幽かな不安
その頃私は初めての子供を妊娠中でした。
ある夜、夢を見ました。
黄昏の土手沿いの畦道を白髪のお爺さんらしき老人と野球帽を被った少年らしき小さな子供が歩いていました。二人は楽しげに手を繋いで歩いています。
後ろから二人の背中が少しずつ小さくなって行くのを、まるで映画のワンシーンの様に、何故か泣きながらぼんやりと見つめていました。
ふと、直感ですが、あの子供は私の子供なのではないか?誘拐されつつあるのではないか?
そう思いました。
一度抱いた疑念は風船の様にグングン膨らんでいきます。私の子供が遠ざかって行く。誰かに連れられて私のもとから去ってしまう。
あの老人はきっと人さらいだ。悪い人なんだ。早く助けなければ。
何か叫ぼうという強い衝動に駈られました。
しかし、出ないのです、声が。歩み寄ろうと思いました。けれども動かないのです。体が、足が。
あくまでスクリーンの向こうの出来事を黙って見ている様なもどかしさの中で、私の心中は焦燥感で満たされてゆきました。コップの中に水が満たされてゆくのを見つめている様に。
二人の背中は小さくなってゆきます。
ちょっと待って、こっちを向いて。行かないで。
言葉がここまで出て来るのに形になりません。
身悶えしている私に、ふっと野球帽の子供が振り返ってくれました。目を凝らして顔を見ると、その子の顔はぼんやりとけれども確かに微笑んでいました。良かった…。これで大丈夫。何故なのでしょうか、私は安堵で胸が一杯になっていました。
目が覚めて、涙が頬を伝っているのに気付きました。お腹の中で命が動いているのが判り、また涙が溢れてきました。
あれから数年が経ちました。怖い夢の事などすっかり忘れて、夫と私と産まれた子供と、三人の忙しくも幸せな暮らしの中でその日々を暖かく過ごしていました。
今日も子供は野球帽を被り、土手沿いのグラウンドに走って行きました。野球帽。
私はほんのりとした不安に、窓の外を眺めていました。台所からコトコトと煮物の煮える音が聞こえてきます。柔らかな風が窓をかたかた揺らして行きます。
間も無く黄昏が訪れようとしています。
私はふと、本当に唐突に、あの夢を思いだしました。
急に鳥肌の立つような寒気を感じて、訳もなく立ち上がり、立ちすくんだままいつまでも玄関を見つめていました。
背後で風がまた窓を軽く叩いています。