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自転車を止め、長い石段を駆け上がる。桜はもう散って、若い緑が萌えだしていた。グラウンドに生えた雑草はぐんと伸びていて、いまいましく思いながらも突っ切って走った。
いつのまに、こんなに狭くちいさくなっちゃったんだろう。
グラウンドの端には体育倉庫があり、その後ろには、まるで倉庫を包み込むように、大きな楠の枝が伸びて葉を茂らせている。
ああ。緑は。いのちは。生きているものは伸びていく。なのに。
夕暮れを背に、ふるい廃校舎はさびしげにたたずんでいる。
子どもたちも先生もいなくなった学び舎はどんどん朽ちていく。いまはまだ傷みはそれほどひどくないけど。それでも羽純たちの通っていたころと比べると、あきらかに劣化がすすんでいる。
グラウンドと校舎とをつなぐコンクリの階段をのぼり、そのまま玄関ホールへと進もうとして、羽純はふと足をとめ、頭上を見上げた。ちょうどここは、褪せたこげ茶色の、横に長い木造校舎の真ん中のあたりで。瓦葺の屋根のすぐ下あたりに、まるい時計がはめ込まれている。
針は六時二十五分で止まっている。午前なのか午後なのかはわからない。
止まってしまった時計の針。もう二度と動かない。
だれかが、ねじを巻かないかぎりは。
きゅっと唇をかみしめ、羽純は玄関のとびらを開ける。
かつては芝を模したマットやすのこの置かれていたセメントの土間で靴を脱ぎ、上がり框に足をかけ、廊下へと上がる。置きっぱなしにしている上靴に履き替える。
律はたぶん、六年生の教室だ。
長い長い板張りの廊下を歩く。
「六年」のプレートがかかった教室の引き戸に手をかけ、がた、がた、とつっかえながらも一気に引く。
と。
やっぱり、いた。羽純はため息をこぼす。
カーテンの取り払われた窓の外で、伸びたせいたかあわだち草が揺れている。そのすきまをくぐるように、朱い西日が射しこんで教室を満たしている。黒板も。床板の木目も。背面の掲示板も、丸椅子に座った律のうしろすがたも。朱く染まっている。
律はいつも、ここでひとり、ちいさなトランジスタ・ラジオを見つめている。
「きょうは宇宙の電波、こないの?」
わざと明るい調子で話しかけると、律はゆっくりと振り返った。耳横まで伸びた、やわらかそうなくせっ毛が揺れる。薄っぺらいからだつきのせいか、水泳のせいで肩ががっちり大きくなった博己がいつもとなりにいるせいか、律は華奢で繊細に見える。その表情も。一重だけれど大きなアーモンドアイはいつだってすずしげで、悲しみ、喜び、悔しさ、そんな強い感情をあらわにしたことがない。すくなくとも、羽純たち四人の前では。小さな小学校の小さな教室でずっと一緒にすごし、放課後だってさんざん遊んで、きょうだいと同じくらい濃い関係なのに。かっとしたり泣いたりする律を見たことがない。律をまとう空気はいつだっておだやかに凪いでいる。
「羽純。珈琲でも、飲む?」
律が笑った。こくりと、うなずく。
律はふたりぶんの紙コップを棚から取り出したけど、きっと「ほんとうに飲む」のは自分だけ。なんだかすべてがもどかしくてたまらなくなって、羽純はきゅっと痛む胸を押さえた。
ガ、ガ、ガ、と。ラジオからノイズが聞こえる。電源ランプは赤く光っている。
律の亡くなったおじさんが遺してくれたという古いラジオ。おじさんは結局、ずっとコドモだったんだよ、といつか律は言っていた。三十すぎても定職に就かずに、自宅の離れにこもってノートに物語を書いていたという。だからといって、作家になりたいとか、そういうわけでもなかったらしい。「何か」になるのを拒んでいたのかもしれない、と、律は自分の叔父を、そんなふうに言ったのだ。
そんな彼が書いていたお話のひとつが、ラジオにまつわる物語だった。死んだひとが宇宙のどこかにある「ふたご星」で暮らしているという話。
羽純の母が亡くなって、初七日が過ぎ、しばらくした頃だったろうか。大野川の石橋の下に隠れて、ひとり泣いていたことがあった。誰も来ないと高をくくっていたのに律が来た。あわてて涙をぬぐった羽純に、彼は、話してくれたのだ。
「ばかにしないで」
と。羽純は言った。お母さんはもういない。苦しんで、痩せこけて、さいごは眠るように、逝った。焼かれて骨になった。宇宙のどこかでしあわせに暮らしているだなんて、そんな子どもだましの夢物語なんて、そのときの自分には、ただ、残酷なだけだった。
「あのときは、ごめんね」
しずかに告げる。
「あのときって、いつ?」
律はとぼける。ラジオは一度だけ、羽純にやさしいメロディを届けてくれた。夏の夜、漆黒の空の下。羽純、律、笑里、それから博己。四人でジャングルジムにのぼって、星のない空を見上げながら。からだぜんぶを耳にして、かぼそいメロディを拾った。
あれは夢だったんだろうか。四人で見ていた、夢だったんだろうか。
律のおじさんは、やさしい夢の世界へ行ってしまったのだろうか。
「律」
こころもとなくなって、律のカッターシャツをつかんだ。まだ彼は制服のまま。というか、いつも制服なのだけど――。
「あんたは、行かないでよ」
ぎゅっと、手の中のシャツを、にぎりしめる。こうして触れられることに、かろうじて安堵をおぼえる。かぼそいかぼそい、希望の糸。
「どうしたの急に」
律はわらった。うすい肩を小刻みにふるわせて。
古ぼけた木枠に囲まれた窓ガラスから差し込む朱い陽を反射して、こぽこぽと音をたてるサイフォンのまるいガラスがきらりと光る。朱はどんどん濃くなる。珈琲の香りさえも染め上げていく。
やっぱり、ぜんぜん、わかってない。
あたしも笑里も博己も、願っているんだよ。強く、強く、思ってるんだよ。
律。どこにも、行かないで。
だけど、律だけが。本人だけが、なにも、知らない。