第十二話 我が儘令嬢
そして三日後。
館の手入れが終わり、いよいよ伯爵一家のやって来る日となった。
一行は馬車で来る手筈になっているが、いつ到着するのか、正確な時間が決まっている訳ではない。
その為、館にいる使用人達は、朝から一家を出迎える準備に追われていた。
「でも、僕達はのんびりしていますね」
「やる事が無いからな。彼らの邪魔をしない事が、今日の仕事だ」
忙しい彼らを尻目に、セディルとライガは館の庭にいた。
館の中にいても、管理人兼警備員のライガや居候のセディルにはこれ以上やる事がないので、暇潰しの散歩をしているのだった。
「伯爵様の御一家が帰ったら、いよいよ修行の始まりだよね、師匠」
ライガの公の仕事である管理人としての役割は、年に一度やって来る伯爵一家を迎える事で終わる。
後の時間は彼にとって、全て余生の暇潰しに過ぎない。セディルを忍者に鍛える為の時間に、不自由する事はないのだ。
「そうなるだろうな。まあ、それでも俺にとっては暇潰しの延長だぞ」
彼を弟子にする事は承知したライガだったが、今でもその事に対する喜びは感じさせない。言葉通り、暇潰しと言うのが本音なのだろう。
「良いですよ、暇潰しでも気まぐれな遊びでも。僕は忍者に成れれば、それで構いませんから」
セディルも、それは承知の上。
その上で、彼はライガから学べる事は学び取り、盗めるものは盗み取るつもりなのであった。
「ん?」
その時、セディルは庭園の地面に映った、人型の影らしきものにふと気付いた。空にある何かが、そこに影を作っているのだ。
首を捻って上を見上げると、快晴の空に何かが浮かんでいる。
「鳥? じゃないか、人? ともどこか違う……」
目を凝らして焦点を合わせると、空に浮かんで見えたのは、背中に白く輝く鳥のような翼を持つ子供だった。
その空を飛ぶ子供は、段々と館に近付いて来たので、高い視力を持つセディルの目にはそれが女の子である事も判別出来た。
背に翼を持ち、空を飛ぶ女の子。
その子は館の上空まで来ると、半透明の白い翼を広げ、庭園へと優雅に舞い降りて来ようとしていた。
「師匠、空から女の子が降って来たよ」
「この館では、珍しくないな」
その奇妙な光景は、館の管理人であるライガにとっては馴染みのものだったらしい。
彼はいつものように鋼鉄の無表情で、降下して来る女の子を見つめる。
「あの子がクレイム伯爵家の令嬢、エリーエル・クレイム。人間の赤子の肉体に宿り、この世に受肉して『人』として生まれて来た『天使』だ」
「『天使』、あれが……」
セディルは空を舞う女の子を見上げ、その種族の名を呟いた。
この世界で『人』として広く知られている知的生命体には、いくつかの種族がある。
神の似姿と言われる『人間』。
森の精霊や大地の精霊が受肉した存在と言われる、『エルフ』や『ドワーフ』。
その祖は獣であり、『獣神ウォーガン』の加護によって人の姿を得たと言われる『獣人』。
その出自が全く不明な『小人族』。
この五種族が有名どころだが、その他にも勿論、知的種族の種類は多々あった。
そんな種族の中には、人間の女の腹から極稀な偶然として生まれて来る、存在自体が稀少な『異種族』もある。
その一つが、『天使』と呼ばれる種族だった。
本来『天使』とは、『天空神』の御使いとして彼の下に仕える種族を指す言葉であり、男女の性別は持たないものの、その姿は人間に似た美しいもので、背には空を自在に舞える翼を持っている。
天使は普段『天界』で暮らしているが、何らかの使命を持って地上に現れる者もある。
そして地上に顕現する時、天使は通常、肉体は持たずに霊体としてのみ存在する。
「世界にある最古の遺跡の中には、神々の神殿や聖域もある。そんな場所には、守護者として天使が配置されている事がある」
ライガが、過去の自分の冒険譚を口にする。
冒険者であったライガは、様々な遺跡に挑んで来た経験を持つ。その中には、人類発祥以前にまで遡る古代遺跡もあったのだ。
「師匠は、天使と戦った事があるの?」
「ああ、あるな。俺が若い頃戦ったのは、この世界での肉体を持たない霊体の下級天使だったが、武器も魔法も使って来るから、数が揃えば厄介な相手だった。上位の天使なら、もっとヤバい奴もいるだろう」
天使には階級があり、その能力や実力は様々なのであった。
次元を隔てた『魔界』に棲息し、邪神の使いとも兵とも呼ばれる『悪魔』とは、存在自体が相反している。
しかしそんな肉体を持たない筈の天使が、何らかの理由により、人間の赤子の肉体に受肉してこの世に生れ出て来る事があった。
人間と融合した魂を納めた結果、その身は男女の性別を備え、人間を超える寿命と不老の肉体を得た。背中には光る白い翼を顕現させて空を自由に飛ぶ事が出来る、選ばれし天上人。
それが天使であり、クレイム伯爵の一人娘エリーエルはその一人なのであった。
ライガとセディルがそんな会話をしている内に、天使の幼子は地上近くまで舞い降りて来た。
幼い少女の背中の翼が大きく広がり、彼女はふわりと着地して、宝石付きの赤い靴を履いた小さな両足が軽やかに大地を踏みつけた。
その途端に、彼女の背中から仄かに輝く白い翼が掻き消える。
人の身体に受肉した人の子たる『天使』だが、その翼だけは形を持つ肉体ではなく、実体を持たない霊体のままなので、本人の意志で自由に顕現させたり消したりする事が出来るのだ。
そして、その顕現せし翼には『飛行』の魔力を宿しており、天使は自由自在に空を飛ぶ事が出来るのであった。
森の中の館の庭、そこに張られた芝生の上に降り立った天使の女の子。
「うわぁ!」
セディルはその子を一目見て、感嘆の声を上げた。自分と同じくらいの年恰好をした女の子をまじまじと見つめ、その姿を観察する。
一目で高価と判る可憐な白いドレスに身を包んだその幼女は、まるで煌びやかな宝石で飾られた、一種の芸術作品のような美しさと可愛らしさを持っていた。
良く手入れされて背中まで流れる豪奢な金髪は、高貴さが滲み出す黄金細工そのもの。艶やかで健康的な乳白色の肌は、最高級の真珠にすら見える。
尋常ではない強い光を宿す、濁りの無いブルーの瞳は大粒のサファイアのよう。
細い眉に、長い睫毛。ツンと上向く形の良い小さな鼻梁。淡いピンク色をした花弁のような唇。
まだ幼い子供であるにも関わらず、その容姿の全てが、高価で高級な超一級品の素材で構成されている女の子。
それこそがクレイム伯爵家のお嬢様、エリーエル・クレイムなのであった。
(この子が天使か~。確かにこの可愛さは、ちょっと人間離れしているな~)
五歳の幼女の段階でこれだけ目立つ容姿なので、将来はどうなるのかと、セディルは偽の子供心にも感嘆したのであった。
そんなセディルの様子を、エリーエルもじっと見つめている。
「お嬢様、本日お越しとは聞いていましたが、空を飛んでお一人で来られるとは、聞いておりませんよ。伯爵様方は、今どちらに?」
ライガがいつもとは違う口調で、彼女にそう訊ねる。
確かに、伯爵一家が馬車で来るとは聞いていたので、彼女が一人でここに飛んで来たのは、想定外だった。
(何か、あったのかな?)
ライガと同様、気になったセディルは、エリーエルの返答を待つ。
そして伯爵家の令嬢は、その可憐なピンク色の唇を開いた。
「控えなさい、下民共」
天使のお嬢様の第一声は、そんな言葉で始まった。
幼く舌足らずだが、音楽的に美しく甲高い女の子の声。
しかしながら、そこには傲慢さと尊大さがハッキリと滲んでいた。
若干目尻の跳ね上がった大きな蒼い瞳が、セディルとライガを冷たく見下している。その視線も、年齢に反して堂に入ったものだった。
「あれ?」
身分の高い貴族とはいえ、可憐な天使の口からそんな言葉を聞き、セディルは首を傾げる。
「失礼致しました」
だがライガはそんなエリーエルの態度に慣れていたのか、すぐにその場に片膝を着くと、隣のセディルの頭を掴んで強引に押し下げた。
「うわっとっ!」
普通の幼児よりは力のあるセディルだったが、指一本で熊でも捻じ伏せるライガの腕力には適わない。芝生の上に跪き、彼女に頭を下げる形になった。
「お父様達は、間もなく到着致しますわ。わたくしは、お前達が仕事を休んで遊んでいないか、先に見に来たのです」
伯爵令嬢は跪いた二人の礼儀に納得したのか、顎を僅かに上げつつ、ツンとした態度でそう答えた。その口調こそ幼いものの、話す言葉や内容は、とても五歳児のものとは思えない。
セディルのような偽物幼児でないのなら、このお嬢様の知能は相当に高いと言えるだろう。
「それなら、ご心配には及びません。使用人達の手で、この館に伯爵家の方々をお迎えする準備は整っております」
用意していたような台詞を、淀みなく口にするライガ。
長年冒険者として暮らして来たとは聞いているが、貴族への対応に慣れているようには見えなかったので、セディルは師匠の意外な一面に目を丸くする。
そんなライガの返事を聞きながらも、エリーエルの視線は、彼の下にはない。彼女の視線の先にあったのは、顔に包帯を巻いた黒髪の子供の頭であった。
「管理人、それは何ですの?」
見下す視線は変わらないものの、少し瞳に宿す光の色を変えたエリーエルが、そうライガに訊ねる。
(『それ』って、僕の事?)
突き刺さる視線から、自分が見つめられている事に気付いたセディルは、心の中で呟いた。
「『これ』は、ただの流れ者の子供です。訳あって、俺が引き取りました」
ライガは用意していたセディルの身の上話を、手短に彼女に話す。
その説明に納得したのか、エリーエルの視線が再びセディルに向かう。
「下民の子、頭を上げなさい。わたくしの質問に答える事を、許可しますわ。なぜ、顔に包帯を巻いていますの?」
平伏するセディルに対して、エリーエルは高圧的な物言いで質問を投げ付け、彼に自分と話す許可を与えた。
(この子と話すには、一般人は許可が要るんだ……)
その余りの選民思想に、前世の影響で身分差に慣れていないセディルは、一瞬固まってしまった。
「どうしたの? 答えなさい下民」
下民が自分の命令を聞くのは当然と言わんばかりに、エリーエルがトントンと可愛く足を踏み鳴らす。
流石にこれから住まわせて貰う館の所有者である、伯爵家の一員には逆らえない。セディルは顔を上げ、黒い瞳で彼女の蒼い瞳を捉えると、口を開いた。
「親の言い付けです。僕の顔は『悪魔』にそっくりでとても醜いから、人様には見せないようにと言われています」
『悪魔の子』と呼ばれていた事実は伏せたが、出来る限り本当の事をセディルは話した。
悪魔と呼ばれる種族には様々な姿をした者がおり、その多くが醜く恐ろしげな姿をしている。
この世界の言い回しでも、一般的に悪魔のようだという言葉には、『卑怯』とか『汚い』とか『醜い』という意味が含まれているのだ。
(まあ、高位の悪魔の中には、美しい人間みたいな姿をした奴もいるらしいけど、その『美しい』も、邪悪さの象徴みたいなものだから……、嘘じゃないよ、うん)
セディルはそうした高位悪魔のようだという意味で、『醜い』と自己の容姿を表現したのである。
「ふんっ、それならば顔を隠すのも当然ですわね。悪魔に似た顔など、わたくしにも見せないようにしなさい」
セディルの話を信じたエリーエルはそう言い捨てたきり、彼らの事等、塵芥のように無視して館の玄関へと歩き去って行った。
醜いものには興味が無いらしく、セディルに包帯を取って顔を見せろとも言わなかった。
「師匠、あの子本当に天使なの?」
天使という言葉からイメージされる美少女とは、随分違ったその態度に、セディルは唖然としてその後姿を見送った。
「天使は天使で間違いないだろう。だが、人の子でもある以上、あの子はただの五歳の女の子だ。世間で思われているような、『慈悲深き天使様』の姿を要求するのは……、酷だな」
彼女の事を赤子の頃から知るライガは、そう言って立ち上がり肩を竦めた。
人の身体に受肉した天使と言っても、天界にある天使のような記憶や能力を持っている訳ではない。
彼女はあくまで『人』と呼ばれるものの範疇に含まれる存在であり、その精神性や能力も、『人』の器を超えるものではないのであった。
「……アンナさんが、難しいって言っていた理由が判ったよ」
セディルは少し遠くを見るような目で、虚空に視線を移す。
クレイム伯爵家の御令嬢エリーエル・クレイム。
人の子として生まれた天使にして、身分差を絶対視するかなり我が儘なお嬢様。
ただの田舎の村人で、悪魔の子のセディルにとって、仲良くなるのは至難の相手のようである。




