06-2
『アスミ』
意識の外から聞こえる女性の声。
『さぁ。手を、足を』
――だれ……。
『強張りを解きなさい。自由に動かすの。こうやって』
ふわり。と軽くなり、身体が浮いたような気がする。
アスミは身体を後ろに反らして宙返りし、三連続で襲い来る爪を眼前で交わした。
地面への着地は全身のバネを使い、充分に柔らかい。
深く膝を曲げ、上体を屈め、バック転した際の勢いを柔軟に殺す。
こんなにもソフトな動きは初めてだ。
――あれっ? 俺、こんな動き出来たっけ。
身体が軽くてあたたかい。まるで深い温水プールにでも入っているかのような浮遊感があった。
『右足を少し前へ。左足も前方斜め横へ』
誘われるまま、足を二歩動かした。
足が地面に着地するたび、その場所が光って見える。
『そうよ、合っているわ。これはあなたが持って生まれた守護星座の配置よ。あなたに力を貸してくれるわ。さぁ、続きを』
誰かが耳元で囁く。
言われるまま、アスミはステップを踏んでいた。
逆らう気持ちが沸いて来ない。言われるまま、誘われるまま、アスミの足が星を描く。
最後の星を踏み込むと、これまで踏んで来た場所が同時に光った。
すると、自分の身体の中にも同じような熱量が吹き出すのを感じた。
足の先から脳天までを貫く衝撃が。
――腹の奥が、熱い……なんだコレ!
驚き、自分の腹部を見つめる。
筋肉を使った時とは全然違う熱さが、全身に広がって行く。
『攻撃がまた来るわ。アスミ、避けて』
影の方へ視線を流すと、それは見えた。
これまでとは比べ物にならないほどの、スローモーションで。
これまでなら脳の処理が追いつかなかったであろう視界の中の物体の動きが、ハッキリと見える。
生臭い息を吐き出す口に見える大きな牙と、それに絡み付いてい流れる泡の混じった透明な唾液。
頭部を捻り込む角度で牙を剥き、こちらの首を狙っている顎と鋭い目。
と同時に、前足が肉を裂こうと爪を剥き出していた。
牙を、爪を、アスミは最低限のアクションで避けた。
ほんの少し上半身を反らし、首を傾け、半円を描くように身体を回す。
影は勢いづいたまま、アスミの後方へと着地した。
アオイが「ははは!」と笑う。
気付くと彼はアスミの背後に居て、更に襲い来る影からアスミを守り始めた。
長い手足が、それこそ流星のように流れて影を砕く。砕かれた影の粒子は、スプラッシュのように弾け飛んだ。
「話は終了しましたか」
チラリとこちらに向けられる流し目が、とてもアオイとは思えない。
アスミは腹の奥がぞわわわわん、となるのを感じた。
――これ〈虫酸が走る〉ってヤツか?
「な、なんの?」と恐る恐る呟く。
「おや、まだですか。こちらは簡単に了解を貰えたのに。けれどその中途半端な状態で自身の星を呼び出せるのですから、噂に違わずかなりの才能をお持ちのようですね。ですがこちらの体力も有限です。ご決断はお早めに」
体力は有限――それはそうだ。
いつまでもこのままでは居られない。無数の敵に対してこちらは、アオイとふたりきり。
――俺のフォローをしてると言う事は、アオイに全ての負担がかかってると言う事だ。キショクワルいなんて考えてる場合じゃない、よな。
『アスミ。あなたのお友達が身体を貸しているのは〈宵闇の伽番〉。そしてわたくしは〈舞の姫巫女〉。わたくしは古代から続く巫女のお役目を継いだ者なの。彼は〈宵さん〉、わたくしは〈舞さん〉と呼んで欲しいわ。よろしくね』
声を聞くのとほぼ同じタイミングで、アスミは瞬きをした。
それがスイッチにでもなったのか。
ふ。と、アスミの意識にイメージが吹き上がる。
そこは淡い光に包まれた明るい空間であった。
中央に、ひとりの女性が居る。
年齢は――自分よりひとつふたつ年上に見える。
彼女は春に咲き誇る花の色を移したかのような、美しい布の和装束を身に纏っていた。
丸みのあるフェイスラインに黒目が潤んだ大きな瞳、爽やかに微笑の弧を描くくちびるは果実の色をしている。
――よ、宵さんと舞さん~っ?
『〈宵闇の伽番〉はこの地に眠る者達を見守り、雑音を遮断するのが主なお役目。だから敵対して来る者を許しはしないわ。そしてわたくしは眠る魂のため、神のために舞を献上し癒しを与える。それが主なお役目よ』
土地とそこに眠る者を守るのがお役目? その割には黒い影が野放しのようだけれど。
でも今は、そんな事を気にしている場合ではないか。
『あの……どうすればこの場を切り抜けられますか』
『あなたの〈踊り〉があれば、土地の力を引っぱり出せるわ。土地の力は神の力……〈現実〉を守るには
〈現実〉が必要なの。〈現実〉とはつまり、あなたの〈身体〉』
――現実の、俺の身体で。
アスミは自分の両手を見つめた。この身体で何が出来ると言うのだろう。
――気になる。つまり、さっき地面が光ったような事、か?
『あなたの身体を媒介にして、エネルギーを必要な方向へ向けるの。彼らへ向けてね。あなたは〈現実〉と〈エネルギー〉を繋ぐ架け橋。でもその橋に要求される条件は厳しくて、誰でもなれるものじゃないわ。そこに居るあなたのお友達でさえ、あんなに踊りの才能が溢れる身体をお持ちだけれど、それでも橋にはなれないの』
言われている意味が、よく分からない。なのに、彼女の言葉は続いてゆく。
『巫女の舞は、少しの狂いも許されない。普通の人間には再現出来ない踊りよ。けれどあなたの身体なら、出来る』
『よく分からないけど、それでこの場が治まるなら』
来栖とアオイを無事に帰せるなら、仕方ない。
『そう、ありがとう。けれどただひとつ――わたくしを受け入れる事で、あなたは〈人の世界〉からはみ出てしまう事になる。それでも構わない?』
『え?』
『これまでのように、無能力では居られないと言う事よ。見えるはずのないものが見えるようになるかも知れないし、使えるはずのない力が暴走し始めるかも知れない。それはきっと、これまでただの人間として生きて来たあなたにとっては、とても厄介な事になるはず。それでも……いいかしら』
その言葉に、抵抗感が生まれた。
こまれでの人生よりも厄介? そんなのはゴメンである。けれど他に選択肢が無いのなら。
――多分、あいつも同じ事を言われたはずだよな……。
チラリとアオイの方に視線を流す。
――俺みたいにウジウジ悩まなかった、ってわけか。
その決断力はすごいと思う。
――リーダーって、無能じゃやっていけないもんな。
アオイの事は、好きではなかった。
ハッキリ言って嫌いだった。
今だって彼に対する嫌悪感は消えていないし、距離を縮めようとも思っていない。
彼が宵闇のナントカを受け入れる理由など、ひとつも無いはず。
この場を切り抜けるためだけに決断をしたと言うのなら、尊敬せずには居られないけど。
――だって、人の境界線を超えるって異常だもんな。あいつ、本当にそんな事を平然と?
アスミは疑ってみるものの、もう彼は答えを出してしまい、戦っている。
――どっちにしろ、このままじゃ逃げ出す事も出来ないか。
アオイに全てを押し付けて、来栖が心配だからと言う口実で自分が逃げ出す事は出来る。けれどそんな事、出来るはずない。
――そんなの、イヤだ。
『分かりました。どうせ俺、普通の気持ちで生きて行けるとは思ってなかったし』
今さら〈普通〉にはなれないと思う。
『そう。あなたのような人は、多かれ少なかれ〈代償〉とでも呼べるような荷物を背負わされてるいるみたいだものね』
――代償、か。なるほどね。
こんな身体に生まれてしまった代償。
家族や他人からの余計な感情の波に飲み込まれ、とても、すごく苦しかった。
――俺、踊るために生まれて来たんじゃないと思うし、自分から望んだ事でもなかったのにな。
でも仕方ない。取り返しなんてつかない。
誰かと身体を取り替えてもらう事は出来ないのだから。




