03-2
『へぇ? あれが藤沢ゆうななんだァ。あたし、初めて見るよ』
くすっ、と小さな笑いが周囲から複数聞こえて来る。
『あの子だけはさぁ~、緊張したとか言う言い訳は出来ないよねぇ』
『ふふっ、そうね。だってあの子はいつだって、最高の環境で練習出来るわけだしィ』
『こんな、市民会館みたいなビンボクサいホールじゃなくて、フルムーンホールって言う立派な施設の孫娘様なんだもん』
『プロの使う舞台で練習し放題なのに、下位入賞さえ出来ないんだもんな』
『練習どうこうじゃなくてさぁ、本格的に才能が無いだけなんだろうよ』
『あんまり言ってやるなよ、可哀想だろ……ぷ』
演奏会やコンクールに出場させられるたび、ゆうなは影で笑われ続けた。
同じくらいの年齢の子が集まり、競争させられ続ける狭い世界。
ストレスの溜まる環境において、ゆうなは格好のサンドバッグだった。
見返せるだけの実力があれば入賞を目指し、頑張れもしただろう。
けれどゆうなは、自分に才能があるとは思えなかった。
イライラをゆうなにぶつけているあの人達のように、真剣になれもしない。
吹奏楽部に居た母親に言われるまま、習い事を続けさせられて。
ずうっとずうっと、我慢させられて。
本当は嫌なのに。やめたかったのに、許されなくて。
抜け出す事が出来なくて、叩かれ続けて中学生になった。
――吹奏楽部、か。
入学式の日に見に行ったけれど、彼らは居なかった。
それから後、足を向ける気持ちになれず、見に行っていない。
入りたいわけではない。ただ、どんな雰囲気なのか見てみたかったのだ。
学校で活動している人達は、どんな感じなのか。習い事の人達のようにギスギスとした雰囲気なのか、それとも。
楽しい、のか。
ゆうなはみんなが、あんなに攻撃的になれる理由が理解出来なかった。
ゆうなに嫌味をぶつけたところで、彼らの成績がよくなるわけでもないのに。ほんの少しストレスが解消されるだけで、それ以上何も掴めないはず。
なのに、そんなにギスギスしてしまうほどに自身を追い込める人達が、心の底から理解出来ない。
吹奏楽部にはそれがあったりするのだろうか。
自分の気力と時間を費やしてでも打ち込めるだけの価値を、彼らは知っているのだろうか。
そんな興味だけがあった。それ以外にはない。
商業ホールのオーナーを祖父に持つ子供。
そんな環境を、他の人間は望むのだろうか。
ホールなんて勝手に使えはしないのに、本当に羨ましいと考えているのだろうか。
ならばその人がゆうなの変わりに、あの両親の子供に生まれればよかったのに。
こんな環境、自分は要らなかった。
「藤沢さん、こんなところに居たんだぁ」
ゆうなはハッとして振り返った。
そこには来栖冴季が立っていた。ドリンクの自販機とベンチが設置された、購買部の一角に。
「私もジュース飲みに来たんだぁ。隣、いい?」
「どうぞ」
いつも通りに返事をしたと思ったのに、自分の声は小さかった。
こんなじゃいけない。関係ない人に、心配をかけてしまう。
ゆうなは来栖に笑いかけた。
それがぎこちなかったのか、わざとらしかったのか。
彼女は「無理しなくていいよ」と、優しい声で言ってくれた。
「あ、そうだ。これあげる。クランベリーのキャンディだよ」
「え……あ、ありがとう」
「入学式の日は、ありがとうね。優しくしてもらえて、嬉しかった」
来栖は照れくさそうにそう言って、視線を反らした。
その仕草がとても可愛らしくて、ちょっとうらやましい。
――そう言えばこの子、あの時は皆丘くんを見て驚いて倒れたんだっけ。
発熱してしまうほどの驚きとは、何なのだろう。
「来栖さんって、皆丘くんと知り合いだったの?」
「ん? ん~……どちらかと言うとお姉ちゃんの方、かなぁ。習い事が同じだったんだけど、彼の方はこれっぽっちも覚えてなかったよ。習ってるスタジオが違うから当然と言えば当然、なんだけど」
「あ、ダンスしてたって葛西さんが言ってたね。来栖さんはやってなかったの?」
「私は――スタミナの無い身体だし、ちょっと無理かな」
苦笑いを浮かべる来栖。
「あっ、ごめんなさい」とゆうなは慌てて謝った。
「気にしないで。こんな小さな会話を少しずつ重ねて、友達になるんだもん」
「……皆丘くんとも?」
「彼はあまり友達は欲しくないみたい」
――でも、今は「アスミ」って呼び捨てにしてるのに。
彼ともこうやって話をし、アスミと呼べるほどに距離を詰めたのだろうか。
――たった数日で?
ゆうなはチラリと来栖の顔を見つめる。
頼りなげな瞳と華奢な身体、そしてふわふわと揺れる髪の毛。
顔立ちは少し童顔で、愛らしい。
他人に話しかける勇気があって、身体が弱くて、キャンディくれたりして、優しい。
友達を欲しがらない彼でも、心を許すかも知れない。
この子が自分なら、ゆうななら、もっと上手く人付き合いが出来たのだろうか。
やりたくない事に対して「嫌だ」と断れたり、意地悪な事を言われた時に、きちんと言い返せたり。
――考えても仕方ない事だって、分かってるけど。
考えてしまう。
――お姉ちゃん、か。わたしも欲しいな。
もし居てくれれば、ふたりで家族に対する愚痴を言い合ったり出来ただろう。
そうすれば、自分の考えが間違っているのか、そうでもないのか。探る指針になってもくれるだろう。
これほど心細さを覚えたり、それこそ皆丘アスミに来て欲しいなんて、迷惑な事も言わずに済んだかも知れない。
――ひとりぼっちには慣れていたはずなのにな。
知り合ったばかりの男子に縋り付いてしまうほど、自分は不満を溜め込んでいたのだろうか。
いたのだろうな。発散する場所も時間も見つけられないのだし。
情けないな、と思った。
「藤沢さん、苦しそう」
「え?」
「ごめんね。他人からこんな事は言われたくないだろうけど、でも、あの時『労ってあげなきゃ』って言ってくれて、私、嬉しかったから……だから、言わせて」
「な、なに」
「あまり思い詰めちゃダメだよ」
来栖冴季の優しい微笑みに、呼吸が止まる。
穏やかな風が吹いて揺れる髪のように、ゆうなの心が揺れた。
柔らかく、静かに、涼やかに。
彼女の言葉で。その瞳に見つめられて。
心の緊張が、解けてゆく。
「あ……あり、がと」
そう返すので精一杯だった。それ以上は何も言えない。
言葉が浮かんで来ないし、このまま話を続けたら、また涙を零してしまいそうだった。皆丘アスミの前で零してしまったように。
「じゃああまり長くお邪魔しても悪いから、私もう行くね」
彼女は立ち上がり、小さく手を振りながら行ってしまった。
ひとり残され、とくんとくんと鼓動が小さくざわめく。
これは予感だろうか。
嫉妬だろうか。
憧憬だろうか。
わけが分からないまま、震える息を吐き出す。
――優しくされて疲れるなんて、どうしちゃったんだろ。わたし。
瞳を、閉じる。
――どうしてこんなに、悲しいの……。




