第一話 生まれ変わった場所
男は目を開いた。
どこかに寝かせられているらしく、見えたのは薄暗い部屋の中と木の柱を組み合わせた天井だけだった。
その光景も、なぜかぼんやりとした様子に見える。
手足を動かして起き上がろうとしても、身体が思うように動かせず、言葉も出せない。
意識もまだハッキリとしないが、男は自分が赤ん坊の姿になっているのを感じ取る。
(生まれ変わった……?)
あの『何か』が言っていた通り、男は生まれ変わり、赤ん坊として新たな母に産み落とされたのだった。
しかし赤ん坊は、赤ん坊。
辛うじて身体が動かせ、口から泣き声を出せるだけ。
自分では何一つ出来ない有様だ。
あの『何か』が約束した『特別な力』とやらも、今は確認する事が出来ない。
そしてふと気付くと、男の横にはさらにもう一人の赤ん坊が寝かされている。彼同様、いくらか手足を動かす事しか出来ない様子から、男と同じくらいの新生児だろうと、推測出来る。
(兄弟がいるのか?)
一緒に寝かされている同じ年恰好の赤ん坊という事は、双子か何かだろうか。
いずれにしても、彼にも兄弟にも、今ここで出来る事は何もない。
仕方なく、男は世話してくれる誰かが来るのを待っていた。
暫くして、ガチャッと扉が開く音が聞こえた。
誰かが、彼のいる部屋に入って来たのだ。
その誰かが、赤子となった男ともう一人の赤ん坊の身体を優しく抱き上げ、一緒に胸元に抱き締めてくれた。
香るミルクの匂いと柔らかい感触から、相手は女性に間違いない。
(この人が、俺の新しい母親……?)
おそらく、そうなのだろう。
彼らを抱く手からは、愛情が伝わって来る。
しかし何故か、その手は震えていた。まるで我が子を愛すると同時に、何かを怖れてでもいるかのようだ。
それでも、男が生き延びる為には、彼女を頼る他に道はない。
意識して身体を動かす事は出来ないので、男は本能に身を任せて彼女に甘える。
女は一瞬ビクッとしたものの、恐る恐る赤子を抱き直すと、自分の服を剥いで二人の赤子に授乳を始めてくれた。
(取り敢えず、生き延びられるか、な……)
ぼんやりとした赤子の意識の中、男はそう思った。
赤ん坊として再び生を受けた彼が、自立してこの世界を闊歩するには、まだまだ時間が必要なのである。
男は三歳になった。
この年齢になると、男の意識や記憶は、完全に自分の物になっていた。
それでも、元々の名前や過去の記憶は戻って来ない。
元の世界で日本人として学び、生きて来た上で身に付けた様々な知識は残っているが、自分がかつて何者であったのかは、最早知る術が無いのだ。
男の新たな名は、セディル・レイド。
部屋の壁に掛かっていた鏡を床に下ろし、それで自分の顔を観察するセディル。
艶やかな黒髪に、深淵の闇にすら見える黒い瞳。
上質の絹のように滑らかで血の気が失せたように真っ白い肌を持つ、精巧な人形のように整った顔立ちをした、怖ろしく愛らしい男の子がそこに映っていた。
前世の自分の顔を覚えていないので何とも言えないが、彼は何となくあの『何か』に馬鹿にされているような気になる。
そして、あの不思議な空間で出会った『何か』が彼に与えると約束した、『特別な力』とやらの一端もこの頃には判明していた。
一度死んで、セディルという名の赤ん坊に生まれ変わった男の頭の中には、元々の記憶の他にも予め様々な情報が焼き付けられていたのだ。
誰に習った訳でもないのに、セディルはこの世界にある二十種類以上もの言語を完全に理解し、流暢に話す事が出来た。
当然のように、それらを表す様々な種類の文字もスラスラと読み解き、ペンでその文字を書き表す事も可能だった。
この新しい『世界』に関する地理や歴史、文化等々の基礎的な知識ならば、容易に頭の奥から引き出せる事が既に判っている。
ここは異世界。
彼が元々暮らしていた地球とは、完全に異なる場所。
「何しろ、本物の『神様』がいて、人間以外にも色々な知的生命体の『種族』がいて、危険な『怪物』が溢れていて、不思議な『魔法』なんてものが存在する、文字通り剣と魔法のファンタジー世界なんだから……」
舌足らずな幼い声で、セディルはそう呟いた。
頭の中にある知識の存在に気付いて以来、何度もそれらを検証して来たセディルは、既にこの世界の不思議さと危険さを認識していた。
特に不可思議な事は、科学文明がそれ程発達していない代わりに、世界には『魔法』という神秘の力が存在している事だった。
今から一千年程前まで、強大な魔法文明が世界を席巻し、偉大な魔術師達による統治が行なわれていたらしい。
極限の魔力と叡智を得た多くの魔術師達は、その魔法の力によって、ありとあらゆる物をこの世界に創り出した。
百万の人々が何の不自由もなく暮らす、魔法の都。
粘土細工のように自由に肉体を作り変えられた、不思議な生き物。
様々な魔力を秘めた、神秘の道具の数々。
重なり合う次元へと通じる異界の門を開け、無数の『ドラゴン』や『デーモン』を支配し、寿命の限界すら克服したという。
神々に限りなく近付いた彼らには、不可能は無く、数千年に渡って栄えた魔法文明はやがて絶頂期を迎えた。
そして、それらは何故か突然滅び去った。
その理由は、『何か』がくれた知識の中にも無い。
残ったのは、魔法の知識の残滓と、世界の各地に残された数々の遺跡や廃墟、そこに眠る魔法の道具と財宝、それに番人たる怪物達だけであった。
生き延びた人々は世界をやり直し、新たに多くの国が興り、再び人類は繁栄を始めている。
「うーん、こんな世界で生き残るには……、やっぱり『力』が必要だなあ~」
ファンタジー世界と言うだけあって、人の暮らす領域を一歩外れれば、そこには無数の怪物が蠢いていた。
人里の近くにさえ、小型の亜人種である『オーク』や『コボルド』『ゴブリン』といった鬼族が、普通に出没するらしい。
古い墓場に行けば『ゴースト』になった幽霊が浮遊し、杜撰な弔い方をすれば『ゾンビ』になった死者が墓穴から出て来る事もある。
そして、そんな厄介な怪物を倒して報酬を得たり、古代遺跡を探索して財宝を探したりする『冒険者』と呼ばれる者達も世の中にはいるのだ。
「冒険者……、僕がここから出て行くとしても、やれるとしたらそれしかないかな……」
怪物との戦いを生業にする事は、命を落とす危険を伴う。
その危険を承知の上で、彼には、早急に一人で生きて行く手筈を整える必要があるのだった。
「……ここにいたのね、セディル……」
床に置いた鏡を睨みながらセディルがブツブツ言っていると、部屋の扉がキイッと開き、誰かが中に入って来た。
振り返ると、そこには赤い髪を首筋で縛った、まだ二十歳くらいの若い女性が立っていた。質素なブラウスとスカートを穿き、化粧気も無いがかなりの美人であった。
その後ろには、彼女のスカートの裾を握ってしがみ付く、セディルと同じ三歳くらいの子供の姿もある。
セディルと同じ服を着て、同じく黒髪をしているが、何故かその子供は白い包帯をグルグルと巻き付けて顔を隠していた。
彼と同じ日の同じ時刻に生まれた、彼の双子の妹セディナである。
「お母さん」
セディルが舌足らずな口調でそう呼ぶと、彼のこの世界における母親は、幼い息子の顔を見て少し悲しそうに目尻を下げた。
彼女はギシッと床板を鳴らすとセディルに近付き、しゃがみ込んで息子と視線を合わせる。
「言ったでしょ、セディル。これを外しては、駄目よ。セディナは、良い子で着けているわ」
母親の手が、床に落ちていた長い包帯を拾い上げた。
一年程前から、セディル達の顔はその包帯で隠されていた。母親から人に顔を見せないようにと、言い含められているのだ。
「ごめんなさい、お母さん」
セディルは、素直に母親に謝る。
魂が肉体に定着し、その影響を強く受けて適応した結果だろう。彼の人格は若返り、その精神や口調は子供っぽくなっていた。
「……………」
鏡で顔を見る為に外した包帯を、母親は無言で息子の顔に巻き直す。
その手付きからは、迷いが感じられる。
息子と娘にどう接すれば良いのか、良く判っていないような様子なのだ。
(無理もないかな……)
セディルはちょこちょこと聞きかじった、自分達の出生の状況を思い出す。
彼が生まれたのは、都市から離れた田舎の農村。
特産品の羊毛やワインを扱っているので、割と豊かな村だ。
そんな村の村長の娘が、彼らの母親だった。
しかし、父親は不明。
まだ十代半ばの少女だった彼女が、近くの森に木の実を取りに出掛けて行方不明になり、数日後に発見された時には、セディル達双子を身籠っていたのである。
彼女自身にも、何が起こったのか全く記憶が無かったのだが、妊娠の事実が判明した時にはかなりの騒ぎになった。
体面を気にした祖父の村長は堕胎させようとしたが、それでも彼女は抵抗し、セディルとセディナを産み落とした。
そして生まれた我が子は、黒髪に黒い瞳、真っ白い肌をした自分とは似ていない二人の息子と娘だったのである。
祖父の村長も母となった娘も、相当にショックを受けたらしい。
黒髪黒瞳の人間は、どこにでも普通にいる。
しかし父親が誰だか不明な生まれのそんな子供は、『悪魔』が乙女を孕ませて生まれる『悪魔の子』であると、この地では言い伝えられ怖れられていたからだ。
その言い伝え通りの状況と姿で生まれたセディルとセディナの兄妹は、自動的に『悪魔の子』と認知されてしまったのである。
(まあ、それって多分事実だけどね……)
あの『何か』が、彼をこの世界に転生させる為に用意したのがセディルの肉体なのだから、正しく『悪魔の子』と呼ばれるのが相応しいだろう。
孫を堕胎させようとしていた祖父も、生まれたセディルとセディナを見て、今度は『悪魔の子』を殺した時にどんな災厄が降り掛かるかを怖れて、殺せなくなってしまった。
その結果セディル達兄妹は、村長の大きな家の中に隠され、誰にも見られないようにひっそりと育てられる事になったのだ。
「出来たわ……、良いわね? お母さんが良いと言うまで、この包帯は外しちゃ駄目よ」
「はい、お母さん」
顔中に包帯を巻かれ、黒髪も隠されるまでじっとしていたセディルの素直な返事に、彼女の困惑は一層強いものになる。
息子や娘への愛情はあるものの、『悪魔の子』への怖れも拭い切れないのだ。
(時間は……、あんまり残っていないかな……)
セディルはこの先に、自分達が辿る状況を予想していた。
このままでは、いずれ自分とセディナは捨てられるか殺されると。
母の苦悩と祖父の怖れは、日に日に強さを増している。
それに村人達も、既に噂し合っているのだ。
村長の娘が『悪魔の子』を産んだらしいという噂は、ヒソヒソ話でありながらも、村中に伝播していた。
(やっぱり、生き抜くには『力』がいるよ……)
その日が来るのは、そう遠くはない。
セディルは覚悟を決めて、知識の中から今の自分でも得られる『力』を学ぶのであった。