鋭く伸びた爪を生やす太い腕が、子供達の小さな身体を引き裂こうとした時、大熊は突然短い断末魔の叫びを上げた。
そしてそのまま身体を一瞬痙攣させると、ゆっくりとその巨躯を横に倒して行った。
セディル達にも訳が判らない。
だが、あれほどの生命力と闘争心に溢れていた大熊が、今は屍に変わって森の大地に倒れ伏しているのは間違いない事象である。
大熊が倒れたその場から、今度は熊とは違う影がセディルとセディナの方へと伸びていた。
セディルは、視線をその影の元へと向ける。
おそらくは、死んだ大熊よりも遥かに危険な新たな脅威となる相手に。
そこにいたのは、熊には届かないもののそれでも身長二メートルはあるであろう、長身の男だった。どうやら種族は『人間』であるらしいが、只者でない事は見れば判る。
(鋼鉄で出来た虎みたいな人だ……)
その大男を見て、セディルが最初に抱いた印象はそんな感じであった。
上衣をラフに着こなし、丈夫なズボンに頑丈そうなブーツを履き、腰のベルトに小型の鞄を付けている。
武器は一つも所持してはいなかったが、男の肉体は服の上からでもハッキリと判る程に、徹底的に鍛え抜かれていた。
二メートルもある全身に鋼のワイヤーを捩り合わせたような厚い筋肉が盛り上がり、それでいて鈍重さは一欠けらも感じさせない。
寧ろ、処刑人が渾身の力で振るう巨大な鋼の大斧のように、鋭く重く分厚い凶器を思わせる肉体だった。
顔を見れば、まだ若い。
黒髪と無精髭を伸ばしているが、男っぽい魅力で整った彫りの深い顔は、二十代の後半から三十歳くらいの間に見えるだろう。
だが、その眼は違った。
男の黒い眼は、砥がれた短剣の刃のように鋭く冷たい光を湛えていたのだ。何の感情も見せない機械のように、熊に襲われていた幼い兄妹を見つめている。
それはどう見ても、そこいらの村人の眼ではない。
幾多の修羅場を掻い潜り、数多の敵を屠って来た、齢を経た老練な戦闘者の眼に間違いなかった。
無造作に立っているだけだが、その威圧感は、さっきまで生きていた大熊が小兎だったと思える程に桁がいくつも違っている。
大熊と相対しても生きる希望を失わなかったセディルでも、この男と敵対する事になれば、即座に死を覚悟しなければならないだろう。
そして男の右手は手首まで赤く染まり、指先からポタポタと血が滴っていた。
視線を移動させると、大熊の後頭部にはぽっかりと穴が開いている。まるで、太い杭で貫かれて出来たような穴だった。
(この熊を殺したのは、この人だ。それも素手で……)
男は野生の大熊に一切の気配も悟らせずに背後から近づき、無造作に熊の後頭部を素手で貫いた。厚い頭蓋骨を砕き、熊の延髄と脳を破壊して、一瞬でその息の根を止めたのだろう。
そんな事は、普通の『戦士』は勿論の事、戦士系から派生した今現在知られている前衛職の誰もが出来ない事である。
間違いなく、それは戦士系の中の伝説の『職業』の技だった。
これこそが用意されたボーナスであり、千載一遇のチャンス。
そう思ったセディルは、セディナを片手で抱えながら男の方に一歩足を進めた。
「助けて頂いて、ありがとうございます!」
元気良く、それに礼儀正しくセディルは男にお礼を言った。セディナも兄を真似て、小さな声でありがとう、と口にする。
「……………」
しかし男は森の中を彷徨っていた幼い兄妹に、無言のまま訝しそうな視線を向ける。
それも無理のない話で、今の二人は逃亡生活の為に全身汚れて土塗れ。それに顔には、包帯も巻いたままになっている。
どう見ても、ただの浮浪児にしか見えない。そんな子供が森の中にいれば、不審に思われるのも当然だろう。
「僕はセディル、この子はセディナといいます」
男からの反応はないが、それでもセディルは話を続ける。
「僕達、村から逃げて来ました。村の大人の人達に、殺されそうになったからです。道に迷って、食べ物も無くて、困っているんです」
手早く自分達の状況を説明し、同情を引けるように出来るだけ可哀想で無力な子供に見えるよう頑張ってみる。
これで男が悪人だったら終わりなのだが、そこは賭けに出るしかなかった。善人ではなくとも、困っている子供の話くらいは聞いてくれる人である事に。
「助けた訳ではない。狩りに来て、獲物を倒しただけだ」
そこで、男が初めて口を開いた。
静寂の中に良く通る低い声で、ぶっきらぼうにそんな事を言う。
「あの、冒険者の人ですよねっ?」
やっと話が通じたので、期待を込めてそう訊ねる。男が冒険者なら、職に就く為の手解きを頼めるかも知れないからだ。
「……ただの別荘の管理人だ」
だがその期待をぶった切るかのように、男はセディルの質問をあっさりと否定した。
「え、そんなに強いのに?」
確信していた答えは返って来なかったが、セディルも男の言葉を鵜呑みにした訳ではない。男がほんの僅かに、眉を顰めた事に気が付いたからだ。
言っている事は嘘ではないようだが、冒険者である事も否定はしていない。そんな雰囲気を感じ取ったのである。
「あの、僕をあなたの弟子にして貰えませんか?」
だからセディルは、ストレートに男に望みを伝えてみた。こうなったら、何とかして男の興味を引くしかない。
「断る」
男は無表情のまま、短く言葉を発した。一切の迷い無く、自分の中にあった当然の結論を口にしたかのようだった。
「僕、役に立ちますっ!」
負けじとセディルは、男に自分の価値を証明しようとする。
ここで引き下がる訳には行かないのだ。
「見ていて下さい」
そう言ってセディルは、大熊の死骸に第八レベルの一般魔法【解体】を使った。
翳した手に魔素が集中し、それが大熊の巨体に作用する。そこから先の現象は、まさに魔法と呼ぶべきものだった。
巨獣の身体から見る間に毛皮がずるりと剥がれ落ち、綺麗に広がった。肉から大量の血が抜かれ、内臓が引きずり出され、腱から骨が外される。
大して時間も経たない内に大熊の死骸は解体され、血溜まりが広がった横の地面に毛皮や肉、骨や内臓が並べられた。
「どうですかっ!」
セディルは笑顔を作り、得意げに男に魔法の成果をアピールした。
「……【解体】の一般魔法なら、俺も使える」
男の反応はドライだった。
ぶっきらぼうな口調は変わらず、表情にも大きな変化は見せない。
「だが……、お前達いくつだ?」
しかし大きな変化は見せなかったものの、幼児が魔法を使う光景を目にしては、男もさっきまでの無関心な態度を少しは変えざるを得ないようだった。
「五歳です」
「五歳、だと……」
セディル達の年齢を聞き、男の様子に初めて変化が訪れる。
それは、男の中の冒険心の燻り。
何事にも無関心だった筈でも、未知の存在に出会えばどうしてもそれに興味を抱いてしまう、冒険者の業だった。
男の知識でも、たかが『一般魔法』とはいえ、五歳の子供が魔法を使える事は異常事態なのだ。
それに【解体】の魔法は、一般魔法の中でも第八レベルという高位の魔法であり、例え一人前の僧侶や魔術師でも中には使えない者がいるレベルの魔法なのだ。
そんな魔法を五歳の子供が完璧に発動させ、使いこなした。尋常ではない何かを、目の前にいる子供は持っているのだ。
「あの、せめてどこか休める所まで、僕達を連れて行って貰えませんか? 妹ももう疲れていて、限界なんです」
森の中でも危険な逃避行は、セディルに背負われていただけでもセディナの体力を削っていた。流石にこれ以上野宿が続けば、彼女は体調を崩してしまうだろう。
セディルは男が自分達に興味を持ってくれた事を読み取り、妹を気遣う良く出来た兄という設定で懇願する。
「……この先に、俺の暮らす館がある。ついて来たければ、好きにしろ」
男は無表情でそう言うと、腕を一振りしただけで手に付着していた熊の血を綺麗に消し去り、狩り殺した熊の後始末を始めた。
まずはセディルが解体した肉と毛皮をに、第八レベルの一般魔法【防腐】を掛ける。この魔法は、生ものの腐敗を防ぐ効果を持っている。
その効果は永続的なものではないが、効果が続いている間は生肉だろうが生魚だろうが自然に腐敗する事は無い。これも一般魔法の中では、高位の魔法だった。
脂がたっぷり乗った大量の肉を毛皮で包み、男はそれを腰に付けた小型の鞄に入れる。
どう見ても入る筈のない容量の物体が、小さな腰鞄の中に何の問題もなくするりと入って行く。
「凄いっ、それって魔法の道具ですか?」
大熊の肉と毛皮を全部入れても重さも大きさも変わらない鞄を見て、セディルは目を輝かせた。それは、この世界に来て初めて目にした『魔法の道具』であった。
「……『収納鞄』と呼ばれる物だ。それなりの冒険者なら、誰でも一つ持っている魔道具だ」
答えは期待していなかったが、男はその鞄の事を教えてくれた。
内部は別空間になっているようで、見た目の大きさも重さも無視して大量の品物を収納出来る、便利な鞄なのだ、と男は話す。
「無限に入るんですか?」
「有限に決まっている。現代でも作られている普及品なら、この大熊の死骸一頭分が入るギリギリの容量だな」
そう言われて、セディルは男の収納鞄を改めて観察する。
普及品がどういう物かは判らないが、男の鞄は細工や刻まれている魔法文字が古いもののように思える。
おそらくは、古代の技術で作られた貴重品なのではないだろうか。
現代製の物より、収納出来る容量がずっと大きいのではないかと、セディルは予想した。
戦利品をしまうと、男はセディル達の事を見向きもせずに歩き出す。向かう先は、彼が語った館のある方角なのだろう。
「待って下さい!」
セディルは慌ててセディナを背負い直すと、男の後を追って歩き出した。