01-5
それから昼休みまで、藤沢はこちらを向く事がなかった。
ホッとしたような、イライラするような、妙な気持ちが朝からずっと続いている。
――いや別にさ、あいつが話しかけて来たからって「やっぱ行くよ」と返事を変えるわけでもないんだし、会話するべき用事なんて無いしさ別に。
アスミはガツガツと給食を食べ終え、教室を出る事にした。
出入り口に差し掛かった時である。
「あのっ」と声が聞こえ、振り向くと来栖が居た。
「これから、いいですか」
話をしたい、って昨日言っていた事だろうか。だろうな。他に用事なんて無いし。
「いいけど、来栖さん給食全部食べたの」
彼女は首を振りながら「まだ」と言う。
「じゃあ食ってからにしよう。俺、庭でも散歩してるから」
「はいっ」と気合いの入った返事が返って来た。
さて、散歩か。どこら辺に行ってみようか。
花壇の中庭、門へ続く並木道。
そう言えばあの並木の下、ベンチがいくつかあったっけ。空いてるベンチがあるなら、昼寝でもしようかな。
そんな事を考えながら下足室で靴を履き替え、外に出た時だ。
「アスミ?」と声をかけられた。
男の声だった。神経がどくん、と反応する。
この学校に自分を苗字ではなく、下の名前で呼ぶような人間が居たか?
恐る恐る振り向くと、そこには見知らぬ男が居た。
こちらを見て、少し驚いたような表情をしている。
ジャケットの襟元には、三年生である事を示す緑色のバッジがあった。
――誰だ? 顔は見覚えがな……いや。ある。
こざっぱりとした短めの髪と、額の生え際の形。賢そうで、清潔感のあるあの顔立ち。
どくん。とまた苦しげな鼓動が脈を打った。
「……ツカサ」
間違い無い。ツカサだ。同じユニットだったあのツカサだ。
アオイ、ヒロキ、そしてツカサ。
それがアスミにとって最後のユニットだった。
あの時のメンバーのひとりだ。
「驚いたな。お前、この地元に居たんだ?」
「どうも」と少しだけ頭を下げ、そのまま歩こうとしたのだが。
「お前、もう踊ってないのか」
その言葉に、アスミの神経がきいぃん、と凍り付く。
ゆっくりと振り返り、アスミは「はい」と頷いた。
「そうだよな。どこかで踊っていれば、お前の名前、聞かないわけがないもんな」
アスミは「じゃ」と言ってツカサに背中を向けた。
「マコト先輩、今ヨーロッパに行って……」
アスミは立ち止まった。そして振り返る事なく。
「ネットのニュースで見ました」
「あ、そうなのか……」
そのまま再び歩き出す。並木の方へと向かって。
――なんで……。
よりにもよってツカサに、メンバーに会わなければならない?
あの時、アオイと一緒になって自分へ投げかけてくれた言葉は忘れない。
そりゃ彼だって幼かった。今のアスミより年下だった。でも、だけど。
――よくも平気で声なんか、かけて来たな!
足が、動く。いつもより早く。
走り出そうとするように。逃げ出そうとするように。
――そうか。あいつ、中堀小学校だったな。
あいつらの小学校なんて、どこだか忘れていた。
――アオイは? 確か中央区だったから校区が違うか。それにあいつ、確か今年から高校だよな。
大丈夫だ。この学校で会う事は絶対にない。
――ヒロキ……どこだっけ。確かそんなに近くじゃなかったと思うけど。
彼らも自分と同じように、四年をどこかで過ごして来たのだ。多分、あのスタジオで。
――ずっと、踊ってたのかな。
ツカサがあんな言い方をしたのだから、踊ってたのだろう。
全国でも上位入賞出来るくらいの実力はある奴らだ。やめるわけないか。
――あいつら、俺に嫌味言うくらい踊りが好きだったもんな。
地方ファイナル当日のケガだ。嫌味くらい言ってしまうのは仕方ないと今では思う。
あれでも彼らなりに感情を押し殺していたのかも知れないけれど。でも。
アスミが彼らを気持ちの中に受け入れるかどうかは別の問題で、それは自分の自由だ。
会いたく……なかった。
それが本音。
――なのに。どうして。
過去の悪い夢が追いかけて来る。
――酷くないか? こんなの。
葛西。そしてツカサ。
藤沢との会話だって、昔の事を思い出させる。ホールのステージに立っていた頃の自分を。
好きで踊っていたわけじゃない。
好きでやめたわけでもない。
幼い自分では抗いようのない流れの中に、飲み込まれていただけだ。
息も出来ず、苦しかった。ずっとずっと、本当につらかった。
必死で戦い、やっと逃れられたのに。
「皆丘くん?」
アスミは背後から聞こえたその声にビクッとした。そして、振り向く。
「あ……来栖、さん」
「どうかしたの? 真っ青だよ」
「い、いや別に……来栖さん、こそ、大丈夫なのか? 俺と居て」
睫毛の長い瞳がこちらを見上げる。
――こいつ、女子の中でも小柄な方、かな。
「あのね、冴季でいいよ」
「へ? いや、でも」
――すげぇ突然だな。
「だからアスミくんって呼んでいい?」
「い、いや……それは、ダメ。て言うか、イヤ」
「どうして?」
――「あいつら」を思い出すから、なんて言えるわけないだろっ。
「あ。彼女に怒られる?」
アスミは首を振った。「居ない、居ない」と言いながら。
――よく分からないけど、昨日とイメージが違うなぁ。あの時は本当に弱っていたんだな。
「あ、ベンチあるね。とりあえず座ろうよ」と左の手首を掴まれ、引っ張られた。
「もう桜も終わりだねぇ」と呟き、座りながら彼女は微笑んだ。
アスミもその横に、少し距離を取り、離れて座る。
「昨日は心配かけちゃったでしょ。アスミくんのせいだとか言って、ごめんね」
「だから、下の名前で呼ぶの止めてくれ」
「アスミくんアスミくんアスミくんアスミくんアスミくんっ」
「へ、返事しねぇぞ! 葛西さんみたいな連呼攻撃止めろよっ」
「私のお姉ちゃんね、璃世って言うの」
「あ、そー」
数秒、こちらを見て微笑んでいた来栖だが、突然表情を変え。
「聞き覚え、ない?」と口を尖らせた。
――来栖璃世?
考えてみる、が。
「ない、なぁ」
「やっぱりかぁ」
「やっぱりってどう言う意味だっ。お前、俺をからかってんのかっ?」
「からかってないよ。雑魚は相手にしてなかったって事だよね」
「は?」
「お姉ちゃんね、ダンサーなの。だから私、あの時あそこに居たんだ」
どくん。
「〈あの時〉〈あそこに〉ね」
必要以上に含みのある言い方だった。
幼さの残る瞳が、真っすぐにこちらを見据えている。
「だから私、見たの。あなたがケガをしたその瞬間を」
きぃん。と頭の奥で、高音が鳴った。