01-4
翌朝、教室には来栖の姿があった。
自分の席に座り、葛西と話をしている。
それを視線で確認してから自分の席へ向かうと、藤沢が背後から「おはよー」と声をかけて来た。
アスミは振り向き「おはよ」と挨拶を返す。
「あのね、昨日あれからね」と続いて話しかけられる。
険悪な関係になりたいわけでもないので、彼女の話をさえぎるような事は言わない。
自分の席に到着して鞄を置き、イスを引き出し座る。
と、藤沢も自分の席へ座った。ちょこん、と小さな花が飾ってあるような雰囲気だ。
「音楽室の方へ行ってみたの。そしたらね」
「うん」
「吹奏楽部、居なかった……」
しゅん、とうなだれる藤沢。
そして、数秒。
「えっ? そ、それで話終わりっ?」
思わず動揺してしまうアスミ。
「んー、話って言うかぁ、報告って言うかぁ」
そんな事を報告されたって。
――こ、困る。リアクションに困るっ。
どうしよう。このまま流してしまっていいのだろうか。
でもこれから先、こんな話を投げられ続ける可能性は高いぞ。そのたびに動揺するのもナンだし。
「あのさ、これからも付き合いあるから聞いておきたいんだけどさ。今の報告には、俺、何て返せば正解なわけ?」
「正解なんて無いけど……『残念だったね』とか『じゃあ今日は俺と一緒に行ってみようか』とか返してくれたら、わたしは『うん』って返事したかなぁ?」
――おっ『俺と一緒に行ってみようか』ぁ? そんなの言うはずないじゃん。俺には関係ない事だぞっ。
「でもわたし、別に吹奏楽部に入りたいわけじゃないの」
「はあっ?」
「……ヘタクソだから」
藤沢は頬を染め、ちょっとうつむいた。
そう言えば昨日もそんな事言ってたな。フルート奏者、なんだっけ。
「ふぅん、そうなの?」
「聞きたい?」と、うつむいたまま、こちらをチラ見する。
「い、いや別に……」とアスミは視線を反らせた。
「今度、ホールで演奏するの」
「ヘタクソじゃねーじゃん……てか何? 発表会か何か?」
ホールだなんて、絶対行きたくない。
「ううん。身内の主催するパーティーの、余興……」
「ほ……ホールで余興ぉ~っ?」
「……うん」
どう言った金持ちなのだ。パーティーの主催でホールで余興。ちょっと想像がつかない。
――でもまぁ、金さえ払えばホールは押さえられるもんな。てか、マジか。
レンタル料やステージスタッフの人件費など考えると、一般的な家庭が支払える金額ではないはず。なら、企業が予算として出す? この子はもしかして、どこかのご令嬢?
――公立中学だぞ。金持ちの子が来るわけない!
でもこの子の、ちょっと緩んで穏やかな雰囲気とかノンキそうなところとか、お嬢様っぽいと言えばぽい、かな。
「あっご、誤解しないでね。ホールでのパーティーは、祖父の関係なの。父は、普通にサラリーマン」
慌てて否定をする藤沢。アスミの考えが顔に出ていただろうか。
「そ、そうですか。てか今、俺、ヘンな表情してた?」
「う、うん。引きつってた」
「そっか。オジイちゃんてもしかして、ホールで仕事してる人?」
「そうなの。だから来る人もスタッフさんも、みんな身内みたいなものだからヘタクソでもいいんだって言うの。酷いでしょ? 恥をかくのはわたしの方なのに」
「確かに酷い。ラウンジ演奏じゃなくてステージ演奏?」
「うん」
――そりゃそうだよな、普通。ホールなんだから。
「祖父の中ではわたしはまだ、小さい子供なんだよ。失敗してもみんなが笑って見守ってくれるような、幼稚園児くらいの感覚なんだと思う」
さすがに気の毒過ぎる。なんと言って慰めればよいのやら。
「た、大変なんだな」
「人知れず苦労してるの」
「藤沢さん、兄弟とかは?」
「居ないの。ひとり」
「イトコとかは?」
同じ立場なら、同じように引っ張り出されるのではないだろうか。
「まだ小さい子達ばかりなの。男の子ばかりで、塾とスイミング行ってる」
さすがにスイミング余興は無理である。
水槽の設置されてるホールなんて、この地元では聞いた事がない。いや、国内で聞いた事がない。世界のどこかにはあるかも知れないが。
「相談相手とか、居ないの」
彼女は数秒考えてから「居ない」と呟いた。
「だから……今、皆丘くんに聞いてもらえて、よかった」
ふわり。と彼女は微笑んだ。
藤沢の言葉に、アスミの気持ちが反応する。
誰にも聞いてもらえなかった、自分。
――こいつって多分、素直なんだな。だから戸惑わずに言いたい事を言えるんだろうな。
アスミのような、昨日初めて出会った人にさえ。
ならば面倒見のよさそうな葛西と仲がいいのも頷ける。上手く噛み合うピースみたいだ。
「イヤだって抵抗はしたんだろ?」
「したよ、泣いたよ。でもお母さんに『困らせないで』って怒られたの。……お嫁さんだしね」
と言う事は、父方の祖父と言う事か。父親には相談しなかったのだろうか。しても無駄な相手なのかも知れないが。
「気の毒、だな」
藤沢が大きな目できょとん、とした表情をした後。
少し疑っているような視線を投げて。
「本当にそう思ってくれる?」
「え? う、うん……気乗りしないステージは膨大なエネルギーの無駄遣いだと思うし」
「だよね、そうだよねっ。お母さんなんてね、お母さんなんかねっ、ほんの数分間演奏するだけなんだからとか言って、全っ然理解ってくれないのよっ」
「同情するわ~」
少し引き気味に呟くと、藤沢の瞳が見る見る潤んでいった。
そして。
気が抜けたかのように、笑った。
「……ありがと。誰かにわたしの気持ちを肯定してもらいたかった。ずうっと」
ぽろり。と雫が零れ落ちた。一粒だけ。
彼女は慌てて恥ずかしそうに、ハンカチで目元を拭う。
――泣くほどイヤなパーティーなのか。まぁ本当にヘタクソで、大人達の前で晒しものになるんならなぁ。
しかもプロと仕事している人達を相手に、とは。罰ゲームどころではない状況である。
「藤沢さん、フルート仲間は?」
その身体がピクリ、と戸惑った。そして、小さな口にきゅっと力を込めてから。
ちょこっとだけ、首を横に振る。
「俺、音楽教室なんか行った事ないから分からないけど、そっか。フルートとかって個別指導なのか」
「個別の指導は、ある程度吹けるようになってから。最初の基礎ではやっぱり、みんな一緒。他の教室がどうやってるのかは知らないけどね」
なら、愚痴れる友達くらい居るだろうに。
「個別指導に移って疎遠になったとか?」
藤沢が苦笑いを浮かべて「そんなとこかも」と誤摩化した。
――そうか。こいつもイヤな思いしてたのかも。
ホール関係者の祖父と、気持ちを理解してくれない母親。
もしかして彼女もひとりで戦ってるのだろうか、〈自分の立場〉と言うものと。
「もしかしてさっき、そのホールに俺を誘おうとした?」
藤沢の頬が赤くなる。
「でも、ヘタクソなんだろ?」
「そ、そうだけど……ひとりぼっち、なんだもん」
「なにが」
「そこ大人ばかりで……友達とか、居ないんだもん」
確かに気の毒ではあるが、ずっと友達と一緒に居たいと言うのなら、甘ったれだな。
「法事みたいなものだと思って、諦めたら?」
と言うか、アスミとは〈友達〉になっていないと思うのだが。何せ昨日会ったばかりなのだし。
「ごめんね、誘われたって迷惑だったよね。ただ、わたし昨日」
「ん?」
「来栖さんが皆丘くんに『話を聞いて欲しい』って言ってたのを聞いたら、なんか、そんな気持ちになってしまって」
「何が?」
「この人なら聞いてくれるのかな、って」
「う、う~ん」とアスミは短く唸ってしまった。何段階か、思考が飛んでいるような気がする。
来栖の話だって聞く義理なんて無いはずだが、流れでそうなってしまっただけで。
多分、元気な見知らぬ人から「話聞いてよ」と言われても、逃げるのが普通だと思う。
昨日は、拒否出来ない状況だったと言うだけで。
「俺、そんなに親切でもないし」
期待されても困る。
「葛西さん、誘えば? 友達なんだろ」
「言ったじゃないっ……ヘタクソなんだもん。葛西さんに聞かれるの、恥ずかしい」
「俺にはそのヘタクソな演奏、聞かせても平気だと言うのか」
彼女はこくん、と頷いた。
「う。どうして」
「な、何となく」
藤沢が今度は、耳まで赤くした。
「ごめんね、忘れて! ちょっと心細かっただけなの」
今度は明るく笑って、藤沢は前を向いた。
そして数秒後、その背中がちょっとだけ丸くなる。
――な、何だよこれ。チクチクするぞ。
自分の心が、チクチクと痛い。もしかしてまさかこれは、罪悪感と言う奴なのか?
――どうして俺が罪悪感なんか抱かなきゃなんないんだよっ。
「はぁ」と小さなため息が聞こえた。
普通なら雑音に紛れて聞き取れないくらいの、小さな微かな息だった。
なのになのに、耳にはっきりと聞こえ、神経に突き刺さって来た。