01-1
■01■
黒板には「出席番号順に着席」とだけ書いてある。
アスミは郵送されて来ていたプリントをポケットから取り出し、番号を確認する。
そして机の数を数えた。一列に机は五個あった。
自分の席はどうやら、四列目の一番後ろのようだ。窓側から二列目の最後。
――あそこでいいんだよな、多分。
もう一度視線で机を確認していると、背後から声をかけられた。
「あの、皆丘くん……?」
女子の声だった。アスミはゆっくり振り返る。
そこには、ふたりの女子が居た。
「あー、やっぱりあの皆丘くんだぁ。久しぶりだね、元気?」
見覚えのない、クセのある黒髪の女の子と、もうひとり。
淡くなめらかで、透き通るような光沢を持つ長い髪の女の子だ。
髪と同じ色彩の瞳が大きくて、どちらかと言うと丸顔かな。こっちも、見覚えがなかった。
でも間違わずに自分の名前を呼ぶなんて、誰だろう。
――こいつら、もしかして。
嫌な気持ちが心を過る。
「葛西さん、知り合いなの?」
――あれっ?
大きな瞳の子が、黒髪の方に問いかけた。
――なんだ。こっちは本当に知らない奴なのか。
アスミはちょっとだけホッとした。
他人にあまり興味が持てないとは言え、こうも顔だの名前だのが記憶から削除され思い出せないでいると、多少不安ではあったのだ。
記憶力、とかそう言うものに。
「うん、そうだよ。三年生の時に同じクラスだったんだよね」
「だよね」と同意を求める視線がこちらに向けられた。
すぐさま反応が、出来ない。
昔の事はなるべくなら、思い出したくない。心にはストッパーがかかっている。
割り切れている自覚も持ってはいなかったし、仕方ないと自分でも思っている。
けれど。
きっと他人は、アスミの気持ちなど考えてはくれないだろう。
当然の事だ。自分だって他人が今どのように考えているかなど、どうでもいいのだから。
でも、イヤだな。と頭の片隅で自分が呟く。
「あれ? 忘れちゃった? あたしってそんな印象薄かったかなぁ? これでも学級委員だったんだけどなぁ。葛西だよ」
――葛西?
沈黙して数秒、考える。
やはり記憶が蘇って来ない。〈葛西〉なら特別珍しい苗字でもないし、この人は顔が強烈なブサイクでもないし、存在にインパクトが無い。
それに。
――三年生と言えば……あの頃だしな。
アスミがダンスを辞めるため、ひとりぼっちで必死に戦っていたあの頃だ。
学校に関する記憶など、ガッポリと抜け落ちてしまっている。
当時の自分がくり返し思い返していたのは、ユニットのメンバーやスタジオでの練習風景。
それから……ケガをした時の異様な感触。
そればかりが意識の中で無限に再生されていた。
それこそ、呪縛でもされたかのように。
食事もしていなかったし、衰弱していたらしいし、精神状態がトラブっていただろうし、目の前の子の記憶など無くてもおかしくはないと思う。
「突然学校に来なくなったと思ってたら、転校しちゃってたんだよね」
「ふぅん、そうなんだ?」
そう。行政から連絡を受け、惨状を見かねた祖父母に引き取られた。
気付いた時、病室で点滴を受けていた。
傍らに居てくれたのは祖母。
ベッドから見上げるカーテンレールが印象的だったな。列車のオモチャでも走っていそうで、ボンヤリと空想していたっけ。
祖母の顔を見た時も、アスミは特に何の感情も浮かんでは来なかった。
ただ、自宅ではない場所に居たので、逃げ出せたのだと言う事だけが分かった。
結局両親は見舞いに来なかった。
裁判をしたわけじゃないだろうし、接近禁止命令などが出ていたわけでもないだろうから、単に来たくなかったと言う事なのだろう。
その後だって、一度も会ってはいない。
アスミだって会いたくもないから、それでいい。
自分の人生に、二度と関わって欲しくない人達だ。
「でも中学で再会するなんて、意外と近くに居たんだぁ。で、席どこ?」
「え? あ……たぶん、あそこ」
「そっか。あたしは入り口側の後ろから二番目だ。離れてるね、残念」
――別に。
誰かと仲よくしたいわけじゃない。こうやって話しているのも、苦痛。
思い出したくない事だって、ガッツリと思い出させてくれて。正直、迷惑だ。
「ゆうなちゃんは席、どこ? あ、皆丘くん、紹介するね。藤沢ゆうなちゃん。同じ塾なんだよ」
――ふ、ふぅん。どうでもいいけど。
「ゆうなちゃん、こちらは皆丘くん。ダンサーなんだよ」
「え? すごぉい……」とゆうながおっとりとした声で呟いた時。
「その話、もうするなよ。俺、ダンスやめたし」
葛西が「えっ?」と少し大きな声を出した。
「うっそ! あんなに頑張……っ」
アスミはそこにあった机を、思い切り叩いた。
思った以上に大きな音が鳴り、話していたふたりどころか、教室中の全員がこちらに集中したのが分かった。
「もうすんなって言ってんだろ……!」
低い声が出た。
葛西が涙目になってこちらを見ている。怯えているようだ。昔のクラスメートにいきなり怒鳴られれば、誰でも驚くだろう。
周囲から白い目で見られるのは慣れている。
アスミは転校してから、友達らしい友達も作らずに過ごして来た。みんなから浮いてしまうのも、もう慣れた。
なのに。
「あの、皆丘くん?」
この雰囲気の中、ゆうなが小さく微笑む。
「わたし、皆丘くんの前の席みたい。だから、よろしくね」
「え? あ、あぁ、うん……」
彼女の笑顔と穏やかな声と柔らかな空気に、尖りかけていた教室の雰囲気が元に戻る。
アスミは苦々しい気持ちで、彼女達から視線を外した。
講堂で入学式の後、教室に戻ってホームルームが行われ、初日はそれで終了した。
礼の後、そのまま教室を出ようとしたところ、葛西に呼び止められた。
「ねぇ、皆丘くんっ」
無視する。
「ねぇねぇ、皆丘くんっ」
無視に限る。
「ねえ、皆丘くんったら皆丘くんっ」
――止めろっ。名前を連呼するなっ。
クラスメートに名前を覚えられてしまうではないか。アスミは〈その他大勢〉の扱いでいいのだ。目立ちたく無いし、誰とも仲よくするつもりはない。
そんなこちらの気持ちなどおかまいなく。
「皆丘くん皆丘くん皆丘くんっ」
まだ大勢が残っている教室で連呼される自分の名前。
さすがに足が止まる。アスミは葛西の方を、憎々しげな表情を作り睨んでやった。
――……ん?
葛西の後ろの席に、何やらグッタリとした女子が座っている。
頬が赤く染まった、ショートカットの女の子だ。ショートとは言っても、ほぼセミロングに近いかも知れない。
「見るからに具合が悪そうだけど」
なぜに自分が呼ばれるのか。
「保健室、連れて行ってあげて」
「えっ」と声を出したのは、アスミとその子、ふたり同時だった。
「そ、そんな……大丈夫だよ」とその子が葛西に訴える。
目が潤んで、怠そうで、動きが鈍くて、覇気のカケラもなく、一生懸命断ろうとしている。
「だって来栖さんのご家族来てないんでしょ? 付き添いくらい居た方がいいって。とにかく保健室行こっ」
――へぇ。この子、入学式なのに家族来てないのか。まぁウチもだけど。
講堂の方にはそれなりの数の父兄が居たようだった。新入生の半数くらいは来ているのではないだろうか。
――普通に仕事していれば自由に休めるものでもないだろうしな。
「付き添いなら、葛西ひとりで充分だろ」
「いいからっ」とふたり分の鞄が押しつけられた。
――か、軽いからいいけどさ。なるほどね、荷物持ちか。
でも三人分の鞄は、持ち難い。
て言うか、保健室は遠いのか? 近いのか? 根本的に場所はどこだ?
廊下に出たところでアスミは「おい」と葛西に声をかける。
「お前、保健室がどこにあるのか知ってるのか」
「え……それは」と葛西の顔が引きつった。
「し、知らないっ。どうしようっ」
「あのねぇ、こっちみたいだよ」と穏やかな声が、アスミを通り過ぎてゆく。背後から前方へ。
藤沢ゆうなが、新入生用パンフレットを広げ、ふたりの女子の傍に立つ。
「西館の二階、だって。ほらここ」
葛西がパンフレットを覗き込みながら「ふんふん」と呟いた。そして「よし、把握」と言うと、歩き始めた。
下校する人達とは反対の方向へ。
流れに逆らって移動する四人。アスミは荷物を持たされて、まるでパシリか手下である。
「皆丘くん、ひとつ持つよ」と、横を歩いている藤沢に、左手で持っていた鞄を奪われた。
それはアスミの鞄だった。
「あ、い、いいよ。軽いし」
「遠慮する必要ないよ、軽いし。具合の悪いクラスメートは、みんなで助け合わなきゃ。ね」
小首を傾げて微笑む藤沢。気のいいと言うか、お人好しと言うか、見ているこちらの気力が抜けそうになる微笑みを浮かべている。
「わたしだっていつか迷惑かける事があると思うし、その時は、よろしくお願いします」
「う、分かった」
「へへっ。断られなくてよかった」
そう言って笑う藤沢は、まるで小さい子供みたいだとアスミは思った。