05-3
――……?
男の声が聞こえた。誰も来そうにない、こんな場所に誰かが来たのか?
「だっ誰だよお前っ! 放せっ」
「俺もそいつの事は気に食わないし、大嫌いだ。けど、一線は越えるなよ」
「関係無いだろっ!」
「ああ、関係無いよ。でも常識的に見過ごせる事と見過ごせない事があるだろう。それくらい分かるな?」
「放せ! 放せ! 放せぇーっ!」
アスミは目を開け、気配の方に顔を向けた。
そこには暴れている来栖と、見知らぬ男が居た。
ジタバタしている来栖の両腕を、背後から押さえつけている。
「暴れても無駄だ。細くて筋肉も弱々しいお前が、俺に抵抗しきれるとは思っていないだろう?」
スラリとして手足が長く、余裕で来栖を押さえつけている。
アスミは驚いて、その横顔を見つめた。
黒い瞳で、睫毛がちょっと長い。
鼻筋が通っていて、くちびるは少し薄い方だろうか。
自分よりは年上で、多分、高校生。
――だっ誰だ……?
知っているような、知らないような、奇妙な感じである。
男は来栖の身体をうつ伏せにして地面に押さえ付け、右腕で彼女の両腕をその背中に押さえ付けた。
『俺もそいつの事は気に食わないし、大嫌いだ』
――もしかして。いや、まさか……。
だけど。
その人が強い視線をこちらに向け、言う。
「もう少しこっちに来い」と。
「俺の腕が届くくらいまで」
「えっ」
「そのロープ、切ってやるから」
言われてアスミは上半身を起こして立ち上がり、ふたりの方に近づいた。
そして彼の腕がロープに届きそうなくらいに距離を縮め、屈み込む。
近づいて見た来栖の表情は……常軌を逸してもいないし、目がイッたりもしていなかった。
いつもの来栖、なのだ。
笑ってこそいないけれど、普通の。
アスミと視線が交わっても、いつもと同じ。葛西や藤沢と話をしている時と、変わらない。
理性を失っていないクラスメートの姿がそこにあった。
そして少し離れた地面に落ちていたのは、カッター。刃物、だ。
それでアスミの足を切ろうとしていたのだろう。
いや、足だけではない。
きっと、身体中。
アスミが死んでしまうまで。
カッターは男の腕に届く距離ではなかった。あれを使うわけではないようだ。
右腕で来栖を地面に押さえつけた男は、左手をアスミの身体に走らせる。
どすん。とした衝撃の後、少しだけ食い込みが弛んだ。
腕にグッと力を入れると、ロープはパラリと解けた。
――こいつも刃物持ってたのか?
疑問を抱いて、男に視線を向ける。
微笑まない、あたたかくない、切れ長で整った顔の、その瞳とアスミの視線が、交わった。
ツンとした視線が神経に突き刺さる。
この感じ。妙にイヤな感じ。
自分は完全に、この人を知っている。
でも、どこの誰だ。
ハッキリせず、思考がモヤモヤとし始めた時。
無表情のままで彼は呟いた。
「ダンサーだからな。裁縫セットはいつも持ち歩いている」
――……っあ。
『アスミ。スパンコールが外れかけてる』
そう言ってレッスン場の隅っこで、衣装に縫い付けてくれたのは、あれは……。
「……アオイ」
掠れた声でその名前を呼ぶと、男はつまらなそうな表情をしてアスミから視線を外した。
その顔の反らし方と言い、タイミングと言い、スピードと言い、間違いない。
あのアオイだ。
アスミの事を嫌っていると言っていた。
言われなくても分かっていたけど、ならばなぜ助けに来た?
全く無関係の、この人が。
――いや。俺の事を嫌ってはいても、良識は持ってた。
彼らはアスミを、楽しみのため仲間外れにしていたわけではない。
噛み合わない歯車みたいに、お互いが迷惑だと感じてしまうほど、相性が壊滅的に悪かったのだ。
良識があるから苦い表情を浮かべ、必要以上に近寄る事が出来なかったのだろう。
決して、虐めて喜んでいるような人達ではなかった。
だからそんなアオイだから、こんな異常な状況に出て来てくれたのだと思う。
――やっぱこれって異常、だもんな? どうしてあいつがここに居るのかは分からないけど。
「ねぇアスミ。お友達が来てくれたからって、助かったなんて思ってないよね?」
土の上に倒れ臥す来栖が、微笑んだ。その時。
複数の影が空間を飛び交い、それぞれがアオイの身体を通り越して行った。
左腕を顔の前に掲げ、ガードの体勢を取っていたアオイの身体から。手の甲から。
血が、飛び散った。
赤い粒が空間に浮き上がり、スローモーションのようにアスミの視界の中で散ってゆく。
アオイは悲鳴を漏らさず、こちらに向かって呟く。
「大丈夫だ。表面を切られただけだ」と。
だけど、それだけで済むはずがない。
周囲の影がくんくん、と鼻を鳴らし始めた。きっとアオイの血の臭いに反応しているのだろう。
彼らの気配が、そそり立ってゆくのが感じられた。
――マズいヤバい。
それだけが分かる。このままではふたり共、襲われる。
――武器、無い……! ばっはんそーこー……使えねぇ!
かと言って、素手で応戦出来る相手ではない。相手の方が数も多い。
――腹を空かせた野犬に取り囲まれてるようなもの、か。
しかも相手は、肉体をとうに失っている。あそこに居る狐や鹿だって、アスミに見えているだけで実体ではないのだろう。
昔の、恨みを抱き続けた野生の獣。
脇腹が痛い。顔が痛い。
――どうすればいい?
自分ひとりなら諦めてしまう事も出来た。
でもアオイが居るのでは、そうもいかない。
何の関係もないのに、助けに出て来てくれたアオイ。
アスミの事なんか嫌いだと断言しているのに、それでも今、ここに居て、血を流している。
「アオイ……何でここに居るんだよ。どうしてっ」
「お前は気付かなかったんだな。まぁ、仕方ない。巡り合わせなんだろ」
「分からないし!」
「俺にだって分かんないよ。今夜は友達の家でお泊まり会だったのに……ほんと、ナニやってんだかな」
――なにぃーっ? どうしてお泊まり会に行っていないんだよっ? しっかりとスケジュールがあったくせに、どうして!
「て言うか、お泊まり会って、彼女とじゃ……」
アオイは昔から、女の子達にキャーキャー言われていた。彼女の五人や十人、作ろうと思えば作れるはず。
お泊まりデートをキャンセルなんかしたら、後々モメてしまうのではないだろうか? とアスミは心配したのだが。
「残念ながら違うけど。お前、言うようになったな」
「え?」
――あ! さすがに失礼過ぎたかっ。
仲がよくない先輩に対して、さすがに生意気で失礼だったかも。ウッカリ軽口をたたいてしまった。
「す、スミマセ……」
「もう中学生なんだよな。進学おめでとう。アスミ」
それはあまりに、現状には不似合いな言葉だった。
ので、脳が言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
そして意味は理解出来たけれど、お祝いの言葉がスンナリと自分の中に入って来ない。
あのアオイが……自分の進学を祝ってくれているなんて。
あのアオイが!
驚き過ぎて、身体中のエネルギーが逆流してゆくのを感じた。
「なっなんでっ、こ……こんな時に、そんなっ、こと……っ」
声が震えて、恥ずかしい。




