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青い心

作者: 四海朗

——まただ。

 この部屋には、ふたりだけのはずなのに、なぜか視線を感じる。

 この部屋の壁に鏡はない。だからそれが自分の姿であるはずがな

いのだ。己の影に怯えている。そうは考えたくもない。

 後ろめたさや疚しさで、幻を感じてしまうのか。それ程ならば、

止してしまえばいい。

 いや、止すべきなのだ。

 こんな、こんな……

 まただ。背中に視線を感じる。

 この部屋にいるもう一人は、今、私の目の前の椅子に腰をおろし

ているのだから違う。

 跪く私を、見下ろしているに違いない。

 私は、ふり返るのが怖かった。

     ※

 室内楽をバックに衣擦れの音がまるで女の囁き声のようだ。

 今宵は弦楽四重奏だ。二艇の提琴はさしづめ、官能に身悶える貴

婦人の喘ぎか。否、真の仮面や扇で顔を隠していても、それに何の

意味があるというのか。この居城に集う者は皆そもそも顔見知りで

ある。氏素性の怪しい者が立ち入れる場所でもなはい。

 本夕の趣向は仮面舞踏会、陳套だがそこそこ盛り上がる。

 コルセットでウエストを絞り上げ、今にも乳房が襟元から零れ落

ちそうなのは、ワイズマン公爵夫人か、はたまたモンゴメリ伯夫人

か。

 カーテンの陰に隠れたつもりで、髭親父の粘りつくような愛撫を

受け、身体を震わせているのはイザベラ嬢か。

 貴族の鄙俗な遊戯は飽くことなく夜毎繰り返される。

 それはもう享楽ではなく、過酷な義務のようでもあった。働く必

要もない、自由という名の不自由に縛られた彼らは、ひたすらに耽

美の底で妖しく蠢くしかなかった。

 だがしかし、貴族の誰もがそのように腐っていたわけではない。

 この城の主であるハガード卿は、希少なそのひとりである。

 彼が広間に姿を現すと、貴婦人がたの目の色が変わった。

 ドレスの裾に頭を突っ込んでいた男を蹴り飛ばし、素早く身繕い

をする。

 広間の入り口で僅かのあいだ、立ち止まったローレンス・アラ

ン・ハガードは、楽団に向けて軽く頷いてみせた。バイオリンが音

を絞る。

 ローレンスは素顔のままだった。

 だからといって、この馬鹿げた宴に腹を立てて講義をしているわ

けではない。そうでなければ屋敷を解放するはずもない。彼は、ど

のような人物に対しても、分け隔てなく礼を尽くす。

「みなさん。今宵も楽しんでおられますかな」

 穏やかな微笑みをたたえたその顔は、中老に挿しかかっていると

は思えない程度に若々しかった。

「やあ、無理を言ってすまなかったね。ラリー」

 ローレンスより十ほど年嵩の男が歩み寄った。

「妻が、こういう宴を嫌がってね。子供の教育によろしくないと言

う。だからといってラリー、君のところにだって娘さんがいるとい

うのに」

「なに、構いませんよ。私には幸い娘はあっても、口やかましい妻

はおりませんから」

 少し癖のある声は、しかしその微笑みと同じで柔らかく、耳に心

地よく響いた。

 和やかに談笑しているローレンスを、女たちが気にしていない風

を装って、だが全員から「私を見て欲しい」と言う卑しい情欲が溢

れていた。

「それにしても、今宵も盛況でなによりです」

 ローレンスが広間を見渡した。

 先刻まで淫らに身体をくねらせていた女たちは、生娘の様に頬を

赤らめ、ローレンスの視線を受けている。

「酒が足りていないようですね」

「いやいや。もう十分だろう。たけなわもたけなわ、そろそろ開い

たほうが皆のためというもの」

 男がそういうのも無理もない。座はグズグズに乱れきっていた。

 紳士淑女の仮面などは薄皮に過ぎず、それは憐れなほどに脆い。

 しかし、そんな客の痴態を目にしても尚、ローレンスは柔らかな

微笑みを口元に浮かべている。

 男は、ローレンスの横顔を複雑な表情で見ていた。感心と僅かな

違和感を込めて。

 おそらくローレンスは、このような乱痴気騒ぎは好きではないは

ずだ。

 日頃の振る舞いを知っていればわかる。

 厳格な職に就く者や、誇り高い貴族の中には、乱れた傍輩に眉を

顰めるものがある。関わり合いになること自体を避けるほどだ。

 かっちりとした性格のローレンスは、交際上の義理で場所を提供

しているに過ぎないのではないか。

 それなのに、この愛想の良さはどうだ。

「遠慮なさらずに。なんでしたら、今晩は皆さんにお泊まりいただ

いて結構ですよ」

 笑顔を崩さずーーそれも嫌味のない。そう言ってのけるローレン

スノ真意を理解できずに、男は戸惑った。

「いや、さすがにそれは」

「なに、空いている部屋ならそれこそ売るほどあるのですから」

 大人の風格を有するローレンスが、困ったり嫌な顔を見せたりし

たことは終ぞない。

 それがかえって薄気味悪くさえ感じる。

ーーいい人すぎるのだ。物わかりが良すぎる。

 人の嫌がることはしない。だが、されて嫌だろうと思われること

を、たとえされても不快感を露わにはしない。

ーーでき過ぎている。

 しかし、それは悪いことではない。それ故に男は、居心地の悪さ

を持て余していた。

「やはり今夜はお開きにしよう。今度はオペラでも如何ですかな?

お嬢さんもご一緒に。それともシェイクスピアの『あらし』かよろ

しいですか。なかなか大掛かりで、子供でも楽しめるそうです」

「お気遣いありがとうございます。いずれ娘共々お招きにあずかり

ましょう」


 敷地のアプローチを連なって走る箱馬車は、門を出ると各々闇の

中に消えていった。

 窓辺からローレンスがそれを静かに眺めていた。執事が近づき、

何か話しかけると、ローレンスが鷹揚に頷く。深々と一礼をして静

かにその場から辞した。

     ※

「いい加減この片田舎まで足を運ばれるのにもうんざりでしょう」

「うんざりなのは君の方なのじゃないかな。私としては、良い息抜

きなのだよ。うるさい妻やその取り巻きの相手をしないで済むのだ

から」

 ローレンスが年に三度ほど、カントリー・ハウスで過ごすのを見

計らって、父方の義伯父のフレデリックが訪ねてくるのは、もはや

恒例となっていた。

 用向きは、ハガード家の今後について。

 ローレンスの妻であるオリビアが、テレサを産んで亡くなった直

後からであるから、もう十数年になる。

 当初のうちはフレデリックも使命を果たそうと真剣だったが、い

つしかこの別邸でローレンスと過ごすことが目的となり、楽しみに

もなっていた。

「しかしそれでは大叔父が承知しないのでは?」

「いやなに、私だって一家の主人だ。こう言っては君に失礼かもし

れないが、婿入りした身ではないのだからね。忠義を尽くす義理も

ない」

 笑いながら葉巻の煙を吐き出した。

 ハガード家は百年以上前の祖先が、建国の立役者、選帝侯の懐刀

だったという由緒正しい家柄だ。

 資本主義経済の発展によって、貴族がその地位にあることも揺ら

いでいる今日、ハガード家は、ローレンスの母や、伯母の嫁ぎ先な

どが政治の中枢にある家系であったため、ローレンスも古き良き帰

属然としていられた。

「私も、こうして年に数回ですが、フレッドと過ごす日々が、実は

楽しみなのです。うるさ方の親類に感謝をしているくらいですから」

 優美な仕草でティーカップを口元に運ぶ。

 男性としては小柄だが、鷹揚な身熟しが板についているゆえか、

それを感じさせない。

 ハガード家の唯一の跡取り息子であるローレンスは、幼い頃から

父親に、家長としてふさわしい素養を学んできた。

 それは、ただそこにあればいいというものだった。

 努力も苦労もすることはない代わりに、その座に確かに存在する

という、いわばシンボルのようなものだと、父親から言い聞かされ

ていた。

 そして後の世に子を成すこと。

 それが主たる役割だとも。

 もとより乳母日傘の世間知らずで育てられているのだから、楽し

みといえば、必須の芸術くらいで、中でも古典主義の絵画が好みで、

自らも絵筆をとるほどだった。

 伯母の連れ合いであるフレッドとは、趣味の絵画の話題で意気投

合した。

「それで、どうなんだね。叔父さんの話にそろそろいい顔をする気

はないかな」

 ローレンスの父母が早くに亡くなり、彼が家を継いだとはいえ、

祖父の弟である大叔父はなお強壮で、何や彼やと口を出してくる。

 ハガード家の今後、というのも、娘しかいないローレンスに男児

が欲しいからである。

 その話になると、ローレンスはただ微笑むばかりだ。

「オリビアが亡くなって、十数年が経つ。彼女への義理立てもそろ

そろ、なあ」

 あからさまに、もういい加減にしろとは言い難く、言葉を濁した。

 ローレンスが結婚をしたのは、彼が二十五歳になった年だった。

相手は、十七歳のたいそう美しいオリビア。同じく貴族の娘だが、

ハガード家とは遠い血縁関係にあった。

 もちろん、生まれた時から決められていた許嫁だ。

 跡継ぎを望まれていたが、二人の間には、なかなか子供ができな

かった。

 二年が過ぎた頃、使用人達の間で不穏な噂が囁かれはじめた。

 主人のローレンス様とオリビア様は、寝室を共になされていない

のではないか。

 それも、結婚当初から。

 当時健在だったローレンスの父親の耳に噂が入ると、烈火の如く

怒るかと思われたが、意外なことに静観していた。

 それというのも、オリビアが輿入れをしてから判明したことだっ

たが、彼女には少々問題があった。

 平素は何ら余人と違いはないのだが、どうかすると取り逆上せて

手がつけられなくなることがあった。強い心労などが原因ならば首

肯けなくもないが、ほんの些細なことでも使用人らに当たり散らし、

挙句に暴力を振るうこともあったから、ハガード家では早くから持

て余し気味だった。

 ローレンスは、結婚前からオリビアをあまりよく思っていなかっ

た。

 心安くしていた使用人などに、オリビアの実家に、近親結婚が多

いと漏らしていた。事実、オリビアの両親も、従兄妹同士であった。

 そこへ持ってきてのオリビアの性格。

 ローレンスの危惧が的中したようなものだ。

 新妻を避けているからといって、女中に手をつけたり、妾を囲っ

たりの暴挙に出ることもなかったが、時おり高級娼館には通ってい

たようだ。

 そんなこともあって、娘のテレサが生まれるまでに八年もの時間

を要した。

 漸う漸うできた子供が女の子とは、オリビアも立つ瀬があるまい。

 そればかりが事の由とは言えないだろうが、オリビアは産後の肥

立ちが思わしくなく、テレサを産むとひと月も経たずに亡くなった。

 意外にも、生まれた子供をローレンスはとても可愛がった。

 周囲は、妻に冷たく接していた経緯を推して気を揉んでいたが、

端の心配を他所に娘を猫可愛がりをした。

 さらに、親戚からの「男児を」の声にも貸す耳を持たなかった。

 表向きは夭折した妻に義理立てしているようにも見えるが、彼を

知るものならばそれはないと一蹴するだろう。

 長い付き合いのフレッドもそれは承知している。

「今更この歳で妻をもらっても、気苦労ばかりで楽しみなど」

 他人事のように笑うローレンスを見て、フレッドは、だから若い

うちにもらっておけばよかったんだ。という喉まで出かかった言葉

を飲み込んだ。

 ぎこちない沈黙を、控えめなノックの音が遮った。

 ローレンスが答えると、静かに扉が開いた。

 しかつめらしい顔つきで執事が立っていた。慇懃に礼をして下が

ると、

「ああ、テレサ。大伯父さんにご挨拶なさい」

 若草色のティーガウンを身につけた、ローレンスの一人娘、テレ

サがひっそりと部屋に入ってきた。

「やあ、こんにちは」

 美男美女との間に生まれた子供であるのだから、美しくても何ら

不思議はないのだが、テレサは明らかに母親似だった。

 逞しくはないが、それでも健康的なローレンス。娘はそれを受け

継がなかったようだ。

「フレッドおじ様、ようこそ」

 そよ風が木の葉を揺らすような、嫋とした響の声だ。

「お邪魔しているよ」

 テレサの顔を見るとフレッドはいつも、思わず体調を尋ねそうに

なる衝動に悩まされる。

 石蝋のように白い肌。頬には赤味がさすことはなく、生まれてか

ら一度も陽の光を浴びたことがないのではと思わせるほどだった。

「お父様、これからトリクシーとお散歩に出ようかと思いますの。

よろしくて?」

 病弱そうな見た目とは裏腹で、テレサは大きな病気などで患い付

いたことはなかった。

「いいとも。行っておいで」

「トリクシー?」

 聞き慣れない女の名に、フレッドが首をかしげた。

「先日、鹿毛の牝馬を求めまして。娘の遊び相手に丁度良いかと」

「馬か。随分とまた大層な名を付けたものだな」

「……娘の命名ですよ」

 気まずそうにローレンスが咳払いをした。

「これは失礼した。なるほど、由来はダンテだね」

「その名に相応しい、美しい馬ですの。ベアトリーチェ。九歳のダ

ンテのように、私も一目で魅了されました」

 大叔父の失敬な言葉も気にかけない無垢な微笑みは、十四歳とい

う年齢よりも彼女を幼く見せていた。

「気をつけて行くんだよ」

「はい。お父様」

 ふわりとお辞儀をして、フレッドに暇を告げると、部屋を後にし

た。

「テレサは元気そうだ」

「おかげさまで」

「今年で十四だったか。そろそろ年頃じゃないか」

「いや、ご覧のとおりまだ子供です。社交界にも興味がなくて、困

ったものです」

 サロンの窓から見えるバック・ガーデンを、トリクシーの手綱を

引いたテレサが横切ってゆく。

     ※

 石畳の路地の冷え込みは、陽春の頃でも夜ともなれば一晩を凌ぐ

だけでも苦労するほどだ。

 レストランの裏口(まわ)りには、暗がりに隠れてうずくまる人影が幾

つか、息を殺し、まるで路辺の石と化していた。

 レストランの裏口が開く。

 暖かな灯りと、腹をくすぐる匂いが路地に溢れ出ると、浮浪者た

ちが脱兎の勢いで戸口に群がった。

 まとった襤褸から腕を伸ばして、コックの持つバケツから残飯を

奪い取ろうとする。

「クソ! 汚い手で触るんじゃない!」

 コックはバケツを頭上に掲げ、足で蹴散らした。

「がっつかなくてもくれてやるぞ。そら!」

 そう言うと、コックがバケツの中身を路地にぶちまけた。

 我先にと残飯に飛びつく浮浪者たち。

 その中の若い男が、大きめのバゲットに手を伸ばした。本日の一

等品のようだ。

「……」

 しかしそれを阻むべく、別の男が横から体当たりを食らわせた。

「新入りが、差し出た真似をしやがって!」

 バゲットを掴み損ねた若い男が、地面を転がる。

 こんな、地べたを這う浮浪者たちの中でも階層というものがある

ようだ。

「こいつはボスのもんだぞ。お前はこれでも食っていろ」

 若い男は身をかがめ、食いしばった歯の間から呻き声を漏らして

いるが、それに構わず、浮浪者たちは残飯をそそくさと分け合う。

「おい、あの若けえのは大丈夫か?」

 身動きもしない若い男を振り返った。

「知るかい。ほっとけほっとけ」

「新入りのくせに、一等品になんぞ手を出そうとするからじゃ。当

然の報いだ」

 口ぐちに若い男を罵ると、浮浪者たちは、それぞれの塒へ帰って

いった。

 路地が静かになると、若い男はそっと顔を上げ、辺りを見回した。

 腹の下に手を突っ込んで、ゴルフボール大の塊を取り出す。

 それは食べ残しの鶏肉だった。

 動けないふりをして、真の一等品であるチキンを死守したようだ。

 泥を払い落として、チキンをかじる。二日ぶりのまともな固形物

だった。

 薄暗い路地から大通りへ出ると、そこは、目映い世界が広がって

いた。

 道を行き交う豪華な箱馬車が、ガス灯の明かりを反射している。

若い男には、そこにある全てが己とは両の端に存在しているかに思

えた。

 淑女らのさんざめく声が、若い男の耳には見窄らしい姿の自分を

嘲弄しているかに聞こえる。

 被害妄想だと自覚はしているのだが、長年の放浪生活ゆえかそれ

とも、持って生まれた(たち)なのか、ものごとを(はす)にとらえる癖があ

った。

 下を向き、背中を丸めて道の端を歩く。

 大通りの先には、大きな劇場がある。先ほどからひっきりなしに

通る豪華な箱馬車は、そのアテナ座へ紳士淑女を運んでいるのだ。

 先日来出し物は確か、ウィリアム・シェークスピアの戯曲に変わ

っていた。

「……テンペスト。なにがロマンス劇の傑作だ。子供騙しの虚仮威

しじゃないか」

 翁にずいぶんと無礼な呟きを漏らした。

「おーい! ギヨーム!」

 そのとき通りの向こうから若い男に声をかける者があった。

 顔を上げると、馴染みの酒場の店主が、立派なフル・ベアードに

埋もれた顔に、満面の笑みを浮かべ、手を振っている。

「達者でやってるかあ」

 ギヨームは軽く手を上げてそれに答えた。

 ひと月ほど前、その酒場で酔客と揉めたことが原因で、出入り禁

止になっていたのだ。

 ギヨームは、吟遊詩人だ。

 そうはいっても実状は物乞い同然の暮らしだった。

 酒場で自作の詩を吟じては、小銭を稼ぐその日暮らしをしていた。

 前述の酒場の一件は、ギヨームの下手な詩を(けな)した客と喧嘩にな

ったのだ。

 それゆえ仕方なく、残飯を漁って飢えを凌いでいた。

 天涯孤独の身の上で、自由勝手に生きていてもなんら困るところ

はない。

ギヨームは、若くして人生に倦み疲れていた。捨て鉢なのだ。

 ふらふらと歩くギヨームの横を、ひときわ豪華な箱馬車が二台続

けて走り抜けていった。

 煽られ、転倒しそうになったギヨームが、舌打ちをして馬車を睨

みつけた。案の定、馬車はアテナ座の入り口に横付けに止まった。

 馭者がステップを引き出す。

 まず降りてきたのは、正装に身を包んだ年の頃は五十前後の紳士

だ。

 続いて、差し出された紳士の手を取って馬車から降りてきたのは、

バラ色のクリノリン風のドレスに身を包んだ、金色の髪の美しい少

女だった。

 いささか時代遅れの感があるスタイルだが、夜目にもその白さが

際立つ肌に、不思議と似合っていた。

 馬車を睨みつけていたギヨームの目が、いつのまにか大きく見開

かれていた。

 少女は、もう一台の箱馬車から降りてきた中年夫婦らに伴われ、

劇場へとはいっていった。

 生まれ故郷を捨てて、方々を流れていたギヨームは、それこそ数

えきれないほどの女を色々な国で見てきたが、この少女より他に美

しいと思った人はいなかった。

 陽光に照り輝く夏の花の風情というよりは、月明かりの下で控え

目に光る、夜露の如しだ。

 有り体に言ってしまえば、ギヨームは()の少女に一目惚れをした

のだ。


 あの日から、もう一週間が過ぎた。

 ギヨームが、月の精と見紛うた少女を見初めた晩から。

 あれからギヨームは、アテナ座に通いつめていた。

 三日と空けずに同じ演目を見に来るはずもないのに。他に藁稭(わらすべ)

本頼る筋がないのだからしかたがない。

 もしかしたらという思いで、こうして劇場の近くを行ったり来た

りしているのだ。

 高級店のウィンドウを覗いては、野良犬のように水をかけられる

こともしばしばあった。

「おお、ギヨームじゃないか」

 先日の、髭の酒場の店主がまた声をかけてきた。

「なにやっているんだ。ここのところ毎日のように真っ昼間から通

りをうろついて」

 店主は紙袋を抱えていた。買い出しの帰りか。

「あんたのところを出入り禁止になってから、運に見放されたよ。

そこの店でも門前払いさ。どこかで日雇いでもないかと探している

のさ」

「ハッ! 冗談。お前の運の悪さは生まれつきだ。まあ、心を入れ

替えて客と揉め事を起こさないっていうんなら、考えてやってもい

いぞ」

 陽気に笑う店主から見えないようにギヨームは、地面に唾を吐い

た。

ーー他人事だと思いやがって。

 だが、そんな素振りは微塵も見せず、卑屈な笑みを浮かべた。

「そのときはよろしく」

 店主はのんきに鼻歌を歌いながら通りを渡って去っていった。

 その背中を苦々しげに見送っていたギヨームに声をかける男が

いた。

「お前さんかい? 探し人がいるって小僧は」

 小僧だという自覚のないギヨームが答えを返さないでいると、肩

を叩かれた。

「あんたのことだよ、にいちゃん」

 ギヨームが振り向くと、彼に負けず劣らずなみすぼらしい老人が

立っていた。

 左脇には、ボロ布にしか見えない汚れた雑種犬を抱えている。

「いや、なに。あんた昨日も一昨日もこの辺りをうろついていただ

ろう」

 ギヨームは、老人の顔を疑わしそうに睨みつけた。

「おっかない顔するなよ。おれはただ、あんたの役に立てるかな、

と思って声をかけたんだ」

「じいさんが? オレがなにを探しているのか知ってるっていう

のか?」

 老人はニッと笑った。

 口元から覗く乱杭歯が、不気味さを増している。

「あれだけ毎日ひとに何か聞いて回っていりゃあ、いやでも目につ

くわな」

 老人は、抱えている犬に、なあ、と言って笑った。

 なるべく目立たず自然に聞き込んでいたつもりだったが、こんな

老人に勘繰られるとは。

 ギヨームは、知らずのうちに焦っていたのかとほぞを噛んだ。

「ハガード家ならなあ、あの家は由緒正しい家柄だぞ。なんたって

古い。ジョージ一世の父親の頃からご先祖は懐刀だというからな」

 老人の言葉に、ギヨームは驚いて目を見張った。

「今、いまなんて言った」

 ギヨームが老人の肩を掴んで揺さぶったものだから、はずみで犬

が転げ落ちた。

「おいおい。ちょっと落ち着け」

 犬も足元をぐるぐる回りながら吠えたてるものだから、通りをゆ

く人びとの注目を集めた。

「どういうことだ、ハガード家ってなに……」

 老人は、興奮するギヨームの手を除けると、まとわりつく犬を拾

い上げた。

「だから落ち着けと言ってるだろうが。お前が毎日たずね歩いて聞

いていた紋章だ。赤と黒のタータンチェックに百合があしらわれた

サスカッシャンに、獅子のサポーターとくれば、そりゃあハガード

家のもんだ。他にも特徴があるが、お前の覚えていたのはそれだけ

なんだろう。でも、それで十分だ。まず間違いない」

 老人は身を反らして断言して見せた。

 あの夜、ギヨームが危うく転ばされそうになった豪華な馬車の扉

には、その紋章があった。

 一瞬のことだったのでギヨームも、大まかな特徴を覚えるのが精

一杯だった。

「……ハガード家」

「そうだ。さっきも言ったがハガード家は古い名家だ。お前、あの

家に何の用がある?」

 老人は急に声を落とし、それまでとはまるで別人のような鋭い目

つきでギヨームを見据えた。

「用って……別に……」

「噓をつけ。あんなに血眼になって探しとったくせに」

 ギヨームは俯いて黙ったままだ。

「ま、なんにせよ、お前のような男では、旦那様に御目通りなどで

きんよ」

「……じいさん」

 何かに気づいたように、ギヨームが顔を上げた。

「あんた、やけに詳しいじゃないか? 何者だ?」

 ギヨームは、老人から一歩後ずさると身構えた。探りを入れる怪

しい奴を始末するためにハガード家が送り込んできた刺客では、と

警戒する。

「おいおい、勘違いするな。おれは若い頃はこう見えても庭師をし

ていてな。付いた師匠がその筋でも指折りの人だった。お得意様は

立派なお屋敷が多くてな。そうだよ、その中にハガード家があった

のさ」

 それがどうしてこんな暮らしにーーと無粋なことは聞かなかった

ギヨームにも他人に尋ねられたくないことの一つやふたつはある。

「ま、どんな事情があるのか知らないが、さっきも言ったがお前さ

んが容易に会える相手じゃあない」

 この老人に出会えたことは、ギヨームにとって僥倖だったが、こ

れ以上老人にハガード家について尋ねることは藪蛇に思えた。

 なぜ()の家について探っているのか? まさか、そこの娘に懸想(けそう)

をしているからだ。などとは口が裂けても言えまい。

「先週の晩、この通りでその馬車に轢き殺されそうになったのさ。

慰謝料をふんだくるのが無理でも、文句のひとつでも言ってやりた

くてね。それだけさ。わかってるって、じいさんの言いたいことは。

返り討ちにあうのがもに見えてる。だろう? オレだって本気じゃ

あないさ。まあ、いってみれば気休めさ」

 人は隠したいことや後ろ暗いことがあるとき、口数が増える。

 老人の、見透かすような目に焦りを感じ、ギヨームは早口にまく

し立てた。

 馬車の(ぬし)は分かった。これ以上老人から聞き出せることもないだ

ろう。

 ギヨームは礼を言って、老人と別れた。


 ハガード邸は、シティを横断して流れる川を渡って、南へ馬車で

十五分ほど行った、静かなところにあった。

 貴族相手の業者の荷馬車に首尾よく潜り込み、ギヨームは今、ハ

ガード邸を囲む石造りの塀を見上げている。

 この荷馬車の馭者が、やたらと口の回る男で、乗り合わせた業者

たちを相手に、道中お屋敷の内情を喧伝(けんでん)し通しだった。

 おかげでギヨームは、ハガード邸の場所はおろか家族構成から使

用人の数まで、労せずして情報を仕入れることができた。

 屋敷の石垣沿いをぶらぶら歩いていると、正門へ出た。ギヨーム

が馬車からこっそり降りたところは、使用人が使う裏木戸の出入り

口だった。

 見上げるほど立派な門扉には、箱馬車にあった紋章と同じ装飾が

施されている。

 老人も言っていたが、ハガード家は名家だ。鉄の門は古色蒼然た

る佇まいを醸し出しているが、決して古ぼけた印象はなかった。

 さて、勢いに任せてここまで来てしまったが、どう逆立ちしたと

ころで、ギヨームに主人への目通りが叶うとは思えない。ましてや

一人娘のテレサに会うなど、太陽が西から昇るよりまだ可能性が低

い。

 一体どこまで続くのか、と思われた石垣だったが、やがて曲がり

角が見えてきた。さらにその先は、敷地の森の中にまで続いている

ようだった。

 森は北側に広がっていて、周囲は薄暗い。敷地とはいえ、このよ

うな場所に概して建物は作らないのだが、よく繁った楡の葉陰に妙

な建物があることに気がついた。

 ギヨームは最初それを納屋か何かだと考えた。厩にしては馬が繋

がれていないからだ。

 それにしても、母屋の屋敷から微妙な位置にある。なんとも不便

な距離だ。それに確かギヨームが馬車を降りた裏木戸のそばにも、

物置小屋があった。使用人が使うのだから、場所的にもそちらが納

屋だろう。

 それに、とギヨームは壁に手をかけ、塀の内側へ頭をのぞかせた。

どう見てもその建物には入り口が見当たらないのだ。窓はあるが、

やけに地面に近い位置に作られている。

 そこでギヨームは、なぜ妙だと思ったのか気づいた。その建物は

高さがかなり低いのだ。おそらく、半地下なのだろう。

 それで窓の位置の不自然さにもうなづける。

ーーいったいこれはなんだろう。

 ギヨームは石垣にぶら下がり、考えを巡らせた。

      ※

「あなたたち。注意しすぎて悪いことなどひとつもありませんから。

大切な食器です。代々ハガード家に伝わる由緒正しき品じなですか

らね。ほら、エマ。いくらきびきびおやりなさいと言ったからって、

仕舞ってある箱ごと持っていく人がありますか」

 ハガード家の執事(バトラー)のジミー・ウイリアムズが女中(メイド)たちを相手に采

配を振っていた。長身のウイリアムズが腕を組んで立っているだけ

で、威圧感がある。

 主人(あるじ)のローレンスの誕生日を三週間後に控えていて、ハガード家

の使用人たちはてんてこ舞いであった。

 特に執事のウイリアムズと女中頭のジェーンは、宴の手配もさる

ことながら、若い使用人たちを監督しなくてはならなかった。何し

ろ皆、田舎から出てきた若者が多く、逐一指示を出さなければ何を

すれば良いのかわからない。といった余計な仕事もあるからだ。

 客用の食器の類は、普段は納屋に納めてある。まずはそれらを運

び出さなければならない。早くもそこから執事は頭が痛くなった。

 効率よく、且つ丁寧に。

 それがウイリアムズの仕事に対するモットーだ。

 古参のジェーンの仕事の能率が良いのは言うまでもない。

 ところが、残りのメイドたちは、半年ほど前に相次いで入れ替わ

ってしまったのだ。

 特にハガード家に問題があったというのではなく、たまたま病人

や年齢の関係で辞めた者が重なっただけなのだが、それでも、間を

おかずに後任が決まったのだから、文句は言えまい。

 採用にじっくり吟味するいとまがなかったとはいえ、こうも使え

ない人材が揃うとは。

 ウイリアムズは、密かに溜め息をついたのだった。

「ナンシー。お皿は直接重ねてはダメだといったでしょう。傷がつ

いたらどうするのです」

「はい。ウイリアムズさん」

 叱られたナンシーは、ビクビクしながら皿を置くと、一枚を手に

持って、納屋を出ようとした。

「ちょっとお待ちなさい。お前は一枚ずつ運ぶつもりなのですか?

それではいつまでたっても終わりはしませんよ」

 今度こそナンシーは泣き出してしまいそうに顔を歪めた。実際、

目には涙が溢れている。

「こうやってクロスを間に挟めばお皿に傷もつかず、一度に運べる

数も増えます」

 ウイリアムズが手早く皿を重ねてみせた。

「はい。みんな、仕事はこれだけではありませんよ。さっさと運び

出してしまいなさい」

 パンパンと手を叩き、メイドたちを急がせる。

 メイドは八人いるのだが、皆が半人前というありさまだから、勢

いウイリアムズが動かざるを得ないのだ。

 メイドたちが作業をする間を縫うようにして、時には指示を与え

ていると、納屋の戸口にジェーンが姿を見せた。恰幅のよい彼女が

戸口に立つと、向こう側が見えなくなる。

「ジミー、ちょっといいかしら」

「なんでしょう」

「旦那様がお呼びですよ。書斎まで来るようにとの仰せです」

「そうですか」

 ウイリアムズはちらりと納屋のメイドたちを振り返った。

「ここはあたしが見てますから、早く行ってらっしゃいな」

「すみませんがよろしく頼みます」

 ローレンスの書斎へ行く途中、自分の姿を窓に映して身だしなみ

を整える。

 ウイリアムズがハガード家に雇われたのは、十五の歳だった。そ

の頃の当主はローレンスの祖父で、従僕(フットマン)として見習いを務めていた

ウイリアムズは、幼いローレンスの面倒も任されていた。その後、

執事になったが、先代であるローレンスの父親が早くに亡くなり、

若くしてそのあとを継ぐことになった彼をサポートして、もう長い

こと経つ。

 現在は隠居となった祖父は、所有する(シャトー)で暮らしている。高齢で

病の床に着いていて、もう長くはないとの医者の見立てである。

「ウイリアムズでございます」

 控えめにノックをすると、中から返事があった。ウイリアムズが

室内に入ると、書斎の机で書き物をしていたローレンスが、顔を上

げて軽くうなずいてみせた。

 ウイリアムズは扉のそばでひっそりとひかえていた。たとえ屋敷

の一切を取り仕切っているのだとしても、執事たるもの、主人の影

に徹するものだ。決して驕ってはならないと教わったことを肝に銘

じている。

「待たせたね。すまなかった」

 ローレンスは穏やかな人柄だった。使用人など人の内ではない、

と考えている上流階級の人間も多い。現にローレンスの祖父はそう

いう人だった。見習いだったウイリアムズなど、名前も覚えてはも

らえなかった。

「私にご用ということですが」

「そう。パーティーの準備は進んでいるかな?」

「万事滞りなく、進めております」

「まだ変更は可能かい?」

「はい」

「いや、大したことではないんだよ。ホールのタペストリーなんだ

が」

 ローレンスが首を傾げて言葉を切った。視線を宙に這わせる。

「もしや、あのタペストリーでしょうか?」

 ウイリアムズには心当たりがあった。

 まだローレンスが幼かった頃に、彼の母親が気に入っていたタペ

ストリーが、ホールに飾られていた。

「三賢人が描かれていました。先代の奥様が大層お気に入られてい

たご様子で」

「そう。それ。あれはどこに仕舞ったか、お前知っているかい? い

つの間にかお祖父様に片されてしまって、あれから見てないんだ。

先刻、ふっと思い出してね。まあ、私の誕生日でもあるし、久しぶ

りに飾ってみたくなったんだ」

「はい。先先代に申しつけられて私が仕舞いましたので、存知上げ

ております。さっそく出して参りましょう」

「忙しいのにすまないね、私のわがままで」

「そのようなお気遣いは無用でございます。私めは執事でございま

す。旦那様の手足となりお仕えすることが責務です。何なりとお申

しつけください」

 慇懃に頭をさげるウイリアムズを見ると、ローレンスはいつも優

しい微笑みを浮かべる。

 年齢は十も離れてはいないし、子供の頃はよく遊んでもらうこと

もあった。ローレンスにとっては兄のような存在だったが、そんな

ことを言おうものなら、物堅いウイリアムズは恐縮のし通しだろう。


 ウイリアムズがローレンスの書斎から下がって、二階の廊下を歩

いていると、階下からジェーンの声が響いてきた。

 階段の手すりから覗き見ると、ジェーンが仁王立ちになりメイド

たちへ矢継ぎ早に指示を与えていた。

 ウイリアムズは大階段を横切り、屋敷の北翼へ向かった。

 ローレンスから探すように命じられたタペストリーは、一階の納

屋とは別の、二階の収蔵庫にしまわれている。

 ローレンスの祖父は、収集家だった。

 当時はまだ貴族の権力も絶大で、財力にものを言わせては、各地

から珍品逸品を求めて屋敷に飾り、愉楽に生きていた人だった。

 二階の廊下を奥へと進む。屋敷の北側は昼でも薄暗く、家人が使

うことは滅多になかった。

 ウイリアムズはベストのポケットから鍵の束を取り出した。迷う

ことなく一つの鍵を選び出すと、扉の鍵穴に差し込んだ。

 幽かな軋み音とともに扉が開くと、舞い上がった埃が鎧戸の隙間

から差し込む陽の光にキラキラを反射した。

 ウイリアムズが軽く咳き込む。

 気を取り直すと、まずは鎧戸を半分開けた。

 収蔵している品が陽に焼けるのを防ぐ為に普段は閉ざしている。

 タペストリーをしまったのは二十年ほど前だったと記憶してい

たウイリアムズは、まず手前にあるオリビアの遺品を納めたチェス

トを脇へよけた。

 造り付けの棚の上段に、細く丸められたタペストリーが幾本か見

える。

 長身のウイリアムズが背伸びをして、どうにか手が届きそうな高

さだ。

 いつもならば、丁寧な仕事を信条としているウイリアムズなのだ

が、このときはなぜか怠け心が湧いたようで、横着をして脚立も使

わずに、手前にまだ幾つか物があるにもかかわらず、棚の上段に手

をかけた。

 爪先立ちになり、あと少しで指先が触れるかと思われた瞬間、ウ

イリアムズはバランスを崩した。

 あっと声をあげ、倒れまいと何かにすがりついたのだが、それも

ろとも床に転がった。

「……(いた)た」

 強か腰を打ち付けたウイリアムズは、なんとか起き上がった。

 床に散乱した箱や調度品を見て溜め息をつく。己の不始末ながら、

呆れるばかりだ。

 今度こそ横着をせず、ひとまず散らかった品々を片付け始めたの

だが、どうもひとつ、ウイリアムズにも見覚えのない物があった。

 彼が倒れそうになったときに、すがろうと手にした額縁だった。

 ずいぶんと時代がかった装飾の古い物だ。他にも幾つか額はあっ

たが、なぜかその額にだけ、絵が収められたままだった。

「これは?」

 ウイリアムズはその絵を窓辺に運び、もう一方の鎧戸を開いた。

 明るい陽の光のもとで確かめてみても、覚えのないまるで初めて

見る絵だった。

 肖像画(ポートレート)だった。婦人の絵だ。

 やや右を向いた、鎖骨から上を描いたもので、服装はよくわから

なかったが、おそらく十七世紀ごろのドレスのようにみえた。背景

は暗く、だが、室内であることは、うっすらと描かれた長椅子から

判断できた。

 画面左側から細く鋭い外光が、女の顔を照らしている。

 胡桃色の髪はうなじあたりで緩くまとめられていて、左の目の下

に泣き黒子がある。その目はやや細く、近ごろシティで見かけるこ

とが多くなった東洋人に似ていた。

 代々のハガード家の肖像画はもちろんある。それらはまた別の場

所に大切に保管されていて、現当主のローレンスと、すでに亡くな

ってはいるが妻のオリビアの肖像画は、大階段の壁に麗々しく飾ら

れている。

 ウイリアムズとて、この屋敷にあるものを全て承知しているわけ

でもないし、代々の当主家族の顔を知る由もない。

 ここに収められているということは、収集品である可能性が高い。

 ローレンスは、自らも絵筆を握るほど絵画に造詣が深い。手本の

ためにと入手したものかもしれない。とりあえず絵は置いておいて、

目的のタペストリーを探すことに専念した。


「それで、これがその絵なのかい? ウイリアムズ」

 ローレンスから言付かったタペストリーは、すぐに見つけること

ができた。

 ウイリアムズはそれと共に、例の絵を書斎へ運んだ。

 所望したタペストリーを見たローレンスは、大層喜び、早速ホー

ルに飾るようウイリアムズに命じた。

「私にも見覚えはないね。父は、私とは違って芸術に関心は薄かっ

た。父が殊更熱心に買い求めたとは考えられないな」

 ウイリアムズが胸元に掲げた絵を眺めて、ローレンスが首を傾げ

る。

 カンバスの大きさは十号ほどと思われる。それほど大きな作品で

はない。

「お祖父様の趣味にしては、少し……いや、ずいぶん地味な絵だね」

「左様にございます」

 ローレンスは冗談半分に言ったつもりだったのだが、ウイリアム

ズの四角四面の返答に、思わず笑みがこぼれた。

「うん。下手ではないね。素人が見よう見まねで描いたものではな

いだろう。だが、当世風ではない。今や猫も杓子も外光主義が横行

している。これは影の部分がとても濃い黒色だ。ずいぶんと時代が

ついたものだろうか」

 ウイリアムズは上から絵を覗き込んで、

「確かに、おっしゃる通り、近ごろのぼんやりとした絵画とは別物

でございます」

 真剣な表情でそう言ったウイリアムズに対して、今度こそローレ

ンスは声をあげて笑った。

「それを聞いたらマネはさぞがっかりするだろうな」

 ローレンスは、机の抽斗から拡大鏡を取り出し、絵に近づいた。

膝を付こうとしたものだから、ウイリアムズが慌てた。

「ああ、そのまま持っていなさい。そう。もう少し上にあげて」

 かがみ込んだローレンスは、絵の下あたりを熱心に見つめている。

「あの……旦那様?」

「うん。署名がどこかにないかと思ったんだが……見当たらないね」

 諦めて立ち上がったローレンスのズボンの膝を払おうと、ウイリ

アムズがチーフを取り出した。

「いいから、絵はそこに置きなさい」

 自ら膝をはたくと、壁に作り付けられた書棚に向かった。

「お祖父様が買われたものではないだろうが、どなたかからの頂き

物かもしれない。帳簿にはつけてあっただろうか」

「はい。私の前の執事の頃でしょう」

 ローレンスは棚の中を目で追っている。

「それだと、ここにはないな。父の代からのものばかりだ。また用

を言いつけて申し訳ないが、古い帳簿を出してきてくれないか」

「かしこまりました」

 ウイリアムズは恭しく頭を下げた。内心では、忙しいのに参った

な、と思いはしたが、もちろん顔には出さない。

 いつもならば、あれやこれやと用を言いつけたり所望したりする

ことのほとんどないローレンスが、珍しく頼みごとをしてくるのだ

から、よほどこの絵が気になるのだろう。

 ウイリアムズは一方で、少し嬉しくもあった。ローレンスは、い

つもどこかで自身を抑えているようだった。育ちが良く言ったりし

ているといえばそれまでなのだが、ウイリアムズには、この主人が、

いつも何かを我慢しているように思えてならなかったからだ。


 ウイリアムズが探し出してきた帳簿は、ローレンスに任せて一旦

ウイリアムズは宴会の準備へと戻った。

 ジェーンのおかげで、必要な食器類は全て納屋から運び出し終え

ていた。

「旦那様の御用は済みました?」

「とりあえずは。しかし更に問題が増えてしまいました」

「それじゃあ、ここはいいわよ」

「いえ、旦那様でないといけないことのようですので」

 さすがに、先先代がつけた帳簿をウイリアムズが調べるわけにも

いかない。

「だったら庭師のルイスのところへ行ってくださいな。さっき探し

に来たんですよ」

「わかりました」

この日のウイリアムズはまさに大忙しだった。

 奥向きの用事をこなし、ローレンスの書斎へ顔を出せたのは、陽

も傾いた晩食(ディナー)前だった。

「旦那様、お調べはつきましたでしょうか」

 ウイリアムズがローレンスの書斎へ足を運ぶと、彼は件の絵の前

に椅子を置き、眺めていた。

「あぁ。いや、だめだったよ」

 見れば、デスクの上には、帳簿や備忘録の束が山積みになってい

る。

「一体いつ誰がこの絵を屋敷に持ち込んだのか。お祖父様や父の覚

書も調べてみたが、この絵らしき記述はないのだよ。二人とも、日

記をつける習慣はなかったし、私の子供時代の日記にも、こんな絵

が屋敷に来たという出来事もなかった」

「左様でございますか。では、由来の分からぬ絵ですから、処分い

たしましょう」

 ランプの灯りのもとで見る絵は、殊の外蠱惑的であった。揺ら揺

らとゆれる炎が、まるで絵の中の女が生きているかのように、その

瞳は濡れた輝きを放っている。

 ウイリアムズの問いに、答えはない。

 魅入られたように、ローレンスはキャンバスから目を逸らさずに

いる。

「旦那様? いかがですか?」

 陽はとうに落ち、室内には急速に闇が広がっていく。もう部屋の

隅はよく見えない。ローレンスの足元に置かれたランプの周囲だけ

が、ぼんやりと明るかった。

「……旦那様」

 もう一度ウイリアムズが声をかけると、ハッとして振り向いた。

「え? あぁ、ジュームズか」

 もう何年もローレンスからはラストネーム以外で呼ばれたことの

なかったウイリアムズは、動揺した。

 主人がまだ子供のころ、他に兄弟のなかったローレンスから兄の

ように慕われていた時期があった。もちろんローレンスの家族や他

の使用人たちが居ないところでだが、ウイリアムズをジェームズと

呼び、子供らしい遊びに興じていた。

「どうかしたのか?」

 逆にローレンスから問いかけられて、ウイリアムズは想い出から

引き戻された。

「あ、いえ。夕餉(ゆうげ)のお支度が整っております」

「そう。わかったよ」

「それで、この絵ですが、私の方で処分」

「寝室がいいか、それともやはり書斎か」

 ウイリアムズを遮ったローレンスの言葉に、己の献言(けんげん)は通らぬと

悟った。

「ご婦人の肖像画を寝室にというのは、如何なものかと」

 私的な空間とはいえ、使用人たちも清掃で出入りをするのだから、

差し障りがあるだろう。

「そうだな。では書斎(ここ)に飾ろう。結局絵の出どころは不明だが、な

あウイリアムズ、なかなかいい絵だとは思わないか?」

 そう問われたがウイリアムズは、心から首肯しかねた。

 確かに絵としての出来は良いのだろう、とウイリアムズも思った。

昨今流行の筆使いではないのだが、それでも、まるで生き写したよ

うに見える。

 近ごろ世にある写真という技術は、ものの姿を余さず紙に写し取

るというが、ウイリアムズが目にした写真というものよりも、はる

かにこの絵の女は、生きているようだ。

「どうした、ウイリアムズ。この絵が気に入らないのか?」

「滅相もございません。旦那様のご意向に背くなど」

 ウイリアムズは深々と頭を下げた。

「それでは、お食事のあいだに飾らせておきましょう。位置は、こ

の壁でよろしいでしょうか」

 ウイリアムズが移動して、デスクの正面の壁を指差した。

「頼むよ」

 実に嬉しそうにローレンスは微笑んだ。


 ローレンスの誕生日の祝いは滞りなく済んだ。

 それから十日。慌ただしさは一段落したハガード邸はまた、平素

の静けさを取り戻していた。

「ジェーン、ちょうどよかった。旦那様を見なかったですか?」

 キッチンからワゴンを押して出て来たジェーンを捕まえて、ウイ

リアムズが尋ねた。

「まだ客間にお見えじゃないの? 今、午後のお茶をお持ちすると

ころなのよ」

「それが、スタンリッジ様は客間においでなのですが、旦那様が」

「あらあら、まあまあ。お客様をほったらかしで? 旦那様らしく

ありませんねぇ」

「とりあえずあなたはお客様にお茶を運んで。旦那様は私が」

 ウイリアムズには心当たりがあった。

 祝宴の前はそれほどではなかったが、日常が戻った頃から、ロー

レンスに変化が現れはじめた。

 それも、ウイリアムズが気がついたのがそのころのことだという

だけで、実際はもっと以前からだったのかもしれない。

 ローレンスが書斎に籠ることが多くなったのは。

 本人の書斎なのだから、奇異なことではないのだが、夜の見回り

などで、部屋から明かりが漏れていることが続き、良くないことと

思いつつも、密かに様子をうかがい見ると、あの絵の前で、ローレ

ンスがぼんやりとしているのだ。

 はじめのころは、ウイリアムズも声を掛けていた。気に入った絵

を愛でている、それだけの取るに足りないことであると。

 主人の健康管理もウイリアムズの務めのうちであるから、あまり

に続く夜更かしに進言した。

 だが、幾度かウイリアムズが注意をしても、ローレンスは聞き入

れなかった。うるさがったり怒ったりするというよりも、ウイリア

ムズが言うことは、右から左の様子だった。

「近ごろ旦那様の食欲が落ちたような木がするのよね。毎食ではな

いんだけど、ときどきお食事を残されるから」

 ある時、ジェーンがそうウイリアムズに耳打ちをした。

 あの絵に執着するあまりに、体調を崩してはと、ウイリアムズが

心を砕いても、ローレンスには届かなかった。


 ウイリアムズには、その絵は見れば見るほど何か忌まわしさを感

じさせた。

 今日は主人のローレンスは出かけている。大叔父のご機嫌伺いに、

シャトーへと顔を見せに行ったのだ。

 主人のいぬ間に、というわけではないが、ウイリアムズは、あの

絵の前に立っている。

 しげしげと眺めてみたが、絵の中に隠された文字や、角度を変え

て観ると別の絵が浮かび上がるといった仕掛けがあるーーなどとふ

ざけたことはあるはずもない。

 何があそこまで主人を惹きつけるのか。

 ウイリアムズは門外漢ではあるが、その素人が見ても、この絵が

画壇に衝撃を与えるほど力があるとは思えなかった。もちろん下手

ではない。それなりの画力と筆致がなければ、素人の鑑賞にすら耐

えられないであろう。

 しかし、一方でその域を超えているともまた、考えられない。

 言うなれば、平凡なのだ。平凡なのだが、どこか忌まわしい。

 ウイリアムズは、少し首の角度を変えてみる。

 不審そうに眉を寄せると、今度は一歩左へ移動した。

 次にゆっくりと、右へ移動した。顔は絵に向けたまま、視線は逸

らさずそのままだ。ウイリアムズの右肩がすぐに壁に触れた。

 彼は、びくりと身を強張らせ、後ずさった。ウイリアムズの顔に、

不安の色が広がる。

 こんなに壁際から見ているのに、女と目が合った。

「ここに居たのね、ウイリアムズ」

「はい!」

 文字通り、飛び上がらんばかりに驚いて、思わず声が裏返ってし

まった。

「……お嬢様」

 書斎の戸口にテレサが立っていた。

「ごめんなさい。驚かせるつもりではなかったの。でも、あなたが

そんなに驚くなんて、意外だわ」

 いたずらっ子のような微笑みを浮かべていた。

「お人が悪うございますな。それよりも、大旦那様のお見舞いには

行かれなかったのですか?」

「なんだか気分がすぐれなくて」

 ウイリアムズが、大変だ、と目を見張りそうになったので、テレ

サは慌てて付け足した。

「違うの、そうではないわね。気分が乗らなかったから、お父様に

わがままを言いました」

 ウイリアムズは、ホッとしたような、困ったなというような、複

雑な表情をみせた。

「左様でございましたか。しかし、大旦那様はお気を落としでしょ

う。テレサ様がお顔をみせて差し上げなかったら……」

「嫌いなのよ」

 ウイリアムズの言葉を、強くテレサが遮った。

「は?」

 その、あまりの語調にウイリアムズが怯んだ。

「いやだ。誤解しないで。私はお祖父様のこと、好きなのよ。でも、

お祖父様は、私のことあまりお好きではないみたい」

 ウイリアムズが動揺したことに慌てて、テレサはそう付け足した。

「大旦那様が、お嬢様のことをお嫌いだなど。そのようなことは断

じてありません」

 ウイリアムズは頑強に否定した。

「ありがとう。でもね、わかるのよ。嫌いというか、そう、避けら

れていると言えばいいのかしら」

 実はテレサと先先代の当主は、屋敷で共に暮らした時期がわずか

だった。

「それはお嬢様の謬解(びゅうかい)でございます。お二人はそれはお歳が離れて

おいででございますから、大旦那様におかれましては、年若い方と

の、とりわけ女性とのお話などは、戸惑われても仕方がございませ

ん」

「そうね。私の思い過ごしだとよいのだけれど」

「無論でございます」

 大真面目に頷いた。

「ところで、お父様の書斎で何をしていたの?」

「申し訳ございません」

「謝らないで。責めているのではないわ。だってウイリアムズです

もの」

 テレサは、くすりと笑ってみせた。

「ただ、あなたが何をそれほど熱心に眺めていたのか、気になった

の」

 ウイリアムズの背後を覗き込んだ。

「あの絵ね」

 彼の脇をするりと抜けて、問題の絵の前に立った。

「お父様がおっしゃっていた通り、素敵な絵ね」

 テレサが感嘆の声をあげた。

 ウイリアムズは、その審美眼の無さにつくづく呆れた。それほど

この絵は素晴らしいのだろうか。

「本当に……素敵」

 ウイリアムズが気味悪く感じる絵に、テレサも魅入られてしまっ

た。

     ※

 真冬ではないとはいえ、さすがに本気の野宿は、流浪の暮らしに

慣れたギヨームにとってもかなり辛いものがあった。

「——!」

 大きなくしゃみをたて続けに三度、

「お大事に」

 ほかに誰もいないのではしかたがない。ギヨームは自分でそう言

ってみた。

「妖精になっちまったら大変だ」

 ぶるりと身震いをした。

 近くの小川で顔を洗った。水の冷たさが身に染みる。

 今日は村を一回りしようと、ギヨームは考えていた。ついでにど

うにかして腹も満たさなければ、昨日からなにも食べていないのだ。


 村に一軒だけの飯屋兼宿屋兼酒場は、思っていたより混んでいた。

ギヨームは裏口から店主に、商売をさせてもらえるように頼み込ん

だ。

 こういう、大きな町から少し離れた村は、頑によそ者を拒むか、

物珍しいと歓迎されるかのふた通りに分かれる。

 大抵は領主の人柄によるところが大きい、とギヨームは過去の経

験から学んでいた。

 この村を治めるハガード家というのは、今の当主に代が替わって

からは、村人に対しても情け深い、慕われる家柄に変わったらしい。

 今の当主の祖父は、御多分に漏れない、圧政を敷く人物だったそ

うだが、その息子は不幸にも早世してしまい、現在の孫は似ても似

つかぬほど温和な人格者らしい、と。

「年寄り連中のなかにはな、ローレンス様はちいとばかり頼りない

というやつもおるけども、時代が違うんじゃ」

 シティへ働きに出ているという男が、酒で舌を滑らかにしていた。

「領主様じゃいうて、ふん反り返っている世の中はもう終わりだ」

「そういうものかねぇ」

 酔っ払いに絡まれて、難儀をしていたギヨームだったが、こと話

がハガード家に及んだので、我慢をして相槌を打っていた。

「お()えさんは、色ンなところ旅してるから知ってるだろうが」

「まあ、なあ。産業革命だ、とかいって外国でも機械がなんでもす

る世の中になるみたいだな」

「土地があるから(えれ)えって時代は終わるんだ。資本主義なんだよ」

「お、ダンナ。難しい言葉を知ってるね。学があるな」

 ギヨームがおだてていると、横合いから割り込んできた声が。

「なにいってんだか。どうせどこかの受け売りなんだよ。この男は

酔っ払うといつもこうなんですよ」

 前掛けをつけた大柄な女だ。この飯屋兼宿屋兼酒場を切り盛りし

ている女主人だ。

「なにお!」

 酔客は、よろよろと拳を振り上げた。

「まあまあ。おかみさん、お代わりをもう一杯」

 ギヨームは、この口の軽そうな男から、もう少しハガード家の内

情を聞き出したかった。先ほど稼いだなけなしの銀貨を、未練がま

しく女主人に渡した。

「あんた、こんな呑んだくれに酒なんか奢って、稼ぎをドブに捨て

るようなもんだよ」

俺等(おいら)がドブだとォ」

 気色ばむ男をなだめて、話の続きを促した。

「それで、今の当主の、ローレンス様っていうのは、どんな方なん

だい?」

「どうってなぁ。確かに温和で優しいお方ですだ。だからといって、

気ぃが弱いっちゅうんでもないかな」

「ほうほう」

「早くに奥方様を亡くされたというのに、後添いのお話しを、なん

としても受けなさらんのじゃ。当時は、なんやらお偉いご親戚の人

たちがやって来ては、縁談を勧めたんだそうだが」

「たしか、お嬢様がいるとか?」

 ギヨームは、なるべくさりげなく切り出した。

「おう。そうじゃ。テレサ様がまだお小さい時分だったのに。きっ

と亡くなられた奥方様が忘れられんかったんじゃ。お優しいお人じ

ゃ」

 男は鼻をすすった。

「なにをバカなことを()かしておるか、あんな女を誰が恋しがるも

のか」

 ギヨームたちの後ろの席に座っていた老人が、嗄れ声でたしなめ

てきた。

「あぁ? なんだ、じいさん。ローレンス様を悪く言うかぁ」

 男はまたよろよろと拳を上げる。

「儂は旦那様を悪くいいやせんよ。あの奥方は」

 老人は立ち上がった。

「魔女じゃ」

 ギヨームは慌てて素早く老人を座らせた。何百年も前の魔女狩りの頃と

は違うとはいえ、領主の妻を魔女呼ばわりすれば、どんなことにな

るか。

「まあまあまあまあ、おじいさん。落ち着いて。それからダンナも、

ね」

 ちょうどその時、女主人がお代わりを持ってきた。

「ほら、呑んで」

 酒を奢られて、男は機嫌を直したようだ。盃をちびちびと舐めて

いる。

 ギヨームは老人に向き直った。

「ローレンス様の奥方って人は、何かあったんで?」

「ふん。よそもんになんも話すこたぁない」

 どこの地方へ行っても、年寄りは扱いにくい。

 では、男に続きを——と思ったが、すでに酔いつぶれていた。


 ギヨームには、貴族に対する反感が強かった。どこの土地、どこ

の国へ流れていっても、彼らの尊大で高慢な態度というのは変わり

がなく、賤民(せんみん)として生きてきたギヨームには、恨み辛みが溜まって

いた。

 村人たちがいかにローレンスの人格を誉めそやしたところで、い

まひとつ信用するにいたらなかった。

 村人に対してとはいえ、やはり表向きの顔だろう。

 それになによりギヨームは、テレサの姿を一目見たいのだ。それ

が目当てで、こんなところまでやってきたのだから。

 聞けども聞けども出てくるのはローレンスのことばかりで、正直

ギヨームはうんざりしはじめていた。

 そういえば、とギヨームは思い出した。ここに着いた初日に、ぐ

るりと見て回ったとき、生垣の一部が破れていたことを思い出した。

 一見しただけでは、近くに生えている木の枝が垂れ下がっていて、

そこが破れていることに気がつきにくい。

 試みにギヨームは頭を突っ込んでみた。頭は入ったが、後が少々

苦しい。それでもガサガサと這いつくばって身をよじっていると、

なんとか庭に入り込むことができた。

 そこはちょうど厩舎の裏手だった。

 敷地の最も外れではあったが、馬がいる以上、全く人が来ない場

所とはいえない。

 不意の闖入者に、馬たちが耳を激しく動かした。

「おっと。騒がないでくれよ」

 ギヨームは、くすねてあった菜っ葉をポケットから取り出して、

馬の鼻先にちらつかせた。

 むしゃむしゃと菜っ葉を食む馬の鼻筋を撫でてやった。

 厩の中には、鹿毛の若いメスと他に三頭が大人しく休んでいた。

 空いたスペースが一ヶ所ある。寝藁が積み上がっていた。

「こいつはいい」

 ギヨームは、今夜の寝床をここに決めた。


 メイドたちが屋敷の前庭を掃いている。

 背の高い、しかつめらしい表情をしたフロックコートの男が、逐

一指示を出している。何を言っているのかよく聞こえないが、おそ

らく叱責しているのだろう。メイドたちがかしこまっているのが、

離れていても見て取れた。

 ギヨームは、早朝馬丁がやってくる前に厩を抜け出し、楡の木の

上で、屋敷の様子を見張っていた。

 きのう一日、木の上から眺めていたが、テレサの姿を見ることは

なかった。

 正確にいえば、二階の窓にそれらしき姿がぼんやりと見えただけ

だった。メイドの服ではなかったし、()の屋敷に女性は他に居ない

というのだから、おそらくテレサなのだろう。


 ギヨームは、夕暮れになると、例の酒場に出かけては、日銭を稼

いでいた。

 この村の住人は、気のいい連中が多いようで、ギヨームの旅の話

など喜んで聞いていた。

 そんな日が数日続いたが、その間にテレサが屋敷から出て来たの

は、二度ほどだった。

 年頃からいっても、社交界にデビューすると思われるのに、出か

ける様子もなければ、同年の令嬢令息が訪ねて来る様子もない。

 病弱なのだろうか。

 ギヨームはそう思ったのだが、庭へ出て花壇から花を摘んでいる

姿を見ると、それほど病弱そうには思えない。メイドたちとも楽し

気に会話をしている。

 弾ける、というのではないが、少女らしく朗笑(ろうしょう)しているその顔は、

色こそ蒼白くはあるものの、健やかそうに見えた。

「病弱でないなら、どうして」

 この国特有の、常に雲がかかりすっきりとした晴れた空ではない

にしても、昼間の太陽のもとで見るその姿は、やはり美しかった。

 一方の父親は、頻繁に外出をしたり来客もある。

「きっとあの父親が、娘を溺愛するあまり、屋敷に閉じ込めている

んだ」

 それでも、使用人に対するローレンスの物腰を見ていると、ギヨ

ームも考えを改めざるを得なかった。

「……人見知りな娘なのか……?」

 そんなある日の午後。一台の豪華な箱馬車が車寄せ(ポーチ)に横付けした。

     ※

「これはこれは。お揃いで、ようこそお越しくださいました」

 ポーチからウイリアムズの差し添え(エスコート)で、フレデリックとその妻ジ

ョセフィンがホールに到着すると、ローレンスが出迎えた。

「ウォリック御夫妻の御目見得でございます」

 ウイリアムズが慇懃にお辞儀をすると、静かにホールから姿を消

した。

「まあ、ラリー。お久しぶりねえ。お元気だったの? 宅へはちっ

ともお見限りなのだから、ほんとうにこの子は」

 ローレンスは、ラリーという呼び方と「この子」という言葉に、

ちょっと苦笑いをしてみせたものの、伯母の手を取って挨拶の接吻

をした。

「ジョー伯母様もお元気そうでなによりです。相変わらずお綺麗で

すね」

「いやだわ、この子ったら。お世辞が上手くなって」

 ローレンスの父親の一歳違いの姉であるジョセフィンは、フレデ

リックの生家であるウォリック家へ嫁いだ身ではあるが、何かとハ

ガード家の内情に口を挟んでくる。彼女の弟が、若いローレンスを

残し早くに亡くなってしまったため、親代わりを務めていたことも

あるからだ。

「さあ、どうぞ。お疲れになったでしょう。今お茶の支度をさせま

すから」

 ローレンスがウォリック夫妻をサロンへ案内すると、ウイリアム

ズとメイドが軽食とお茶の準備をしていた。

「あら、ジェーン。お久しぶりね」

「はい。奥様もお変わりなく」

 ワゴンを運んで来たジェーンが深々とお辞儀をした。

「ジェーン、テレサはまだ支度が済んでいないのかい?」

 サロンで迎えるようにと言い付けておいたローレンスが、怪訝そ

うに聞いた。

「いいえ。お支度はお済みでございます。お嬢様のお部屋を出たと

ころで、先に行くようにおっしゃられましたので、私はこちらの準

備をしに参りました」

 ジェーンは、大きな身体を縮こまらせた。

「忘れ物かい?」

「さあ。私が一階(した)へ降りるまで、お嬢様はその場においでになられ

ましたので……」

 ジェーンの言葉に、ウイリアムズの眉がピクリと動いた。

「旦那様」

 音もなくローレンスの背後に忍び寄った。

「私がお捜しして参ります」

 ローレンスは軽く頷いて、

「さ、伯母様。こちらへどうぞ。義伯父(おじ)様も」

 一同が席に着くのを見計らって、ウイリアムズはサロンを出た。

 そのまま二階の書斎へと階段を昇った。


「それにしても義伯父様が本邸(こちら)にお越しとは珍しい」

「まあ、ね。今日は妻のお供だよ。さしずめ私は従者さ」

「あなた! つまらないことをおっしゃらないで下さいな。おなた

だって無関係なお話じゃございませんのよ」

 嫁に行ったとはいえ、歳が上の姉さん女房だけあって、フレデリ

ックは尻に敷かれている。

「分かっているさ」

 ジョセフィンにとっては、ここは実家なのだから、ついついお里

が出るのも仕方のないことか。

「いったいどういうことですか? 何だか怖いですね」

 ローレンスは、優雅にティーカップを口元へ運んだ。

「あら。なにも怖いことなんてないのよ。むしろ、喜ばしいことで

すわ」

 ジョセフィンは、ウキウキとした表情で、ローレンスと夫の顔を

見比べた。

 一方、フレデリックは、なぜか浮かぬ顔だ。

「なんです、義伯父様もご承知なのですか。お揃いで私を担ごうと

なさるなんて」

「そうではありませんよ、ラリー。言ったでしょう、お目出度いこ

となのですから」

 二人は気づかなかったが、ローレンスの左頬が、ほんの僅かに引

き攣ったように動いた。

「私の縁談でしたら再三お断りを……」

 ローレンスが言いかけた横からジョセフィンが畳み掛ける。

「それもありますけど、今日はね、テレサのお相手の話もあるのよ」

 ローレンスが大きく息を飲んだ。

 その様子に、フレデリックは驚きを隠せなかった。付き合いはそ

こそ長いが、この男が驚いたり動揺する姿を見るのは初めてだった

からだ。

「なんですよ、そんなに驚いて。当たり前でしょう。テレサももう

年頃ですよ。子供のころに許嫁を決めておかなかったのですから、

むしろ遅いくらいだわ。ほんとうに、男親だけで育てていると、こ

ういうことに気が回らなくて困りますよ」

 ローレンスは一瞬、鋭い視線をフレデリックに走らせた。受けた

フレデリックは、済まなそうに俯いた。

「もちろん、あなたの再婚話もありましてよ。だって、娘の婚約に

両親が揃っていないなんて、ハガード家の恥ですわ」

「しかし、伯母様」

「そうやって、いつものらりくらりとかわすのだから。あなたも、

押しが弱いのがいけないのですよ」

 矛先が自分に向くと、フレデリックは慌てた。

「いや、そういうわけでは。こういうことは無理強いするのはどう

かと」

 再婚に乗り気ではないローレンスの心情を知っているフレデリッ

クは、妻との間で常に板挟みなのだ。

「ほんとうにこの人ったら」

 気の毒なフレデリックに曖昧な笑みを向けたローレンスに、

「あなたも! 贅沢を言える身ではございませんのよ。フレッドが

強く言わないのをいいことに、のらりくらりと」

「伯母様、のらりくらりとはあんまりですよ。私はただ、亡くなっ

た妻が不憫で」

「オリビアの里では、一向に気にかけていなくてよ。だからあなた

も早くお決めなさい」

 ことごとく先手を打たれてしまうローレンスは、これ以上断る理

由も見つからなかった。本腰を入れたジョセフィンは、どうやら八

方手を回しているらしい。

「フレッドの長兄の娘さんなの。私たちの姪にあたるわ。一度片付

いたのだけれど、向こうの家と色々あってね。でも、彼女が悪いの

ではなくてよ。ねえ、あなた」

「ああ、まあな」

「ラリー、あなたも再婚なわけですし、贅沢は言えませんものねぇ」

 ローレンスは諦めたように黙って聞いていた。

「それでね、テレサのお相手ですけど」

 ジョセフィンが夫の脇腹を肘でつついた。

「あ、ああ。実はな、ラリー。うちの末息子をテレサにどうかな、

と考えているんだ」

 再び、ローレンスは目を見開いた。

「アルバート君を?」

「ええ、そうよ。歳もちょうど釣り合うわ。うちは男ばかりが三人

も居るでしょう。なんだったら、婿に出してもいいと思っているの」

「ですが、それでは」

「まあ、ウォリック家の方でも、それは承知しているんだ」

 フレデリックは申し訳なさそうに言った。

「……私には、相談も無くですか。勝手に話を進めるなんて」

 ローレンスの顔色が青ざめてゆく。

     ※

 使用人たちのうわさ話によると、あの豪華な箱馬車は、ハガード

家の親類のものらしかった。

 なんでも、主人の伯母にあたる人だとかで、まるで正反対な、陽

気な御婦人らしい。そういえば、馬車から降りてくるなり、執事の

男に話しかけ通しだったな、とギヨームは思い出した。

 遠くへ、カケスが塒に帰ってゆく姿が見える。

 夕暮れが近づいているのだろう。空の端が薄く染まり始めた。

 酒場へ行こうとギヨームが生垣の破れ目から、ごそごそと這い出

ようとしていると、厩のほうから声が聞こえてきた。

「それで、旦那様のお相手っていうのはウォリック様のところの人

だって」

 男の声は、馬丁のものだ。

「そう。ウォリック様のお兄様の末の娘さんよ。旦那様の義理の従

姉妹ね。血は繋がっていないけど」

 女の声は、メイドの誰かだろう。ギヨームには聞き覚えがなかっ

た。

「ふうん」

 馬丁は、いまひとつ関係性が分かっていないようだ。

「いまさら嫁さんもらってもなあ」

「そりゃあ、あたしたちみたいな身分の人間は、あの歳で再婚なん

て無理だろうけどね。貴族様は対面があるでしょう」

「そういうもんか。オレにはよくわからん」

 会話に馬の鼻息が混じっている。馬丁がブラシをかけているとこ

ろへ、メイドが油を売りにきたのだろう。どうやらメイドは馬丁に

気があるようで、しきりと秋波を送っている様子なのだが、馬丁は

鈍いのか、それに気づく気配はない。

「ま、一度もおかみさんを持ったことのないアンタにゃわかんない

わよ」

 なにやら実の無い(じゃ)れあい話しになりそうな雰囲気を感じたギ

ヨームが、そっと腰を上げようとした。

「でもさ、娘の結婚式に母親がいないのは格好がつかないのよ。た

とえそれが継母(ままはは)でも居ないよりはマシってことね」

 メイドの一言で、ギヨームはその場に固まった。

「お嬢様も結婚だなんてなあ。歳も離れているだろう。なんだか気

の毒だなあ、お嬢様」

「歳が離れているっていったって、五つか六つでしょうに。ただ、

イトコオジっていうのが気になるところよね」

「イトコオジ?」

「そう従祖父。ジョセフィン様の末の息子さんだもの」

 馬丁はしばらく考え込んで、

「おじいさんのお姉さんの子供?」

「正解。それほど濃くはないけど、血の繋がりがないわけでもない

し。何よりオリビア様のご両親がいとこ同士でしょう。位の高い人

たちっていうのは、そういうこと気にならないのかしらね」

 おしゃべりメイドの舌は、ますます滑らかになっていくようだ。

——あの()が、結婚。

     ※

 低い窓から灯りが漏れている。

 オレンジの淡い光りが、夜露に濡れた芝を照らしていた。

 今夜は新月。月のない闇夜だ。

 敷地の本邸も、使用人たちの寝起きする別棟も、すでに明かりは

消えて寝静まっていた。

 その影が、高く聳える屋敷の影は禍々しくそそり立ち、足元に踞

る小さな小屋を、今にものみ込もうとする怪物のようだ。

 灯りが、ゆらゆらと揺れているのは、その光源がロウソクだから

だ。不規則に揺れる炎に照らされた人影が、伸び縮みをしている。

 四方の壁は石積みのその小屋は、春の深更(しんこう)では暖がなければ震え

るほどに寒かった。

 なのに暖炉(ストーブ)の無いこの部屋で、男の背にはうっすらと汗が浮いて

いる。

 男の荒い息遣いを、冷たい石壁がはね返す。

「——ああ」

 堪えるように噛みしめていた歯の間から、男の長吁(ちょうく)が漏れる。気

脈が通じたものか、男に組敷かれた白く細い腕が、男の首筋に巻

きついた。

 枕の上に広がる金色の長い髪が、男の激しくなる節奏(リズム)に合わせて

波打った。

「——あぁ、美しい。とても美しいよ、テレサ」

 忘我の境にある男の頭を掻き抱き、首を擡げたテレサと、壁に掛

けられた絵の中の女と目が合った。

「——とても良くてよ、お父様」

     ※

 主人が留守であることは承知だが、ウイリアムズは律儀に扉をノッ

クした。

 一呼吸おいてから鍵を開け、扉を開いた。出がけの馬車に乗り込

む直前に、ローレンスから用を言いつかった。出し忘れた手紙を投

函するように指示を受けたのだ。

 書斎に足を踏み入れるのは、先日主人の不在にもかかわらず、壁

の絵を眺めていたところをテレサに目撃されて以来だった。

 咎められたわけではなかったが。

 ウイリアムズの執事としての信条が、強く後悔をさせたからだ。

 頼まれた封筒は、デスクの上にまとめられていた。それを手に取

り、踵を返して扉に手をかけたとき、ウイリアムズは、違和感に気

づいた。

 壁のあの絵が消えている。

——いつだ。

 今朝は、書斎の扉から中に入らなかったので、壁にあったかどう

か分からない。だが、ローレンスは、絵について一言も触れなかっ

た。

——では、そのあとに? 誰が?

 いや、鍵はウイリアムズが肌身離さず持っている。

 勝手には入れない。よしんばそうであったとしても、絵が消えて

いれば、ローレンスが自分に尋ねないなどということが、あるだろ

うか。

——ならば、旦那様がご自身で……。


——まただ。

 この部屋には、二人だけのはずなのに、なぜかローレンスは背後

に視線を感じた。

 この小屋の壁に鏡はない。だからそれが彼の姿であるはずがない

のだ。

 後ろめたさや疚しさで、幻を感じてしまうとは考えたくない。そ

れほどならば、止してしまえばいい。

 いや、止すべきなのだ。と、ローレンスは思う。

——こんな、こんな……。

 この部屋にいるもう一人は、今、彼の目の前の椅子に腰をおろし、

跪くローレンスを見下ろしている。

                       了


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