プロローグ
『男』の意識は、明るく輝く不思議な空間に浮遊していた。
上も下もハッキリしない、重力の無い宇宙のような場所だと、男は思う。
何故自分が、こんな場所にいるのか?
(俺は、死んだのだな……)
男はそう判断した。
記憶は朧げで、正確な事は覚えていないのだが、男の意識はそのように認識している。
だが死んだ筈の自分に何故意識があり、何故こんな場所にいるのかは、男にも全く理解出来なかった。
『やあ、初めまして』
そんな男に、誰かが『声』を掛けて来た。
無い筈の耳に聞こえた、その声の方に意識を向けると、そこには確かに『何か』が存在していた。
少なくとも人間ではないと感じられる、『何か』としか表現しようのない存在だと、男の直感が告げている。
『ほほう~、今回も中々良い『人材』が来てくれたみたいだね。結構、結構、面白い人はいつでも大歓迎だよ』
その存在は面白そうなニュアンスを声に込め、日本語ではない謎の言葉でそう言った。
何故かその言葉が理解出来た男は、『何か』が言う『人材』と呼ばれた自分に思考を向ける。
先程と変わらず、記憶はハッキリしない。
名前も、家族の事も、住んでいた場所も、自分の過去に関する全ての事柄を覚えていなかった。
それでも自分が地球人であり、科学文明の発達した日本国に生きていた『日本人』であった事は確かだと、男は思う。
その世界で、男は教育を受け、成人となって普通に暮らしていた筈なのだ。
唐突に死が訪れる、その時まで。
『ふうん、君は過去の記憶を失っているのか。まあ、これからやって貰う事には影響しないね。寧ろ、好都合かもしれない』
男の頭の中を覗き見するかのような、『何か』の言葉。
まるで神や悪魔のようだと、男は思う。
『そうだよ、わたしは君が認識する、神や悪魔のような存在だと思って貰って結構だ』
その『何か』は、楽しそうに男の想像を肯定した。
『わたしは、『人材』を探していたんだ。無限に存在する世界の中から、わたしが必要とする死者の魂を召喚したら、偶々君が呼び出された訳さ』
『何か』が語る、男がこの場所に存在する訳。
それは、随分と身勝手なものであった。
『でもそのお蔭で、君は第二の人生を新たに生きるかどうかを、ここで選択出来るんだよ』
第二の人生と聞き、男は思う。
記憶に残る、生前読んだ筈の数々のライトノベル。その中に登場する、ある日異世界に生まれ変わる話に、それは似ていた。
『まさしく、その通り。君は君がいた世界とは異なる、わたしが創った世界、わたしの作品である世界の中に入り込むんだ。そして、そこで君に楽しく遊んで欲しい訳なんだよ』
世界の創造主を名乗る『何か』は、愉快そうな声でそう言った。
まるで自分の作ったゲームを、誰かに自慢しているようだ。
『一応、マイルールがあってね。わたし自身はその世界に、直接過度な干渉を行う事は出来ないのだよ。だから、面白そうな人にそこへ行って貰い、世界に適度な刺激を与えてみようかと、思い付いた訳なんだ』
『何か』は、男をこの場に呼んだ理由を説明する。
自分が創った世界に、不確定要素のゲームプレイヤーを放り込み、それを見て楽しむ事が目的のようだ。
『もしこの話を受け入れて、わたしの道楽に付き合ってくれるのなら、君には、新しい肉体と生まれ、それにその世界にも稀な『特別な力』を与えよう。その力を上手く使って、好きに生きてくれたまえ。まあ、ちょうど事が起こる面白い時代には飛ばすから、立ち回り次第では運命に良いボーナスも得られるとして置こうか。でもこれ以降、わたしは君がする事には一切干渉しない事を約束しよう』
『特別な力』を貰って、異世界に生まれ変わる。
死んでしまった自分が、第二の人生を始める。
立ち回り次第では、運命的なボーナスも期待出来る。
そんな出鱈目な話を持ち掛けて来た、この『何か』は、信用に値する者なのだろうかと、男は疑問に思う。
『まあ、疑う気持ちは良く判るよ。でも、わたしは君に何か特別な事をして貰おうとは、思っていないのだよ。生まれ変わった後は、何もせずに引き籠ってしまっても構わないんだ。その世界に、君という『異物』が存在しているという事が、わたしにとっても、世界にとっても大事なのだからね』
相手の表情は全く窺い知る事が出来ないが、男は声の調子から、この『何か』が今ニヤニヤと笑っているような気配を感じ取った。
男を使って、ゲームを楽しむ。
本気でそれしか考えていないのではないかと、彼は思った。
神は神でも、事態を引っ掻き廻すトリックスターのような者なのだろう。
『さて、どうかな? 引き受けてくれないかな? ああ、因みに引き受けてくれない場合は、死者である君は、このまま自然消滅するだけになるよ。そうしたら、次の人を呼ばなきゃならなくなるね』
死んだのだから、消滅は仕方がない。
男の分別は、そう告げている。
しかし、ここに『何か』から選択肢を示された。
このまま消滅するか、次の人生をもう一度生きるか。
記憶を失っている男には、過去の人生に悔いがあったかどうかは、判断出来ない。
だが、仮に悔いが無かろうとも、消滅よりは生きていた方が面白い。
生きてさえいれば、失った過去もまた得られるのだ。
それに、『何か』という存在は信用し辛いのだが、与えると言う『特別な力』とやらには、男も興味を引かれる。
男の答えは、決まり掛けていた。
『さあ、返答は?』
思考する男の意識に、『何か』が選択の答えを訊いて来る。
答えなど当然のように知っているが、『何か』は、敢えて男の意識に答えさせるのだった。
「……了解した。俺をあんたの創った世界に、生まれ変わらせてくれ……」
男は、無い筈の口から、確かにその言葉を発した。
『契約は、結ばれたね』
『何か』が楽しそうに、そして恐ろしげに、口調を変える。
男の意識が震える。
次の瞬間、彼の意識はどこか別の場所に、引き摺り込まれて行った。
まるで排水溝に流れ落ちる水のように、抗えない力に飲み込まれ、男の意識が薄れる。
『それじゃあ、楽しんでおくれ。約束通り『特別な力』と『特別な運命』もあげるから、退屈はしない筈だよ、アハハハハッ!』
不気味に反響し、空間全体に轟くようなその笑い声を聞いたのを最後に、男の意識は完全な闇に閉ざされた。
男は意識が途切れる直前、思った。
やはり、あの『何か』は悪魔だったのではないか。
自分の選択は、正しかったのだろうか、と。
しかしそれを知る術は、今は無い。
その答えは、男のこれからの新しい人生を通じて明らかになるのだ。
そして、一人の男が異世界に生まれ変わる。