第三話 逃亡者
生まれ育った村から逃げ出した兄妹の逃亡とサバイバルは、二日間に渡って続いていた。
そしてセディルは今、追い詰められていた。
既に人が足を踏み入れるのを躊躇する程、森の奥まで来ているというのに、狩人達の追跡が続いているからだ。
狩人達は、執拗なまでの執念で兄妹を追っていた。
今年の村に降り掛かった災厄の全ては、『悪魔の子』であるセディル達のせいにされている。
或いは追手の狩人の誰かの身内に、その不幸があったのかも知れない。
(そのせいで僕達がこんな目にあっているとしたら、理不尽だ……)
土塗れになり空腹に耐えながらも、セディルはセディナを背負って必死で森の中を進む。
その足取りはまだ大人に負けない速さを保っているが、流石にここ数日の疲労によって鈍って来てもいた。
狩人とその忠実な猟犬が自分達の近くまで迫っている気配を、セディルは背中の妹越しにヒシヒシと感じている。
一般魔法で身体から出る匂いと音を消しているので、すぐに見つかる事は無いが、足跡を辿られている以上、もう追い付かれるのは時間の問題だった。
(何とか手を打たないと、このままじゃ死ぬ……!)
セディルは歯を食い縛り、何か策は立てられないかと、必死で周囲に目を配る。
しかし彼の黒い瞳に映るのは、苔生した高い樹木や棘を持つ茂み、梢の小鳥や草の中の小動物ばかりだった。
この状況を打開する手立てになりそうなものが、何も無い。
(くそっ~! 何か、何かある筈だっ、探せっ、考えろっ、諦めるなっ!)
薄暗い森の中を、妹を背負って走るセディルは、それでも屈してはいなかった。
前世で自分がどんな人間だったかも忘れてしまった彼だが、二度目の人生を五歳の子供で終えるような運命を受け入れる程、お人好しではない。
その時だった。
セディルは自分が足を踏み入れた場所が、今までの森とは様子が違う事に気付いた。
先程までは目にした小動物の気配が無く、森の地面には何か引っ掻いたような跡がある。それに、疎らにだが動物達の白骨も散らばっている。
(ここ、不味そうな場所だ……)
この場の様子を観察し、セディルはその危険性を察知してごくりと息を飲む。どう見ても、ここは捕食者の棲み処であると。
この先に無力な子供達が進めば、間違いなく何かに餌として食われてしまうだろう。
(でも、狩人達を何とかするには、ここに賭けるしかない!)
セディルは決断した。
「セディナ、少しの間だけここに隠れているんだ」
背負っていた妹を、危険地帯の傍にあった木々の隙間に押し込む。この場所ならすぐに見つかる事もなく、樹木が邪魔をして大人では入り込めない。
「うん、わかった、お兄ちゃん……」
不安そうな眼差しで兄を見つめるセディナだったが、彼の言う通りその場でじっとし出した。
「すぐに戻って来るから、絶対に声を出しちゃ駄目だよ」
そう妹に声を掛け、セディナがコクリと頷くのを確認すると、セディルは白骨が続く道の先を確認する為に移動する。
その場所は問題無く見つかった。
地面に、大きな穴が開いていたのだ。それも、明らかに自然に出来たものではなく、穴の周囲には丸まった土の塊が積まれている。
「やっぱり、ここはファンタジー世界なんだ……」
その穴の様子を見て、セディルはここにいるのが尋常な生き物ではない事を確信する。
そして自分がこれからやろうとしている事を心の奥で確認し、その結果を覚悟する為に唇を引き結び、眉間に力を込めた。
両手の平を胸の前で近付け、魔力を集中させる。
今セディルが使える魔法は、戦闘には向かない一般魔法のみ。どれも生活する上では便利な魔法だが、相手を傷付ける力は一切無い。
合わせたセディルの手の平の中に、煌々と輝く光が生まれる。
この状況で彼が選んだのは、明かりを齎す第一レベルの一般魔法【照明】であった。この魔法の効果によって、明るく輝く光球が出現し、ふわりと宙に浮き上がる。
「良しっ」
この光球は、ある程度術者の意志で動かす事が出来る。通常は頭上で輝かせて暗い場所での明かりに使うのだが、今のセディルの狙いはそうではなかった。
作り出した光球を操作し、土に開いた穴の奥に送り込む。
穴の中に何がいるにせよ、暗闇の中を急に照らせば驚いて出て来る筈。
狩人達と猟犬を自力で何とか出来ない以上、生き延びる為には、何とか出来る相手に押し付けるしかないのだ。
そして、穴の奥から反応は返って来た。
何かが光球を撥ね退けつつ、穴から這い出ようと蠢いている。
セディルは、即座に穴から距離を取った。いつでも駆け出せるよう、間合いを測り、逃走経路を確認する。
カサカサと、地面を擦る嫌な音と共に、『それ』は現れた。
穴の中から現れたのは、体長が一メートル以上はあるであろう、巨大な黒蜘蛛だった。
世界のありとあらゆる場所には、超常の力の源である『魔素』が漂っている。
その魔素の影響を強く濃く受けると、動物や植物、果ては鉱物や道具の類いに至るまでが、変異したり巨大化したりして魔物となる事は、この世界では珍しくない現象なのだ。
この蜘蛛も元はただの小さな蟲だったのだろうが、魔素の影響を受けた事で、人を食らいかねない大きさの魔物へと変じたのだ。
穴の周囲の白骨は、この蜘蛛に体液を吸い取られた動物達の物だったのだ。
光球の明かりで穴から引き摺り出された大蜘蛛は、複数の眼と毛むくじゃらの八本脚を蠢かし、早速目当ての得物、セディルの存在に気が付いた。
セディルは自分に、蟲を退ける一般魔法の【蟲避】を使っている。
この魔法を使えば、普通の小さな昆虫の類いなら決して彼の身に寄って来ないのだが、相手が魔物化した大型の蟲ではそれももう通用しない。
大蜘蛛にとって、目の前の子供はただの餌に過ぎないのだ。
穴から大蜘蛛が姿を現し、自分の姿を眼に映した事を確認した瞬間、セディルは即座に脅威に背を向け走り出した。
八本の脚を動かし、昆虫特有の素早い動きで追って来る大蜘蛛の気配を背中に感じつつ、セディルは高い身体能力をフルに活用して、必死で森の中を移動する。
(蜘蛛に捕まっても、タイミングがずれても、お終いだ!)
涼しい森の中でも背中に汗を滲ませ、セディルは目算を付けていた方角を目指す。
その目的地は、すぐに見つかった。
こちらに向かって吼える、犬の鳴き声を聞いたからだ。
セディルは藪の中から飛び出し、そこへ転がり込む。
「お前は……、見つけたぞ『悪魔の子』っ!」
声を上げたのは、ここまで追って来た村の三人の狩人達だった。それぞれが、一匹ずつ猟犬を連れている。
彼らは粗末な革鎧を身に着け、それぞれが弓矢や手斧、短剣等で武装していた。
田舎の村の狩人達とはいえ、身体を鍛えて武器の扱いを方を学べば、誰でも簡単に成れると言われる『戦士』の職には自衛の為に就いている。
その『レベル』は高いとは言えないが、長年の狩りで経験を積んで森の中の事も熟知しており、少々の危険は排除出来る程度の力は、十分に持っていた。
「もう逃がさんぞ、諸悪の根源めっ!」
中年の狩人が手斧を構え、憎しみのこもった目でセディルを睨みつける。
「俺の母親が死んだのは、お前の呪いだろう!」
ただの寿命だよ、とセディルは心中で叫ぶ。
「我が家の羊が五匹も死んだんだぞ、お前のせいだっ!」
家畜なんて普通に病気でいくらでも死ぬじゃないか、とセディルは思う。
「オラの髪の毛が年々薄くなってるのも、おめえの仕業ずらっ!」
それは完全に自分とは無関係。
セディルは溜め息を吐きたくなる。
三人の狩人達は、それぞれ勝手な恨みの理由を彼に叩き付けて来た。悪魔の子への怖れと被害妄想が混じり合い、本人達にも訳の判らない事になっているらしい。
そんな無学な狩人達と交わす言葉を持たないセディルは、無言のままタイミングを推し量る。
いくらも時を経らずに、その瞬間は訪れた。
何かの異変を察知し、ぴんと耳を立てた猟犬が吼え出した。犬達の只ならぬ様子に、狩人達も一瞬セディルへの注意を忘れて周りを警戒し始める。
それこそが、セディルの待っていた好機だった。
狩人と吼える猟犬の前に、木々の隙間から不気味な大蜘蛛が這い出して来たのだ。
それも、一匹ではない。
大蜘蛛は三匹も現れた。
「うわああああっ!!!」
狩人の一人が現れた大蜘蛛の姿に絶叫し、手にした弓を構えて矢を放とうとした。だが焦っていて、上手く矢をつがえる事が出来ない。
身構える狩人達と猟犬に、三匹の大蜘蛛は毒液を滴らせた牙をガチガチと鳴らして襲い掛かった。
「くっそおおおっ!!」
「何で、こんな所に大蜘蛛が出るだ~っ!!」
狩人達は必死で武器を振り回し、大蜘蛛の攻撃から身を守ろうとした。猟犬達も主人の危機に、敵を威嚇しようと狂ったように吼えまくる。
しかし大蜘蛛は感情の無い蟲の眼を光らせ、その猟犬の一匹を捕らえると、無造作に牙を突き立てた。
「キャンッ!」
犬の哀しげな鳴き声が森に響く。
ただの猟犬では、魔素の影響で巨大化した蜘蛛にとってはただの餌に過ぎないのだ。
「ああ、カルロ~!」
蜘蛛に食いつかれた犬の名前を、狩人の一人が悲痛な声で呼ぶ。そして犬を助けようと、彼は手斧を振るった。
ガッ!
だが狩人のレベルが低かったのか、能力値が足りていないのか、手斧の一撃は蜘蛛の硬い外骨格に阻まれて大した傷は付けられなかった。
セディルはその全てを見届けると、戦い合う者達の隙を突いて、逃げて来た方向へ走り出す。
「ま、待て、悪魔の子っ!!」
セディルが逃げるのに気付いた狩人が、短剣で蜘蛛の脚を斬り付けながら怒鳴る。彼が狩人達のリーダーらしく、大蜘蛛相手でも一番善戦していた。
「まさか、これはお前の仕業なのかっ!?」
セディルが現れた直ぐ後に大蜘蛛が来た事で、狩人のリーダーは、彼が蜘蛛達を誘導して来た事に気付いたようだった。
その予想の通りだが、セディルはもう彼らの運命になど関心が無い。
背後から聞こえる狩人達の絶望と断末魔の絶叫を完全に無視し、セディナを隠した場所まで脇目も振らずに走った。
「お兄ちゃん……」
セディルがその場所に戻って来ると、セディナは無事に兄の帰りを待っていた。どこにも行かず、泣きもせずにじっと彼の言い付けを守っていたようだ。
「うん、セディナは良い子だった」
ニッコリ笑って妹の頭を撫でてやり、セディルは木々の隙間からセディナを出してやる。
そして再び背中に妹を背負うと、蜘蛛達が棲み処に戻って来ない内に、速やかにこの場を離れる事にした。
「お兄ちゃん、セディナ達、これからどこ行くの?」
兄の背中にしがみ付きながら、セディナが素直な疑問を口にする。
「ここじゃない、何処かだよ。取り敢えず、子供を殺そうとはしないような人に会えると、良いんだけどね」
ここからの行き先は、セディルにも判らなかった。
ただ、ここからの道行きは自由と危険、生と死が隣り合わせになっているのだという事を、彼は深く自覚していた。
(命を掛けた冒険のスタートか。まず第一目標は、生き延びる事……。そして……)
妹を背負って暗い森の中を走るセディルは、これから始まる自分の冒険譚に想いを馳せる。
何の因果かおかしな『何か』に目を付けられて異世界に転生し、セディルという新しい人生を得た彼だったが、決して自分の運命に悲観はしていなかった。
(強くなる。強くなってやる。この世界で僕が何者に成れるのかは、全てそこに掛かっている気がするから……)
その為にも、まずは『何か』が用意した最初の難事を突破し、自分の力の秘密を知り、そしてさらなる飛躍の為に何らかの『職業』に就かなければならない。
立ち回り次第では運命にボーナスが付くと、あの『何か』は言っていた。
ならば、この最初の試験をクリアすれば、何らかの道が見えて来る可能性はある、とセディルは考えた。
(それにはまず、信頼出来る人に出会わないと……)
無人の森の中では、その希望は叶わない。今はどうにかして森を抜け出し、人家のある場所まで辿り着く必要がある。
心は挫けずとも、彼の道行きは決して平坦なものではない。
セディルの最初の冒険は、こうして始まったのであった。