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流星群  作者: せせり
明晰夢
9/28

2

  夢を見ていた。

 明晰夢。これが夢だと知っていながら観る、夢だ。

 水の流れる音がする。

 河原だ。いつも渡っている古い石橋の、ちょうど下あたり。橋の足の、濃い影にかくれるようにして、少女が座りこんでいる。

 羽純が泣いている。今よりひとまわり小さなからだを、きゃしゃな肩を、震わせて泣いている。声もあげず、だけど、こころは軋んで悲鳴をあげている。律にはわかる。

 そろりと羽純に近寄る影がある。やせっぽちで、ちびの、自分。

 律はまるで映画を観るように、かつての、十二歳のふたりを観ていた。

 羽純のお母さんが亡くなって一か月が過ぎたころのこと。ずっと気を張って笑顔すら見せていた羽純の糸が、切れた瞬間だった。それでも気丈な彼女はみんなに涙を見せるのを嫌がった。だから、ひとりきりで、水の流れに紛れ込むようにして泣いていたのだ。

 律がその場に居合わせたのは、たまたまだ。おつかいを頼まれて小学校そばの中居商店へ行き、帰っていた途中だった。夕陽を跳ね返す川面があまりに美しくて、河原に降りて寄り道した。橋の影に、ちいさな、人の姿を見つけたとき。最初、幽霊だと思って身構えた。だけどちがった。

 羽純だ。羽純がひとりで泣いている。そう気づいた瞬間の、胸のきゅっとすぼまる感覚を。律はまるで時を巻き戻して十二歳に戻ったかのように、まざまざと思い出す。思い出す? いや違う、もう一度、同じ感覚におちいっているのだ。

 重く沈む静けさに、戸惑うかつての自分に、律は手をのばして、だけどけして触れられないことを思い出して、引っ込める。

――あの時の僕には。十二歳の僕には、彼女になんと声をかけていいのかわからなかった。今なら、ただ寄り添って背中を撫でたり、できることならそっと抱きしめたいと思う。思うだけで多分できないけど。それでもあの頃の自分より、いくらかはましだろう。

 言葉なんかいらなかった。ただ、思う存分、泣かせてあげればよかったんだ。

 なのに僕は。

 十二歳の羽純は律の気配に気づくと、野生動物のようにびくりとからだを震わせて、さっと涙をぬぐった。

「……あ。ごめん」

 とことん間抜けな小六の律は、とことん間抜けな声を出した。羽純はきまり悪そうに律から目をそらすと、

「……帰る」

 とだけ言って立ち上がる。

「羽純っ」

 呼び止めていた。かける言葉もないくせに、律はとっさに羽純を呼び止めた。

「僕のおじさんが……」

「おじさん?」

 いったいぜんたい、どうして、夢の世界に憧れるあまり、ほんとうに夢の世界に行ったきり帰ってこなくなった叔父のほら話をする気になったのかわからない。羽純も怪訝そうに眉を寄せている。引っ込みのつかなくなった律はぎゅっと固く拳を握りしめ、話しはじめた。

「亡くなったひとはみんな、ふたご星に行くんだって、言ってた」

「は?」

 もっともだ。もっともな反応。だけど律はつづける。背中にへんな汗をかいていた。心臓がかつてないほど速く鼓動をうっているのだ。羽純の泣き顔に心臓をつかまれた瞬間からずっと。壊れたみたいにとくとくと鳴り、からだじゅうに血がめぐって熱い。

 自分の顔があわれなほど赤く染まっていて、律はいたたまれない気持ちになる。

 いままでかわいいともなんとも思ってなかった、博己と同列の、男子の友達と同じ感覚で遊んでいた羽純を。はじめて意識した瞬間。とてもじゃないけど直視できない。

「亡くなったひとは宇宙のどこかの星に行くんだよ。地球の記憶はなくしちゃうけど、いるんだ。時々地球での人生を夢に見るんだ」

「なに言ってんの? イミわかんない」

「おじさんが言ってたんだ」

 ゆで蛸のように真っ赤な顔して。はじめての感覚に舞い上がって混乱して。羽純の気持ちを、母をなくして泣いていた羽純の気持ちを、置き去りにしていた。

「おじさんが。ラジオをくれたんだ。ふたご星にいるひとの、声を聴かせてくれるんだって。だからきっと、羽純のお母さんも、」

「バカにしないで」

 ぴしゃりと、羽純は律をさえぎった。もう涙は浮かんでいない。かわりに、きつく律をにらみつけている。射抜くような、するどい光をもって。

「バカにしないで」

 もう一度吐き捨てると、羽純は駆けだした。目の前にぼうっと立ちすくんでいる律と肩がぶつかる。勢いで一瞬ぐらつく律になど構わずに、河原を走り土手をのぼっていく。石橋を渡り、林を抜けて。わき目もふらず自分の家へと駆けて行く。

 母をなくしても、羽純には帰る家があった。同じ痛みをかかえた父に、兄に、祖父に、自分が心配をかけるわけにはいかない。そう思っていままで耐えてきたんだろう。

 置いてけぼりにされたかつての自分の輪郭がおぼろにかすんでいく。そろそろ目が覚めるころだ、と律は思った。



 目が覚めるとそこは廃校舎ではなく、自分の部屋のベッドの上だった。

 頭も、からだも、やたら重い。いつも唐突に眠気が訪れる。過去の夢に沈み、目が覚めたときはいつも、どこまでが夢でどこからが現実なのか、ひどく足もとがあやふやで立っていられない、そんな気分になる。

「バカだよなあ、僕も」

 ひとりごちる。まだ胸が痛い。はじめて誰かに特別なときめきをおぼえて、はじめて誰かを傷つけた。羽純はいまもきっと忘れてはいないだろう。あれからさらにいろいろあったし、それなりに成長したし、羽純だってゆっくりと母の死を受け入れていった。今さらもう、おたがいに、あえてあの時のことをほじくり出そうなんて気にはならない。

 むくりと起きあがってゆっくりと現実を自分に馴染ませていく。うす暗い部屋。壁時計の針は七時半を指している。午前だか午後だかはわからない。

 出窓にかかった青いストライプのカーテン。小学校時代から使っている学習机。参考書や、お小遣いをはたいて少しずつ集めた、翻訳もののジュブナイルSFやミステリの文庫本がずらりと並んだ本棚。漫画もたくさんある。一番気に入っているのは、大ヒットしたアニメの原作本で、律が買って木原に貸していた。木原は木原で、姉の本棚から漫画本をくすねては律に貸してくれた。木原の姉は膨大な量の漫画を所有していて、遊びに行くとそれらを読むだけであっという間に日が暮れたものだった。

 木原のことを思い出すと、みぞおちのあたりがすくんと痛む。どうして、という謎とともにまとわりつく、不快な痛み。羽純のことを思うときの、少しだけ甘さをふくんだ痛みとはまったくちがう。振り払うように律は部屋を出た。階段を降りる。ダイニングはほの暗く、ひとの気配はない。と、がちゃりとドアの開く音がして、誰かが帰ってきた。

 母だった。スーパーの袋をかかえた母がダイニングに来た瞬間、律はとっさに隣のリビングに身をかくした。なぜそうしたのかはわからない。薄闇の中で見た母の顔があまりにも疲れてやつれていたので、動揺していたのかもしれない。

 母は能面のように表情の消えた顔で、袋からお惣菜のパックを取り出し、テーブルに並べはじめた。お皿に移すこともしない。冷蔵庫からラップのかかった冷やごはんを出し、レンジにかける。あたため終わると、母は茶碗によそったごはんにお茶をかけてすすり、まだ半分以上残っているのに箸をおいた。せっかく買ってきたのに、惣菜には箸すらつけていない。そのまま母は椅子に腰かけたまま、ぼうっと虚空を見つめている。

 具合でも悪いのか、と思った。どんなに忙しくても食事は手作りするのが母のこだわりだったのに、最近はいつも出来あいのもので済ます。父はそんな母に何も言わないかわりに、これみよがしにため息をつくようになり、とうとうあきらめたのか、外で食べてくるようになってしまった。

 両親に何があったのかは知らない。いさかいすらもない。だけどふたりの間にある溝は深く、そこにある空気はつめたくて。律は目をふせた。母に声をかけるタイミングがわからない。あんなに放心して、抜け殻みたいになった母に何を言えばいいかわからない。

 母のあんな姿を。以前にも見たことがあると、律は思った。

 叔父が亡くなったときだ。だけど、そのときの律の記憶はあやふやだ。溺死、ということは知っている。あとは何も。あまりに自分もまわりも混乱していて、幼かった自分の身をまもるために、律の脳は克明に記憶を刻みつけることを拒否したのかもしれなかった。

 そっとリビングを出て、母の背後をすり抜けるようにして玄関へ向かう。母は気づかない。その目はぽっかりと空いた黒い穴のようで。ほんとうに、なにも見えていないのかもしれない。

 これからどこへ行こうかと。ぼんやりと、律は、考えていた。



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