02-2
「だから私、あの時あそこに居たんだ」
来栖が言う。
「〈あの時〉〈あそこに〉ね」
――あの時、あそこに……!
「お姉ちゃんが髪を止めていたヘアピンの一本が、楽屋で脱いだパーカーに引っかかっていて、それを届けに行ったの。お姉ちゃん達の出番、アスミ達の後だったんだよ。二番くらい後、だったかな」
「で? だから?」
だから何だと言うのだ。同情でもしてくれるのか。
「私、見たの」
ぞくん、と背中に悪寒が走る。
「他の誰も気付かなかったけれど、まるで蛇みたいに鎌首を持ち上げたあのロープを」
息が詰まって言葉が出ない。
もう何年も疑問に思い、解けなかった〈答え〉だ。
答えなんて永遠に分からないと思っていたのに。
「誰も触っていないのに〈あれ〉は突然現れ、勝手に動いた」
「……んなわけ、あるか」
アスミは顔を反らした。
あんなに欲していた〈答え〉を、来栖が差し出している。
なのにどうして自分はそれを否定しようとしているのだろう。
分かっている。それが事実なら、これまでの自分が可哀想になってしまうから。
みんなに誤解され、拒絶された自分が。
いや。元々、受け入れられてはいなかったし、踊りなんてやめようと思っていた。
それは真実で、変わりはない。
でも、踊る事自体が嫌いだったわけじゃない。
自分を取り囲む状況、特に両親の事がイヤで。
イヤでイヤでたまらなくて。
醜く変貌してゆく親を見続けるのに、自分の精神は弱過ぎた。
だから全てを投げ出すしかなかった。
あの日の負傷は、逃げ出すいいきっかけになっただけだ。
でも、その負傷した原因だけは、納得出来なくて。理解出来なくて。
自分の気のせいかも、と思っていた。
だって普通に考えればあんな事、あるわけないから。
でもこの新しいクラスメートは、アスミの、あの日の記憶を肯定した。
受け入れていいのか? 異常な事なのに。
「私、身体が弱いって言ったでしょ」
彼女に背中を向けたまま「あ? うん」と頷く。
「見える、から」
「え?」
「だから、影響を受けてしまうんだぁ。〈あんな世界〉を覗き見していたら、無事ではいられない。好きで見てるわけじゃないのにね」
どう言う意味だ? 彼女は、何を言っているのだ?
アスミは体勢を変え、彼女の方を見た。
風を受け、髪がフェイスラインで揺れている。
木漏れ日が、その髪でキラキラと跳ねていた。
「やっとこっちを見てくれたね。初めまして。来栖冴季です」
右腕が差し出され、握手を求められる。
「初めまして……」と気の抜けた声が出た。そして自分も右手を差し出す。
アスミの手を握って来たその手は、細くて冷たい。昨日はあんなに、小指が熱かったのに。
「よろしくね、アスミくん」
「え……あ……」
――下の名前呼ぶなつってんのに。どうしよう。もう一度、強く拒んだ方がいいのかな。
返事に戸惑う。
それが可笑しかったのだろうか。彼女はまた、笑った。
「ひとりぼっちで、よく頑張ったね」
息が、詰まる。鼻の奥がツン、と痛くなった。
「アスミ……」
その瞳が。真っすぐにこっちを見つめる瞳が、誰かを思い起こさせる。
――まるで……あいつだ。
幼い頃から自分を導いてくれた、マコト。
その彼とそっくりな眼差しが、こちらに向けられている。
小さな子供への、深くて優しい眼差しだった。
――あ……っ!
涙が、零れ落ちた。
アスミは慌てて腕を振り払い、来栖に背中を向けた。右手で涙を拭う。
――見られたかな? 見られたよなっ!
自分でも分かった。大粒の涙がぼろり、と落ちたのだ。なんて情けないのだろう。
「あ、そうだ。これあげる」と彼女は言った。
右肩を背後に引っ張られ、振り向かされる。
「はい。食後のキャンディ。クランベリー味よ」
赤で包装された物をアスミの掌に乗せた後、彼女もその粒を自分の口に入れた。
ふわっ、と果実の香りが漂う。
持っていても仕方ないので、アスミもそれを口に入れた。
――甘酸っぱい。
普段、お菓子など口にしないので新鮮な気持ちになる。
――ふぅん。こんなの食べるのが女子の日常なんだな。
しばらくふたりで黙り込み、モゴモゴとして過ごした。キャンディは美味しい、が。
「それで、話は終わったのか」
「ん~。続きはまた今度ね。一度に話してしまったら、もったいないし」
「もったいないって、何が」
「アスミと過ごす時間が」
「もったいないなら、一度に済ませたら?」
「い、いやそう言う意味じゃなくて。こうやって話をするためにまた付き合って欲しいな、ってこと」
――メンドクセ。
「あ! 今面倒くさいって思ったでしょ!」
「えっ! そ、それは……っ」
――ナンだよこいつっ。まさか人の心も読めるとか言い出さないだろうな!
「読めない読めない。顔に出てしまってるから。全部」
「ぜ、全部?」
「そう。素直だよね、アスミは」
――す、素直なんて評された事は、一度もないけ、ど。
「あの時、逃げ出して正解だったんだよ。こんなに素直で孤独にも耐えれられる、健気な心を守れてよかったんだよ。……でも」
――でも?
気になるところで言葉が切られた。続きを催促をしていいのかどうか、分からない。あの言い方では、話の流れが明るくなるとは思えないから。
だから余計に気になるではないか。不安な未来、なんて。
「未来の事は分からないよね。例え十秒先でも分からない。誰かの投げたボールにぶつかって、気絶してるかもだし。明日の事なんてもっと分からない」
「言いたい事があるなら言えよっ」
チラチラされると腹が立つ。見透かされ、見下されてるみたいで、イラっとする。
「分からない、って言ってるでしょ」
「嘘つくな! そんなに含みのある言い回ししておきながら、俺が気付かないとでも思ってんのか?」
もしそうなら、バカにし過ぎだろう。
彼女は苦笑いを浮かべ、ため息を吐いた。そして。
「〈次〉も逃げられたらいいね、ってことだよ」
――次っ? 次があるって言うのか? あんな事のっ?
「あの時に襲われた原因、判明してないでしょ」
「狙われた理由があるとでも言うのか? お前は原因を知ってるのか?」
「判明、してないでしょ」
ゆっくり、低い声で言われた。
「お、おう」
「なら、解決もしてないよね」
「四年経ってるけど」
「たった四年だよ。時間の感覚は私達と違うと思うしさ。時が流れた分、向こうはもっと本気になってるかも」
「〈向こう〉って何だよ誰だよっ。何か知ってるなら言ってくれよ」
「判明、してないんだよね?」
さっきよりも、もっと低い声で。据わった目で。
「……分かりました」
これ以上は引き出せそうもない。
来栖があの場であの瞬間を見ていたからって、向こうの理由なんて知ってるわけないか。
「あぁ、そう言えば数ヶ月前にローカルニュースで見たけど、あのホール、そろそろ取り壊すんだって」
「へぇ、そうなんだ」
確かに古そうだったけど。その分、デザインはクラシカルだった。
「これまで内装は何度か作り替えてたんだけど、建てられてから半世紀以上経過してるんだってさ。さすがに老朽化が激しいから、建て直すらしいよ」
記憶の中の陰鬱な舞台袖が、意識の中に蘇る。
そうか。取り壊されるのか。
綺麗になるなら、自分の中の記憶もいつかは薄れるかも知れないな、実物が無くなるのだから。
近所の家だって取り壊されてから数ヶ月後には、そこにどんな家が建っていたのか思い出せなくなる事があるし。
「アスミにとっていい方に転がるか、または反対か。答えが出るかも知れないね」
「またそんな言い方、止めろって」
「あぁ、うん。ごめんね。じゃあ次は移動教室だから、早めに戻ろうか」
来栖が明るく笑った。
ふたりでベンチから立ち上がり、歩き始める。
周囲ではまだボール遊びしているグループなどがいた。みんな、楽しそうにじゃれ合ってる。