08-1
■08■
身体が、頭が、顔面が、全身が……ズキズキする。
ゆっくり目を開けると、いつもとは違う匂いに気付いた。
――あれ? 俺……どこだここ。
ミントブルーのブランケットは肌触りがよく、あたたかい。
見慣れない天井と、カーテンと、本棚と、机と……その上にパソコンと。
――俺の部屋じゃないっ!
ギョッとして起き上がろうとした時、口から悲鳴が漏れた。頭痛が激しくて、顔に違和感を感じる。
――どうなってるんだ、どこだここっ!
――あのホールに行って、朝になって、来栖と話して……来栖と……。
そこから先の記憶がない。
――まさかここ、来栖の部屋じゃ……。
女の子に連れて帰ってもらったのか?
――いや、無理だろ。いくら何でも。
気絶してる男子を運ぶなんて、女の子には無理だ。なら……。
どくん。と鼓動が跳ねる。
――アオイの部屋、か?
気持ちが硬直する。視線を動かすと、部屋の隅のコートハンガーにアスミの服が掛けられていた。
――えっ? ちょ……!
驚いて自分の身体を見る。裸だ。
――ぱんつだけ……ぎゃあ!
――ナンっだコレ? とにかく、服っ!
ベッドから立ち上がろうとするのだが、身体が痛んで思うように動けなかった。
ゆっくりとだが無理やり立ち上がり、二、三歩動いたところでよろけ、本棚に腕を打ち付けた。
ジーンとする痛みを我慢していると、数秒後。
アスミの動いた気配を感じたのか、部屋の扉が開いた。
そこから姿を現したのは、やはりアオイだった。
アスミは喉が引きつるほどに息を飲み込んだ。
身体が硬直して、動きが止まる。
「目覚めたのか」
「は、はいっ」
「……お前、俺に怯えてるのか」
「いっ、いえっ! そんなことは!」
正直に言えるわけがない。
――ベッドに裸で放置されてたんだぞ。驚くなって言う方がムリだろ!
自分の服をチラ見する。それに気付かれたらしく。
「全身土まみれの服を着た他人に、自分のベッドを貸せると思ってるのか」
――そう言えば、そうか?
昨夜の自分は、服が汚れるなど考えてはいられなかった。
けれど確かに、あの吹き荒れる風の中で、無数の土の粒と一緒だったのだ。
土だけではなく、砕けた木材や石も舞っていたと思う。肩や背中に何度かぶつかり、結構痛いと思った記憶がある。
――髪の中にも入り込んでるんだろうな、土の粒。
触ったらジャリ、っとしたりするのだろうか。あぁイヤだ。考えるのはやめよう。
――そっか。風呂に入ったわけでもない俺を寝かせてくれたのか。申し訳ないな。
自分の服に手を伸ばしながら、アスミは帰る用意をしようと思った。
「色々とお世話になりまし……」
「帰ろうと思ってるなら、ちょっと考え直せ。お前今、酷いから」
「……は?」
彼は、本棚の一角に集められているスタイリング関係のアイテムの中から、卓上鏡を持ち上げた。
そしてそれを、おもむろにこちらへ向ける。
アスミはギョッとした。痣と腫れが、酷い。
「家族心配するだろ」
――確かにばあちゃん、めっちゃ心配するな。って言うか誰よコレ?
痛々しくて見ていられない。なんて可哀想なのだろう。
これがあの、肉球パンチその他の威力か。
――来栖にも顔、蹴られたしな。思い切り。
「しばらく冷やして様子見る事だな。でもその前に、連絡だけはしておけ。昨夜だって外泊するつもりはなかったんだろ?」
「え……そうですけど、何て言えばいいんだろ」
説明のしようがない。
「素直に怒られておけよ。それが一番、早く納まる」
「でも」
「うちに泊まった事にしていいから」
――アオイの家、に?
アスミの祖母は、アオイの事なら分かるだろう。知っているはずだ。
――ダンスやめたのに、アオイの家にぃ~?
逆に、心配させないだろうか。顔面こんなになってるし、アオイに殴られたみたいに思われないだろうか。
「他の友達の方が言い訳として都合いいなら、そっちでいいさ。お前が話をまとめやすいように伝えろよ」
――他に、友達なんて……俺。
作らなかった。要らないと思ってたし、今でも思ってる。友達なんて、必要ない。
――だけどこんな時、困るんだな。〈こんな時〉なんて、滅多にない事だけど。
「あの、アオイさん」
「ん?」
「昨日はどうしてあそこへ? なぜ助けてくれたりしたんです」
数秒、アオイは考えて。
「教えてやらない」と言われた。
「お前に誤解されようが、気持ち悪がられようが、説明するつもりはない」
――か、隠すような事か? 親切なんだか冷たいんだか、分からん。
中学生になった今でさえ掴めないこの人を、幼い頃の自分が嫌厭していたのは仕方ないような気がする。
細かい事はたくさん忘れているだろうが、きっとこの人はずうっとこんな風に、エキセントリックだったに違いない。
――懐けないのは当然だな。昔の俺に同情する。
それからアオイは着替えを貸してくれて、お茶を出してくれて、食事を出してくれた。
他に誰も居ないダイニングキッチンのテーブルに着き、アオイに給仕される。
ハッキリ言って、居心地は最悪だった。
親しくもない相手の自宅マンションで、嫌われているだろう相手から食事の世話をされるなんて。
野菜スープにオムライス。温められたそれらから湯気が上がり、いい匂いが漂う。
空腹なので確かにありがたい事なのだが。
「飲み物はお茶でいいか」
「は、はい……」
白いティーポットから、ふたつのカップへと注がれるお茶。
彼の分と、アスミの分だ。
「どうぞ」とカップが差し出され、アオイは斜め前の椅子に座った。
――うぅ。飲み込みにくい。ガン見やめろ。神経がすり減る……。
アオイの視線に耐えながら黙って食事を続けていると、彼は不意に言った。
「そう言えばお前に伝言があったんだ」と。
「はい? 誰から」
「昨夜のふたり」
――あぁ、あのふたり。
わざわざ伝言なんて何なのだ。今更。
確かに「さようなら」とお別れの挨拶はしなかったけど。気づいたらアオイのベッドの中だったけど。
「あの狐、逃がしちゃったし。地下の封印も完璧じゃないから、新月のたび、踊りに来なさいって」
持っていたスプーンが手から零れ落ちる。カツンとテーブルを叩いて、そのまま横へ転がった。
シン、とした間が、居心地悪く横たわる。
そして数秒後、やっとアスミは。
「はい?」と聞き返す事が出来た。声は引きつっていたような気が、する。
「お前、力の使い方が分かったんだろう? 俺には何の事か分からないけど」
「え。いやその……えっ?」
「地下に押し込めた分が漏れ出さないようにとか、逃げ出さないようにとか、まぁ何なりとあるんだろう。新しいホールが出来上がるまでよろしく、ってさ」
――うっそだろ……あんな大きなホールの立て直しとか、数年がかりじゃん。
はぁ、と重いため息を吐き、アスミはやっとスプーンを持ち上げた。
アオイの姉と言う人が外出する前、作り置きしてくれたらしいオムライスは、多分美味しいと思うのだけど……味わう心の余裕が、アスミにはなかった。
ただでさえアオイの世話になっていた事に動揺していたのに、追加の舞を命ぜられたのだ。
心は重く、気持ちは沈み込む。




