練習×けんか
☆
リオンはとんがり帽子の魔女になって、箒に乗って飛んでいた。ああ、これは夢だ。そう思いながら、髪を風になびかせる。びゅうびゅうと風が鳴る音が、耳に響いていた。しばらくいくと、高い塔が見えてくる。
箒に乗ったまま、塔のなかを覗き込む。しかし、汚れがひどくて何も見えなかった。窓に張り付いた蜘蛛の巣を手で避けたら、中が見えた。
──あ。
ベッドに、誰かが寝ている。だが、薔薇の棘で覆われていてよく見えなかった。棘は、どんどん寝ている人物を覆っていく。あのままじゃ、きっと死んでしまう。リオンは体に反動をつけ、せーのっ、と言って窓をぶち破った。
ぐはっ、という声が聞こえて、リオンはハッと目を開いた。身動きが取れないことに気づいて、目を瞬く。
──あれ? 薔薇の、匂い……。さらさらした黒髪が、目の前にある。
ダンテに抱きしめられていることに気づいて、一気に身体が熱くなった。ダンテは咳き込みながら、乱れた前髪の向こうからこちらを睨む。
「なにするんだよ」
どうやらリオンは、寝ぼけてダンテの腹に肘打ちを食らわせたらしい。
「ご、ごめんなさい」
「おまえ寝相悪いんだな」
そう言いつつ、ダンテはリオンを抱きしめたままだ。
「あの、離して」
「じゃあ、そっちからキスして」
「え!?」
「早く」
じりじり顔を近づけてきたダンテを阻もうとしたら、また肘打ちをしてしまった。彼は再び咳き込んで、リオンを解放する。リオンは、オロオロしながら言う。
「ごめん、ごめんなさい」
「謝りつつキョーボーだな」
ダンテはぶつぶつ言いながら立ち上がり、洗面所に向かった。リオンは彼を見送り、胸に手を当てて、すーはーすーはー深呼吸をする。朝から心臓に悪い……。にしても、変な夢だったなあ。リオンが夢の反芻をしていたら、歯ブラシをくわえたダンテがひょい、と顔を出した。
「なあ、歯磨き粉切れてる」
「あ、うん」
リオンは慌てて立ち上がり、洗面所に向かった。
「ここに……あれ、ない」
洗面台の前にしゃがみこみ、ゴソゴソと戸棚の中を探る。
「ちゃんと補充しとけよ、綿毛」
「なっ」
相変わらず偉そうなんだから。リオンは台所に向かって、小皿に塩を盛って戻ってくる。ダンテにずい、と皿を突きつけ、
「あのね、塩をつければ歯磨き粉のかわりになるから!」
「ほんとか」
「ほんとよ。昔からの知恵なんだから」
「ばばくさいな」
「なっ」
彼はしぶしぶ塩をつけて歯を磨き始めた。リオンはむかむかしつつ、台所へと向かった。
☆
今日は魔術院が休みなので、ゆっくり朝食を食べられる。この間のリベンジをすべく、リオンがパンケーキを焼いていたら、ダンテがそばにやってきた。
「口ん中がしょっぱい」
「これでも食べる?」
リオンは、ダンテにブルーベリーを差し出した。台所の窓辺にある、プランターで育てているものだ。ダンテはブルーベリーを一口食べ、
「……ん、うまいな。もう一口」
あ、と口を開いた。仕方なくもうひとつ差し出したら、指ごと食まれた。
「っひゃ」
ダンテが食んだ指に舌を這わすものだから、リオンは真っ赤になって、ばっ、と指を引いた。
「じ、じじ自分で食べてよ。私、忙しいんだから!」
「ホットケーキ、早くしろよ」
ダンテはブルーベリーの入った器を抱え、さっさとリビングへ向かう。リオンは自身の指を見つめ、
「……もうっ、命令しないでよ」
ぎゅっと握りしめた。
★
ホットケーキの上に、生クリーム、ブルーベリー、ラズベリーがトッピングされている。おまけにココアパウダーときたら、わがまま王子ダンテも無言で完食せざるを得ない。
食後のコーヒーを飲みながら、ダンテはのんびりと言う。
「やればできるんだな、綿毛」
「当たり前だよ。こないだのは、ダンテが悪いんだから」
「何が悪いんだよ」
「だから……っ」
リオンがコップを持ってもじもじしていたら、
「なんだ、手洗いなら行ってこい」
「違うよ!」
くすくす笑うダンテを、リオンは恨めしげに見た。
「お皿、もういいよね。下げるから」
リオンはお皿をまとめて台所へ向かった。せっかくの休みだから、実技訓練でもしようかな……。手のひらをかざし、足もとに花を咲かせる。蔓を伸ばして、皿を支えようとしたが、蔓が短いので、中々難しい。
奮闘していたら、ダンテが声をかけてきた。
「飯食ったら、公園に行こう」
「え……どうして?」
「実技の練習だ」
リオンはぱっ、と顔を明るくする。
「付き合ってくれるの?」
「おまえに落第になられたら困るからな」
「ありがとう!」
ダンテはふっ、と笑い、
「皿、落ちるぞ」
リオンは慌てて皿を持ち直した。ダンテは、リオンが洗った皿を受け取り、拭いている。
蔓を使って、難なく棚に収めていた。リオンのみみっちい蔓とは全然違う。いいなあ。
二人でお皿を洗ってるって、なんだか新婚みたいだな……。顔を赤らめてそんなことを考えていたら、ダンテが覗き込んできた。
「顔が赤いな。やらしいことでも考えてるのか?」
「は!? か、考えてないよ」
リオンは慌てて皿をすすぎ、エプロンで手を拭いた。
★
家を出た二人は、市内を循環しているトラムに載り、アップルアベニューの近くにある公園へと向かった。リオンは、ちらりとダンテを見た。彼は足を組んで、トラムの窓から吹き込む風を受けている。リオンは、ダンテの横顔をぼうっと見つめた。ふ、と紅い瞳がこちらを向いた。
「なんだよ」
「あ……あの、どうやったら、蔓を長く伸ばせるのかな」
「さあな」
「さあな、って」
「気合いだろ。おまえはいつも縮こまってるからな」
そんな抽象的なことなのか。
「ねえ、ダンテの手、見ていい?」
「ああ……」
リオンは、差し出された手をしげしげと見た。リオンより大きくてしなやかな手。長い指。この手に何か秘密があるのではないか──。長い指を撫でて、ふにふにとつまんでいたら、ダンテがバッ、と手を退けた。
「……変な触り方するな」
かすかにダンテの顔が赤い気がして、リオンはキョトンとした。
「え?」
「ヘンタイ」
言いがかりをつけられ、リオンはギョッとした。
「へ、ヘンタイじゃないよ!」
「降りるぞ」
「あ、待って」
トラムからさっさと降りたダンテに、リオンは慌ててついていく。二人が降りると、かたんかたん、とトラムが去っていった。
公園には花魔法師が常駐していて、咲いている植物の管理をしている。休みの日だけあって、園内は人で溢れていた。
「すごくたくさん人がいるね」
「休みだからな……暇人ばっかりだ」
「またそういうひねくれたこと言って」
ダンテとリオンは、人の少ない大きな木の下へと向かう。
「じゃあ、いくね」
リオンはダンテと向かい合い、息を吸い込んだ。ガチガチのリオンに対し、ダンテは楽な姿勢で立っている。
──大丈夫、集中して。手のひらに魔力を集めた。足元に、たんぽぽの花がふわっと開く。ダンテは蔓を伸ばして、その花を一瞬で散らした。
「ああっ」
リオンは思わず悲鳴をあげる。ふわふわ舞う綿毛をつまみ、ダンテが言う。
「力が分散してるな。もっと集中しろ」
「し、てるけど」
「ほんとか? じゃあ目を閉じて、なんにも考えずに力を使ってみろよ」
なんにも、考えずに? リオンは目を閉じて、手のひらに力を込めた。ふっ、と夢の映像が蘇る。薔薇の棘に覆われたあの人は、誰だったのだろう?
「なあ」
声をかけられて目を開いたら、ダンテがこちらを見下ろしていた。至近距離に立っていた彼に、驚きの声をあげる。
「わあ」
「草しか生えてない」
彼が指さした先には、確かにたんぽぽ特有の、ギザギザの葉が生えていた。ダンテが胡乱な目でリオンを見やる。
「雑念が多いんだろ。やっぱりなんかやらしいことでも考えてたんじゃないのか」
「なっ、考えてない!」
「なにムキになってる。怪しいな」
リオンはむっ、と眉をしかめ、ダンテに背を向けた。
「……ちょっと顔を洗ってくる!」
足早に歩いていくリオンの背後で、ダンテが笑う気配がした。──ほんと、意地悪なんだから。
☆
リオンはバラ園のそばにある水飲み場で、顔を洗っていた。
「ふいー」
息を吐きながらハンカチで顔を拭いていたら、くす、と笑い声が聞こえた。視線を向けたら、バラ園のベンチに、女の子が座っていた。
──うわあ、綺麗な子。リオンは思わずその子に見惚れた。さらさらと流れるストレートの黒髪。長いまつげに縁取られた瞳は、闇のように黒い。
人形のように白い肌。黒髪によく映える、赤いリボンをつけていた。女の子はくすくす笑いながら、
「ごめんなさい。なんだかおじさんみたいな声がすると思ったら、可愛い女の子だったからびっくりしたわ」
聞かれていたのか。とっさにでる息がおじさんとは。リオンは恥ずかしさで目を泳がせ、彼女が持っている絵本に視線をやった。「ばらものがたり」というタイトルが書かれている。
「あ、その絵本……」
「ああ……知ってるの?」
「はい、ちょっとだけ読んだことがあって」
「じゃあ、最後まで読んだほうがいいわ」
女の子はそう言って、リオンに絵本を手渡した。
「はい。貸してあげる」
「えっ?」
「じゃあ、またね」
「待って」
声をかけようとしたら、ざあっ、と風が吹いて、薔薇の花びらが散った。リオンはとっさに、腕で風を防ぐ。
やっと風がおさまったころ、リオンはそろそろと瞳を開いた。あたりを見渡し、首を傾げる。
「あれ……」
いつの間にか、女の子がいなくなっていた。あとには薔薇の花びらがくるくる回っているだけだ。もしかして、あの子は薔薇の花魔術師──? リオンは手元の絵本を見下ろして、首を傾げた。
☆
絵本を携えてダンテのところへ戻ると、彼は木にもたれて寝息をたてていた。前髪が垂れ、長いまつげにひっかかっている。リオンは彼を起こさないように、そっと隣に腰を下ろした。絵本をパラパラめくり、以前読んだ部分まできたら、ページを止める。
【たんぽぽの魔女のおかげで、薔薇の王子様はすっかりよくなりました。そんなある日、薔薇の王子様のところに、綺麗な薔薇のお姫様がやってきました。
王子様は、綺麗なお姫様に夢中になりました。たんぽぽの魔女は、王子様にちりょうを受けるように言いましたが、王子様はききませんでした。それどころか、たんぽぽの魔女がじゃまになった王子様は、彼女を城から追い出しました】
そこまで読んで、リオンはどきりとした。なんだか、自分が同じ目にあったように感じたのだ。頭を振り、その感覚をふりはらう。これは、物語だ。現実とは関係ない。
【王子様は、薔薇のお姫様と仲良く暮らしました。綺麗なお姫様と一緒にいられて、王子様は幸せでした。しかし、なぜだか胸がちくちくするような気がします
たんぽぽの綿毛が舞うころになると、そのちくちくはひどくなるのでした。きっと呪いのせいだ。王子様はそう思い、お医者さんにみてもらいました。けれどお医者さんは、呪いはもう解けた、と言うのです。
どうして呪いは解けたのに、胸がちくちくするのでしょう? 王子様にはわかりませんでした。ただ、もう一度綿毛のふわふわに包まれたいと、ちくちくする胸で思うのでした】
リオンは、身動きができずに、最後のページを見つめていた。王子様が、窓の外、綿毛が舞う様子を眺める絵が描かれている。薔薇の王子様は薔薇のお姫様と結ばれる。これは、こういう話なのだ。ただの、物語。なのになぜか、胸が苦しくなった。
「……リオン?」
その声に、リオンは慌てて絵本を閉じた。ダンテが寝ぼけ眼をこすりながらこちらをみている。
「戻ってきたなら声をかけろよ」
「ご、ごめん。ダンテ、寝てたから……」
彼はくあ、とあくびをし、リオンが手にしている絵本を見た。
「それ……」
「あ、借りたの、女の子に」
「女の子?」
「うん、バラ園にいた女の子。すごく綺麗な子だった」
「知らない人間にそんなもん借りて、どうすんだよ」
「多分、花魔術院の生徒じゃないかな。薔薇の花魔術を使ってたし」
「ふうん」
ダンテは髪をかきあげ、で、なんでそんなショボくれた顔してるんだ? と尋ねてきた。
「ハッピーエンドじゃないんだ、って思って……」
「どこが。十分ハッピーエンドだろ。呪いは解けたんだ」
「でも、王子様の胸は痛いままなんだよ」
「自業自得だろ。自己中王子様にはぴったりの結末だ」
自己中王子様……リオンはちら、とダンテを見た。彼が眉をあげる。
「なんだよ。自己中はおまえだろ、とでも言いたいのか」
自覚があったのか。
「そんなこと言ってないじゃない」
「生意気だぞ、綿毛のくせに」
ダンテはリオンの髪をくしゃくしゃかき回した。
「や、ちょ」
リオンはやめて、と言いながら頭をかばった。じゃれあっているうちにバランスが崩れ、ばさり、と絵本が手から落ちる。リオンとダンテは、二人して地面に倒れ込んだ。
ダンテの紅い瞳が、じっとこちらを見下ろしている。その目に見つめられると、胸がどきどきして、息がうまくできなくなっていく。
大きな手が、リオンの髪に伸びる。またくしゃくしゃにされる。そう思ったリオンが頭をかばうと、紅い瞳がふ、と緩んだ。長い指先が、リオンの髪を梳く。彼の黒髪が垂れ、リオンの額を擦った。間近に迫った美しい瞳に、心臓が大きく跳ねる。
「キスしていい?」
囁くような声には、確かに熱が含まれていた。
「外だから、だめ」
「誰も見てない」
吐息が触れ合って、柔らかく唇が重なる。苦しくなるくらいの、薔薇の匂い。髪からも、肌からも、唇からも、その匂いが、リオンにまで移ってしまいそうだった。
もし、呪いがとけたら、ダンテはリオンにキスしようなんて思わないだろう。だって彼には、薔薇のお姫様がふさわしいんだから。
リオンは傍に落ちている絵本を意識しながら、瞳を揺らした。彼の肩を押すと、紅い瞳がまたたく。
「リオン?」
「帰ろう」
絵本を拾い上げたリオンが足早に歩き出すと、ダンテがすぐに追いついてきた。
「練習しなくていいのか」
「したって、できないよ」
「根性ないな、おまえ」
ため息まじりに聞こえた声に、胸が痛んだ。
「ダンテには……わからないよ」
そうだ、ダンテにはわからない。呪われていても、彼には誰にも持ち得ない力があるのだ。百花最弱のたんぽぽの気持ちなんか、ダンテにわかるわけがないのだ。
トラムの中でした会話。あれはダンテの意地悪ではない。彼は本当にわからないのだ。できない人間の気持ちが。
「いいよね、ダンテは。紅薔薇だもん。なんの努力もしなくたって、力があるんだから」
そう言ってから、リオンはハッと口元を覆った。振り向いたら、ダンテがじっとこちらを見ている。紅い瞳は、いつもより冷たく見えた。
「あ、の、ダンテ」
ダンテは黙ったままリオンを追い抜き、さっさと歩いていく。リオンは俯いて、靴の先にくっついた綿毛を見つめた。
──この綿毛、私みたいだ。どこにもいけないで、立ち止まってるんだ……。
☆
リオンとダンテは、無言のまま帰途についた。ダンテは黙ったまま、ソファに寝転がる。リオンは、気まずい思いをしながら尋ねた。
「あの、ダンテ、夕飯なにがいい?」
そう尋ねたら、ダンテはこちらを見もせずに、
「べつになんでも」
「あ、そ、う?」
リオンは目を伏せて、エプロンをつけた。──あんなこと、言わなきゃ良かった。せっかく、ダンテが練習に付き合ってくれたのに。
玉ねぎを切っていたら、目がつーんとして、涙が勝手に出てきた。どうしていっつも、うまくできないんだろう。きっと、ダンテにあきれられた。できないからダメなんじゃない、できないって諦めてるから、みんな呆れてしまうんだ……。
夕食時、リオンとダンテは一言も口をきかなかった。ダンテは夕食を食べ終えると、浴室へ向かう。いっつも、食べた後はリビングで話したりするのに。リオンは、彼が風呂に入っている間、皿を洗う。──あ、歯磨き粉、買ってこないと。渡す時に、今日のことを謝ろう。
どうでもいい、と返事するダンテを想像したら、なぜだか、涙が滲んできた。
「リオン」
「へっ」
慌てて目をこすり、笑みを浮かべて振り向いた。濡れ髪のダンテが立っている。だめだ、さっきのが原因で泣いてると思われる。なに? と尋ねたら、ダンテはじっとこちらをみて言う。
「俺は……すこしだけ、おまえが羨ましい」
「え……」
「誰も傷つけることない、おまえの能力が羨ましい。ふわふわした綿毛を見てると、和むし」
「いつも、意地悪言うのに」
「意地悪? 俺は事実しか言ってない」
こういうところはまるで変わらない……。自覚なく、リオンに嫌味を言っていたのだ。
「私だって、ダンテが羨ましい。百花最強、綺麗な薔薇の、王子様だもん」
「王子様ってなんなんだよ。俺の父親は王じゃない」
「ワガママ王子様。ぴったりでしょ?」
「綿毛のくせに生意気な」
リオンはくすくす笑いながら、皿を拭いた。──お互いの気持ちが目に見えるわけじゃない。ダンテと私は違いすぎるから。だけど、分かり合えないわけじゃない。鼻歌交じりなリオンの耳元に、ダンテが囁いた。
「おまえも綺麗だよ」
「!」
真っ赤になって固まったリオンをみて、ダンテがくすくす笑う。
「ほら、薔薇みたいな赤だ」
「……もうっ」
ワガママ王子さまは、時々妙に甘いから困ってしまう。