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五月。
教室での力関係は変動せず。律も、底辺のそのまた底の存在のまま、ずっと無視され続けている。怯えたような目で律のことをちらちら見やっていた木原は、連休明けから、学校を休みがちになった。良心の呵責に耐えかねたのかもしれない。かつては、親友と呼べるほど仲が良かったのだから。
博己とは、だれもいない屋上でとりとめもない話をする。羽純が加わることもある。理系クラスの羽純の教室は、棟は同じだけど階が違って、なかなか学校で顔を合わせる機会がない。それでも、三つ葉女子に通う笑里よりははるかに接点が多い。
「だりーな」
と。博己はフェンスにもたれかかかってあくびをした。さっぱりと短い髪は、プールの塩素のせいで色が抜けて、陽光をあびてわずかに茶色がかって見える。
「今週から、屋外プール解禁でさ。放課後がんがん泳ぎまくってっから、めちゃくちゃ眠い」
「寝ればいーじゃん」
昼休みなんだし。律がそう言うと、
「それもそだな」
と。屋上のまんなかで、あおむけにころがる。制服が汚れるのなんかお構いなしだ。泥をかぶって遊んでいた子どものころと変わらない。図体はずいぶんでかくなったし、ダンジョコウサイなんて厄介なものに手を出したけど。
「なんだよ律。せつなげな目で俺のこと見つめちゃって」
「だれがせつない目なんぞ」
「ごめんね律ー。気持ちにこたえてあげられなくてー。俺、めちゃくちゃかわいい彼女いるからあー」
「知ってるし」
寝転んだままくねくねとからだをよじってふざける博己に、つめたい一瞥をくれてやった。
「毎日毎日、ブカツ、ブカツで。いつ笑里と会ってんの?」
律は博己のとなりに腰を下ろした。羽純がいないタイミングで、一度、笑里のことをちゃんと聞いておきたかった。どういうつもりなんだ、と。
「平日はあんまり会えないよなー。一緒に帰るにも、部活終わるまで駅でずっと待たせるわけにもいかねーし。笑里の親、いっつも送り迎えしてんじゃん?」
「ん。箱入りだよな、たしかに」
「まだ、笑里の親には知られたくないかな。いや、もちろん真剣だよ? だけどさー。ちょっと、なあ……」
「ま、それはわかるかも」
笑里の家は古くからの地主で、かなり裕福で、大きな屋敷をかまえている。そんな彼女の両親も祖父母も、かしこまったところや偉ぶったところはなく、むしろやさしい。だけど、娘の笑里を、それはそれは可愛がっているのだ。いくら幼なじみの博己とはいえ、「娘さんとおつき合いさせていただいています」などと言うのはそうとうに勇気がいる。いやむしろ、幼なじみだからこその恥ずかしさや照れも邪魔するのかもしれない。親同士のつき合いというものもあるし。
真剣、か。
若葉のにおいがまじった風にのって、どこかに流されてしまいそうだったけど。真剣、と。ほんとうに、さらりと博己はそう言った。
「そうだよな」
律はひとりごちる。そりゃ、そうだよ。だって笑里だ。さすがの博己でも、いままでの女の子たちみたいに、「やっぱつき合うのやめる」なんて、簡単に振って泣かせたりしないだろう。
ということは、つまり。もう完全に、羽純のことは、吹っ切ってるんだな。
いちばん聞きたかったのはそのことなのに、どうしても口に出せずにいる。
予鈴が鳴った。
「あー。まじ休み時間終わるの、はえーわ。授業はめっちゃ長いのに」
ゆらりと立ち上がって、博己は、うーん、と伸びをする。ただでさえ長い手足が、ほんとうにどこまでも伸びていきそうだ。
「俺、戻るわ。律は?」
なんで確認するんだろう。それじゃ僕がさぼり魔みたいじゃないか。そう思って律は苦笑した。
「戻る。教室」
律よりひと回り大きい博己の背中に隠れるようにして、教室に入る。クラスメイトたちはまだテンション高くはしゃぎまくっていて、一部の真面目な生徒だけが、つぎの授業のテキストを広げて予習の確認をしている。
と。真ん前にいる博己がいきなり歩みを止めて、律は鼻のあたまをぶつけてしまった。
「ちょ。どうし、」
た、まで言い終わらないうちに、博己はずんずんと大股で歩きだす。いちばん窓際、後ろの席――律の席、に向かって。
「おまえら。そこ、どけよ」
博己の、腹の底から絞り出したような、低い声。
律の机を取り囲んで騒いでいた、男女四人の生徒たちが、一瞬で凍りつく。
「どけ、っつってんの!」
博己が大きな声をあげた。律の机に座っていた男子が、わけがわからないといった顔をして、それでも博己の迫力にはあらがえず、しぶしぶ机から離れる。
「どしたの沢村ー? なに? 機嫌わるくないー?」
怒鳴られたグループの女子のひとりが、甘ったるい声を出して博己の腕に手を添える。汚いものに触れられたときみたいに、博己はさっとその手を振り払う。
「触んな。勝手に、座んな」
ポケットからくしゃくしゃのハンカチを取り出して、手のひらでごしごしとしわをのばしてから、博己は、律の机を拭きはじめた。
「ひろ、き」
その背中が、わずかにふるえているように見えて。思わず手をのばした律に、
「おまえも触んな」
と。しずかに告げた。
教室は一瞬、しんと静まり、それからすぐに生徒たちは我に返ったかのように自分の席でつぎの授業の準備をし始めた。五時間目の担当の教師が来るまで、博己は律の机をがむしゃらに拭いていた。
*
ガ・ガ・ガ。
ラジオのノイズがうるさい。いつものように、律は、古い廃校舎で、高校のそれより一回り小さな机に突っ伏して、叔父の形見を見つめている。
博己の、何もかもを排除するような、大きな背中が頭から離れない。あんな博己、はじめて見た。まるで、声を出さずに泣いているみたいだった。机に無断で座られることなど、律はそれほど気にしてはいない。無視されるようになる前、たとえば中学時代だってそんなことはしょっちゅうあった。相手には悪気など露ほどもなくて、律が戻ってくると、ごめんごめんと笑いながらどけてくれたものだった。
なのに博己があんなにむきになるとか。
自分をかばってくれたという嬉しさもあるが、それよりも、戸惑いのほうが勝っていた。
ガ・ガ・ガ。ザー、ザ・ザ・ザー。
……つ。り……つ。
思わず顔をあげた。
砂嵐のようなノイズに混じって、なにか、人の声のようなもの、それも、男性の――が、聞こえたような気がしたのだ。
つまみを回してボリュームを上げる。耳につくノイズ。それ以外、なにも聞こえない。
――気のせい、か。
ため息をひとつこぼすと、ラジオの電源を切った。と、唐突に激しい眠気が律を襲った。そのまま、ふたたび机に突っ伏し、律は別の世界へ沈んでいく。




