01-3
三人で保健室を出た。
廊下を右へ向かうふたりと別れ、アスミはひとりで下足室へと向かう。
歩きながらため息を吐く。なんだか疲れた。
古い記憶を何度も呼び起こされるような日になるだなんて、思っていなかったのに。
いや。以前住んでいた校区の奴らと再び同じ学校に通うのだ。胸の奥で、何となくそんな予感はしていたのかも知れない。
――マコトさん、俺……。
忘れると思っていたのに。忘れたかったのに。未だに気持ちが割り切れない。
『アスミは凄いねー。身体の全ての細胞がどんなリズムでも掴み取り、それと同時に全身を動かしてる。寸分たりとも狂う事なく、躊躇もせず。お前は訓練される前からそうだったんだからさ、天性の才能なんだよ』
二歳のアスミを公園で見かけたマコトは、当時八歳くらいだったはず。
そんな少年が、母親達に連れられて、お歌に合わせピョンコピョンコ身体を動かしているだけの幼児の才能を見抜いた……らしい、のだから。
その方が余程脅威ではないだろうか。
――そう考えればあの人の方こそバケモノじみてるよな。怖えェ。
その彼もUNDER18の大会で上位入賞を果たし、スカウトされ、ヨーロッパへと武者修行に行ってしまった。
大学も合格しているようだが、進学を辞めたのか休学しているだけなのかは、知らない。
あのスタジオを辞めてから、アスミの住む世界は変わってしまった。
マコトに関する噂すら聞けない日常では、メディアの隅っこに流れる情報くらいしか、自分には分からない。
彼はあのスタジオで一番期待され、尊敬され、慕われていた人物だ。
その彼が直々にスカウトした四歳児。それが皆丘アスミ。
周囲の誰よりも注目を浴び、技術を飲み込み、どんな振り付けも構成も平然とこなしてゆく。
他の人間からすれば可愛げもなく、特別扱いされているようで憎らしくもあっただろう。
あそこでは友達どころか、仲間も出来なかった。
だがアスミはマコトの事が好きだったし、ダンスも決して嫌いではなかったのだ。
執着するほどに好きだったかと聞かれればそうでもなかったような気がするが、少なくとも拒絶の対象ではなかった。
あの頃、アスミを一番悩ませていたのは両親だった。
息子が褒められ、認められ、拍手を浴びるたびにその心が歪んでいった。
傲慢さが増し、プライドが肥大してゆくのが、日々、見ていて分かる。
上から目線で周囲の父兄と揉めた事も多々あった。
アスミはそれにウンザリしていた。
あのふたりを喜ばせるために踊っているのではない。
自分は、彼らのプライドを飾るための道具ではない。
アスミには兄弟が居ない。
学校でダンスの話などしても通じない。
スタジオにだって悩みを愚痴れる仲間なんて居やしなかった。
マコトとは話していたけれど、それだけで周囲から陰口をたたかれる。
彼はあのスタジオの、アイドルだったから。
心に溜まって行く毒を吐き出す場所が無い。
受け止めてくれる相手も居ない。
足を壊したあの日……確かに数日前からイヤな予感はあった。これまでに感じた事がないほどの不安が押し寄せ、数日間、途切れる瞬間がなかった。
でもそれは本当に〈予感〉だったのか、今ではもう自信がない。
みんなの言うように、わざとケガをしようとした無意識の声だったのかも知れない。
あの頃の苦い思いは、あの時間に置き去りにして来たと思っていた。
投げ捨て、手放したいと思っているのに。
終わりにしてしまいたいのに。
こんな風に突如、現実の日常の中でアスミの前に姿を現す。
小学校から中学校へ。
状況が変われば立場も、人間関係も変わってしまう。それは仕方がない。
今、自分が一番ベストだと思える事は何だろう……。
多少、アスミの過去を知っている人達がチラホラと存在する空間の中で、負担にならない生き方が出来るのだろうか。
あの来栖と言う子が話したい事とは、何なのだろう。
――ダメだ。考えても分からない。俺、頭もそんなによくないしな。
アスミにあるのはこの身体だけ。
リズムを掴み、踊りを再現するこの身体だけ。
性格もよくはないし、社交的なわけでもないし、家事能力に優れているわけでもないし。
――生きるって難しいな。
苦しい事がイヤだった。
あの頃は何もかもが苦しく思えて、息も出来なくて、必死で戦い逃げ出した。
自分は多分、穏やかな毎日を望んでいるのだと思う。
素直に呼吸が出来るような、呼吸をしている事に気付かないほどの、淡々とした平和な日常を。
他の人にはあるようなのに、自分には無くて。
どこを探しても、無くて。
どうして自分はこんな風にしか生きられないのだろう。
マコトみたいに生きられないのだろう。
自分の性格が悪いから? マコトほどの実力が無いから?
それとも、この顔がみんなに嫌われてしまうのか?
嫌われたっていいけど、それで平和に生きられないのは損だと思う。顔なんて自分では選べないのに。
『ホントにアスミは、踊ってるとオトコマエよな』
記憶の中でマコトが笑う。
『俺、踊ってる時のアスミの目が好きだよ。最初は戦闘的で真剣なまなざしなんだ。曲が進むにつれ、トリップしてくみたいに無表情になる。でも目力は失われない。他の誰も気付かなくても、俺には見える』
リズムと同調してゆくあの感じ……彼には見えていたのだ。
自分の精神が霧のようになって、音やリズムに溶け込んでゆくかのようなあの感じを、彼は理解してくれていた。
『それでも正確に身体が動くんだから、大した奴だよ。あれほど完全に同調出来てしまったら、俺だったらどうなるだろうな……気絶でもするんじゃないかな。ははっ』
気絶しそうと言う感想は、よく分からなかった。だってアスミはその状態になった時、自分が永遠にでも存在出来そうな気さえしていたから。
『お前の身体は特別なんだと思う。昔流行った言葉に〈ギフト〉ってのがあってな、それだと思うんだ』
『〈ギフト〉……?』
『そ。神様からの贈り物らしい。私利私欲のために使わず、人のために使うべき〈才能〉の事な』
いや。人のためにはならなかった。親の心を歪ませてくれた。
周囲の人達だって拒絶に近かったような気がする。
だからきっと〈ギフト〉なんてものではないと思う。
――ああ、そうか。マコトさん、俺を慰めてくれてたんだ。こっちも子供だったしな。
四歳から、小学校三年生まで。幼い頃の、長くて大きな数年間。
――未だに抜け出せていないんだもんな。きっと笑われるよな。
逃げだしたからって、たった四年じゃ当時の自分からは抜け出せない。
あの世界に居た時間の方が長いではないか。
今の自分は、出会った頃のマコトよりも年上なのに、情けない。
自分はどこまでも、いつまで経っても自分でしかない。
自分はどうあがいても、マコトのようにはなれないのだから。