07-3
どれほどの時間、そうやっていただろう。
ぺろ……ぺろぺろ。
頬の感触に、ゆっくりと目を開ける。
アスミの腕の中の狐は、子狐の姿になっていた。
狐の愛くるしい瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げている。
「苦しい思いをさせてごめんな。悔しい思いをさせてごめんな。心細くて不安で、怖かったろ……?」
子狐の喉が、微かに鳴った。
「俺、もう何もやりたくない。何もしたくない。もう頑張るなんて……イヤだ」
学校に行くのも、朝起きるのも、動いて食事して生活するのも。
もう全部、放棄してしまいたい。
この子が殺してくれると言うなら、それでいいと思っている。
なのに。
『ざっけんな。見苦しく生命乞いしろよマヌケ。泣き崩れて無気力な人間なんか殺ったって、こっちの溜飲が下がるわけねーだろカス!』
可愛い顔をした子狐が、呟く。
『お前みたいな奴、お前みたいな奴っ! 殺したって、嬉しくも何ともねーんだよ! ハナミズ垂らして震えながら、怯えながら、腰抜かして小便漏らせよ! それくらいサービスしろよ! この役立たずが! こっちはな、のたうちまわって苦しむ人間が見たいんだ! お前なんか殺しても面白くねぇだろうがよ! このクソ雑魚がっ!』
その肉球で頬を、ぺしっ!
ぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしぺしっ! と、乱れ打ちされた。
『痛いか? なぁ、痛いかっ?』
――い、痛いと言うより。
「ジンジンする」
『まだ足りねぇようだな! こっちだって疲れんだよバカタレーっ!』
追加の乱れ打ちに襲われる。
何だこれは。どう言う意味だ。制裁なのか? もしかして。
アスミが理想の獲物じゃないから。
『俺は、俺達はっ。お前と違って生まれて来てよかったんだ! 嬉しかったんだっ! なのに、なのに、それを人間に踏み躙られたんだよっ! お前みたいな奴と、一緒にすんなよな! 同情すんな迷惑なんだよ死にさらせーっ!』
肉球パンチの後、最期の一発は爪攻撃だった。
サクッ、と鋭い痛みが頬を走った。
けれど、軽くしか切られていない事が痛みの程度で分かる。
アスミは少し息を吸い、子狐の顔を見つめた。
『俺だって、俺達だって、父ちゃん母ちゃんを思うと胸が痛い。悲しくて悔しくて泣きたくなる。けどなー』
狐がギロリとこちらを睨む。
『お前に先に泣かれたら、こっちの立場がねーじゃねーかーっ! 泣くに泣けない立場に追い立てやがって、このド外道がー!』
また肉球パンチを連続で食らう。
『お前なんか、お前なんか、俺と似たような気持ちを溢れさせやがって! 人を憎んで、大切な人に焦がれやがって! 被害者面すんな! 被害者なのは、俺達の方なんだよーっ!』
泣きながら子狐が叫ぶ。
『バカバカバカバカ! 死ねカス!』
死ねと言うなら、殺されていいのに。
『同じじゃねーか。お前の気持ち、俺と同じじゃねーか! 同じだから、見ろ! 風の中で混ざりあって溶けあって、一個のエネルギーになっちまってるじゃねーかよォ……ざけんなハゲ』
――ハゲてないし!
一瞬だけ動揺してしまった。だって親戚に少数だが、その兆候のあるオジさんが居るから軽く怯えているのに。
――う。弱点を突かれると脆いな、人は。
もし自分に未来があるのなら、否応なく受け入れねばならないのなら。
その〈薄くなってしまう遺伝子〉には大人しくしていて欲しい。と思う。
『お前、さー』
「ん?」
『名前、教えろよ』
「えっ? ……アスミ、だけど」
来栖が最初に教えたはずだが、もしかして忘れたのだろうか。
さっきまで何度も、アスミの名前は呼ばれていたのに。
——まぁ、こいつアホかも知れないしな。
小さな姿を見ていると、ジワジワとそんな気になる。
こいつはアホのような気がする、と。
だって、毛がふわふわとしていて、愛くるしい……から。
『アスミか。俺は朔弥な』
――突然の自己紹介。どうしたんだ?
『お前。もう俺に指図しようとか思うなよ』
「えっ? 指図って……そんなつもり、は」
殺す殺せとやっていたのだから、指図ではないと思うのだけど。
戸惑っていると子狐はアスミの腕からスルッと抜け出し、少し浮いてから。
アスミの顔面を後ろ足でキックし、上空へ舞い上がって行った。
「い、痛……いっ」
だがちょっと嬉しい自分が、イヤだ……。
『いいか、約束だかんな! 俺に対して上から目線で偉そうにすんじゃねーぞ!』
「え偉そうにって、俺が、いつっ!」
『ゴミみたいな剣なんか、これっぽっちも怖くないんだからな! バーカ!』
「バカって、お前……」
彼は罵倒し慣れている。なんてヤサグれた奴なのだろう。
長い時間、反省房のような地下に閉じ込められていたのだろうから、ヤサグれるのも分かるけど。
――きっと口ゲンカじゃ敵わないんだろう、な。
『神の力なんて、俺の敵じゃねーんだよ! じゃーな、マヌケ!』
子狐は土と螺旋の風の中をグングンと上昇し、ついに地上へ着いたのだろう。
アスファルトの舗装を砕き割り、上空へ――遠い空の先へと姿を消した。
それから数秒遅れ、アスミも地上に出た。
勢いよく外に飛び出し、引力に引き戻され、足をしっかり使って着地する。
アスミは「ふぅー」と細長い息を吐き、呼吸を整えてから、周囲を見た。
ボコボコと波打つアスファルトは縦横に亀裂が走り、めくれ上がり、土地は大きく陥没している。
フルムーンの名前を持つホールも大きくこちらへ傾き、外壁や窓がひび割れ、災害の様相を呈していた。
やはり無事では済まなかったか。でも周囲には誰もいないようだ。
人が被災した様子はないので、ホッとした。
「アスミっ」
声に振り向くと、来栖がこちらへ駆け寄って来た。
泣き顔で、全力で、抱きつかれる。
見るからに軽い来栖の身体が勢いを付け、アスミの胸の中に飛び込んで来た。
「よかっ……無事、だったん……だっ。うっ」
また「うえーん!」と大声で泣き、顔をアスミの胸に押し付け、埋める。
――無事でよかった。
アスミは安堵の息を吐き、冷たい空気を吸い込みながら顔を空に向ける。
間もなく夜明けを迎えるのだろう。流れ行く薄い雲が、淡い光の粒子を含んでいた。
――丑三つ時がどうのとか言ってたけど、もう朝か。時間の感覚が……なんか、ヘンな気が。
でもそれでも、今は今。
「長いこと待たせたな。ごめんな」
「待ったよぉ! 待った待った! すっごく待った! ひとりぼっちで、ずうっと心配してたんだからねっ!」
巻き込んでしまい、悪かったと思う。
自分なんかの心配をしてくれて、やはりこの子は優しいな。
「ところで今、何時だ?」
「六時少し前、かな」
藤沢に電話してくれ、と言うにはまだ早過ぎる時間である。
――しかたない。連絡するのはもう少し後だな。
とアスミが考え始めた時、来栖がこちらを見上げ「ふふん」と笑った。
「え。なんだよ」
「心配してると思って、昨夜メールだけ送ってみたんだ。アスミに地下から追い出された後、暇だったから」
――え。マジか。何て気の利く奴。
「きっとさっき目覚めたんだね、返信くれたよ。昨夜の連絡がつかなかったって言うの、あれやっぱりリハーサルやってたんだって。電源切ってたって。学校の帰りに直接ホールへ来たらしくて、私達と入れ違いくらいに帰宅したらしいよ」
アスミの口から大きな息が漏れ出る。あんなにあんなに心配したのに……藤沢は無事だった。
――よかった……。
思わずその場にしゃがみ込む。
「ちょ、ちょっと……こんな場所で落ち着かないでよ」
「気力が抜けたぁ~」
昨夜からの疲れが一気に押し寄せて来る。
――ね、眠い……! 身体痛い……! もう起きてらん……ね……。
「ちょっとぉ! アスミーっ」
背後から襟首を掴まれる感触があるけれど、もう身体のコントロールは不能だった。
――藤沢さんに「きっとパーティーはお流れだぞ」って、伝えてやりたい。一秒でも早く、聞かせてやりた……。




