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――律は相変わらず。自分の置かれている状況に気づいていないみたい。
シャープペンシルを転がしながら羽純はため息をついた。
痛み止めが効いてようやくからだが楽になった。もっと早めに飲んでおけばよかったと思うけど、べつに病気でもないのにむやみに薬を服用することに抵抗を感じてしまう。
きょうが二日目、あしたが三日目。痛みのピークが過ぎるのはまだまだ先だ。腰や下腹部が重だるくて時折刺すような痛みが走り、座りこんでしまうこともある。自分の生理が重いほうなのか、それともみんな毎月耐えている程度の痛みなのかはわからない。比べようがないし、相談する相手もいない。笑里とも、ほかの女子の友達とも、このようななまなましい話をするのを避けていたから。
母親がいたらちがうのだろうか。考えてもせんないことだけど。
羽純が五年生のときから闘病を続けていた母は、小六の初夏に亡くなった。
以来、羽純は父と兄と祖父と、四人暮らし。祖母は羽純が生まれるまえにすでに鬼籍にはいっていた。家族は男子ばかりで、からだの変化も不調も相談する相手がいなくて。ネットの質問サイトで似たような悩みを相談しているひとがいないか検索したりもした。
「そろそろ時間だ。残りの問題はつぎの授業で答え合わせするから、各自かならず解いておくように」
数学教師が言って、終業のチャイムが鳴る。
帰りのホームルームがはじまる前に携帯をチェックすると、笑里からメッセージが届いていた。
――四時半に駅に着くから、一緒にお茶しない?
――いいよ。
と。返して携帯を仕舞った。
となりの市の中心部にある私立の女子高に通う笑里は、駅前から出ているバスに乗って通学している。橘小校区は山間部にあり、駅まではかなりの距離があるので、いつも彼女の母が車で送り迎えしている。羽純たちの所属している県立の普通科高校は駅からさらに高台に上ったところにある。自転車で棚田にかこまれた坂道をくだって、街に出て、それからまたのぼって、毎日へとへとになりながら通学している。みんなそうしている。
笑里は。羽純からすると信じられないことなのだけど、笑里は自転車に乗れないのだ。
小学校の高学年ごろから日傘を常備していて、ゆったり、ゆっくりと歩く。四人しかいない同級生のうち、男子たちと羽純は、探検だのサッカーだのサイクリングだの、荒っぽい遊びばかりしていたけど、笑里はその輪には入らず、ほかの学年のおとなしめの女の子たちと屋内で遊んでいた。だけど時々、彼女はとても大胆になる。
六年生の夏。夜の学校で星を見たいと言い出したのも笑里。結局ばれて彼女は大目玉をくらってしまうのだけど。
中学生になってからも時々みんなで、ぬけがらになった校舎に忍び込んだ。台風で一か所だけ割れた教室のガラスを博己が慎重にはずし、腕を入れて鍵を開けた。そんなふうに、まるで泥棒みたいなやり方で侵入したのだ。
だけど、すぐに地域の大人たちにばれた。グラウンドで遊ぶことは黙認してくれた大人たちも、校舎に足を踏み入れることは良しとしなかった。
去年の秋だ。もう一度、廃校舎に出入りするようになったのは。かつて忍び込んだ折にこっそり鍵をこわして開けておいた玄関のとびらから、堂々と出入りしている。窓から入るよりは、逆に目立たない。
もうみんな、何も知らなかった子どもじゃない。大人になったわけじゃないけど、もはや、無鉄砲でピュアで怖いもの知らずではいられない。いけないことだと、ちゃんとわかってる。
だけど。それでもなお、あそこに行かなくちゃいけない事情がある。どうしてもあそこに集わなくてはいけない理由が、自分たちには、あるのだ。
駅裏のひっそりさびれた商店街の中ほどにある喫茶店。先に着いていた笑里が奥のテーブル席から手をふった。昼間なのに薄暗くて、窓わくがレトロなチョコレート色で、いたるところに飾ってある観葉植物の枝葉もつるも伸びほうだいで。どこか、羽純たちの廃校舎を思わせる。笑里の制服――紺色のセーラー服に紺色のスカーフ、黒いハイソックス――が、みょうに馴染む。
自転車をとばしてきたので暑くてのどが渇いていた。羽純はアイスティを頼んだ。笑里はあたたかいミルクティを飲んでいる。そういえば、笑里がきんきんに冷えた飲み物を飲むところをひさしく見ていないな、と羽純は思う。からだを冷やすのはよくないとか、そういう理由なのだろう。とにかく美容に気をつかう子なのだ。いつからそうなったんだっけ、と羽純は少しだけ首をかたむける。
アイスティが運ばれてくる。レモンだけ絞ってごくごくと飲む。半分ほどなくなったところで、ストローの存在に気づいてあわてて刺した。
笑里はなかなか話を切り出さない。うつむいて、ときおり顔を上げ、なにか言いかけてはやめてミルクティをすすり、カップをおろす。
「博己のことでしょ?」
業を煮やした羽純が口をひらいた。ん、と笑里は顔を赤らめる。
「いちおう……。羽純に何の相談もしないで告白しちゃったから……、その」
「その、なに?」
いったいぜんたい、羽純にたいしてもこんな風に歯切れがわるいのに、よく告白なんてできたよなあと思ってしまう。
笑里は、ふいに、羽純から目をそらした。
「よかったんだよね? 羽純は。応援してくれてるんだよね?」
小さいけど固い芯のある声でひといきにそう言うと、笑里はそらしていた視線をもどしてまっすぐに羽純の目にあわせた。羽純は。唐突に射抜かれたようなかたちになって、すこし面食らってしまう。なんとなく、アイスティのストローをぐるぐるとかき混ぜた。
「よかったねって、言ったじゃん。お似合いだし」
「ん」
「博己が浮気しないように、見張っといてやるから。安心して」
「ん」
笑里が少しだけ笑った。
どうしてわざわざ呼び出してまで、笑里は自分の気持ちを確認するのだろう。かすかに胸がざわつく。いままでずっと、笑里の相談をうけていたのに。
博己が好きだとはじめて打ち明けられたのは、五年生のころ。まだ羽純の母も生きていた。
ふたりだけの帰り道。茶色い上品なランドセルをことんと揺らして、笑里が羽純の耳に口を寄せた。
――ないしょだよ。
笑里はそのころから日傘をさすようになった。体育のまえ、念入りに日焼け止めをぬり、授業が終わると、香水のようななにか、当時の羽純にはわかりかねたが、とにかく綺麗なガラスの瓶にはいった花のかおりのするもの、を、こっそり振った。
羽純とはちがう道を歩き出した笑里。そうか、恋しちゃったからなんだ。今さらのように羽純は理解した。
まっすぐに、ひたむきに、恋してたんだなあ。
「実って、よかった」
ほんとうに、そう思う。笑里のしあわせは羽純のしあわせ。ずっとずっと、守ってあげてた。だけどいよいよ、その役目を博己にバトンタッチすることになった。
胸の奥にふくつめたい風は。さびしさは。きっと、そのせい。
笑里は笑顔になる。ほっとしたんだろう。それから、怒涛のようにしゃべりはじめた。
「部活がいそがしいみたいで、会えないの」とか「もとカノと、まだ仲良くしゃべってるみたいなの」などとほおをふくらませたかと思えば、
「毎晩メッセージくれるんだよ」
と、にんまりしながら、自分の携帯を指さきでちょんとつつく。
「あいつ、どんなこと言ってくるわけ? すきだよーとか、きもいこと言うの?」
と羽純が茶化すと、きもいなんてひどくない? と笑里は拗ねた。
「じゃあ、笑里はなんて言って告白したの?」
矛先を笑里自身に向けてみる。笑里はくすぐったそうに笑いながら、
「ないしょ」
と。いたずらっぽく、言った。かつての帰り道で羽純に秘密をうちあけたときと。同じ顔をしていた。
笑里と別れ、ひたすらに自転車をこぐ。ゆるやかなのぼり坂を、立ちこぎで進んでいく。まだ水を入れていない田んぼにはひよこの羽毛みたいなやわらかい草がはびこり、ちらほらとれんげ草のピンク色ものぞいている。
笑里が博己に告白するところ。ぼんやりと頭に思い浮かんだ。笑里の目のまえにある、博己の大きな背中。シャツのすそをつまんで、「……すき」と。振り絞るように告げる笑里。
博己は。なんて返したんだろう。
息がくるしくなって自転車を降りた。さすがに勾配がきつくて、これ以上はむりだ。
すきだよーとか、きもいこと、言うの?
言うのかもしれないな。
ほんとうはきもくない。羽純は知っている。博己の、おそろしく真剣なまなざしも。腕をつかむ力の強さも、その熱も。羽純は、知っている。
知っているくせにあんな言い方をした自分を、羽純は、嫌いだと思う。どうしようもなく、ずるいと思う。長い坂道が終わり、羽純はふたたび自転車のペダルを踏む。川沿いの道へ出たところでブレーキをかけた。
里山をゆったりと流れる大野川にかかる、アーチ型のふるい石橋。軽自動車がぎりぎり一台通れるほどの幅だが、車で通るものはいない。そばの小道の脇に自転車をとめ、橋のひくい手すりにもたれかかり、羽純は染まりゆく空をあおいだ。
ももいろの空。浮かぶ雲のふちから光がもれて金色に輝いている。大野川は、普段は水嵩がすくなく、中洲に降りてあそぶこともできる。雨のあと数日間はぐんと嵩が増すので別だが。
まっすぐ家に帰る気持ちが、急速に失せていく。
橘小に行ってみようか。きっと律がいるだろう。
しばらくせせらぎの音を聴いていた羽純は、ふたたび自転車をこぎ始めた。