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目を覚ますと、律は明るいひかりのもとにいた。視界いっぱいに、まばゆいばかりの青空。
――ああ、そうだ。授業を抜け出して、屋上で寝転がっていたんだ。さっきまで小学校にいた気がするけど、夢を見ていたんだろう。
二年生に進級して一週間が過ぎた。というか、まだ一週間しか過ぎていないというのにさっそくサボるとか、僕はどれだけダメ人間なんだろうと苦笑をもらす。
それにしてもリアルな夢だった。においも、音も。湿り気を帯びた、夜の廃校舎の空気も。
天にむかって両のこぶしを突き出し、思いっきり伸びをする。
僕がいようがいまいが、教室のやつらは気にもとめないだろう。
チャイムが鳴る。気は進まないが、いったん教室に戻ることにする。
休み時間、二年三組の教室はざわめきに満ちていた。文系クラスゆえか、男女比は一対二で、女子のきんきん高い声のほうが目立って耳につく。
律が教室に入ってもだれも声をかけてこない。目もあわない。
一年前はそんなことはなかった。男女ともに友人の多い博己ほど華やかなポジションにいたわけではないけど、自分と似た雰囲気の、物静かな(根暗だとみなされることもある)友人たちと、それなりに楽しい学校生活を送っていた。なのに。
いつからかみんなに無視されるようになった。ほんとうに、さらりと、みんな律の存在を無視する。声をかけてきてくれるのは、羽純と博己だけ。笑里は学校が違うから、律がこういう状況に置かれていることなど、そもそも知らない。
――だれも僕を見ない。羽純たちにも迷惑をかけられない。僕と親しくしたばかりに、あいつらまで無視されるようになるとか、そんな展開は勘弁だ。
博己は背面黒板のそばで、同じ水泳部の男子たちとふざけ合っている。どんな子だよ、写真見せろよー、としきりにつつかれているところを見ると、おそらく「あたらしい彼女」について尋問を受けているのだろう。
博己のスマホをのぞきこむ野郎どもの雄たけびがこだまする。
「うおーっ」「可愛いーっ」「三つ葉女子? 三つ葉女子のコなの?」
そりゃあテンションもあがるだろう。笑里のルックスはそうとうレベルが高い。おまけに「三つ葉女子高の生徒」という付加価値までついてくる。中学の頃から男子に人気があったけど、笑里の清らかな透明感は多くのじゃがいもみたいな男子どもには近寄りがたく、しかも羽純が騎士よろしく笑里のことを守っているから、告白はおろか声をかけるつわものもいなかった。幼なじみの律と博己ぐらいだ。そのことで、どれだけほかの男子に羨望の目を向けられたことだろう。
その笑里が。博己の恋人になった。
客観的に見ればお似合いのふたりだ。博己になら文句をつけるやからもいないだろう。律ぐらいだ、「それは違うだろ」なんて思っているのは。
わけのわからないもどかしさが律の全身を覆う。
羽純のほうが。羽純と博己のほうが「つき合ってるのか」とからかわれることが多かったんだ、むかしは。そのたびに羽純は「あたしはほとんど男子みたいなもんだからね」と言ってかわし、博己は博己で「女子じゃねーし羽純は」とうそぶいていた。
そのうち博己はまじで彼女をつくってしまって。まあ、すぐに別れてしまったわけだけど、それをきっかけに羽純との仲をからかう奴はいなくなった。
思い出すと少しだけ息苦しくなって、ネクタイをゆるめる。
輪になってだれかの恋愛話で騒いでいる女子の群れをすり抜け、窓際、一番後ろの自分の席へ。
もみくちゃにされている博己と目が合う。博己はにやっと笑って片手をあげた。すると博己を羽交い絞めにしている男子が「なに笑ってんだよっ! くっそむかつくっ!」と叫んだ。そのまま博己のわき腹をくすぐり始めて、博己は嬉しそうに身をよじった。
――僕には、あんなふうにじゃれ合う友だちはいない。
博己も。最近、律に対して、うすい膜を張っているような気がする。ふざけ合っていても、ふいに瞳をくもらせたり言葉に詰まるような瞬間があるのだ。どうしてなのかはわからない。
始業のチャイムが鳴り、皆があわてて席につく。
リーダーのテキストを広げようとしたところで、ふと、引き出しの中に、自分の教科書や文房具のいっさいがないことに気づいた。
だれかに、隠されたのだろうか。
先生が教室に入ってくる。何ごともなかったかのように授業がはじまり、律が机の上になにも広げていないことに気づいているのかいないのか、注意もされなければ指名もされない。ほかの生徒たちも。むずかしい顔をしてそれぞれのテキストに向かっていて――自分に嫌がらせをした犯人を捜してやろうと教室中を見回してみるけど――挙動不審なやつはいない。困惑している律をちらりと見やってほくそ笑んでいるやつも、ひとりもいない。
何なんだ。
どういうつもりなんだ。
誰なんだ。僕にこんなことをしたのは。
神妙な顔してリスニングのCDを聴いているクラスメイトたちの顔を、順繰りに睨みつけていく。と。ひとりだけ、目が合った。
木原。中学生のころ、律と仲の良かった木原祐市。線の細い、うすいめがねをかけた、少し猫背の目立たない奴。
木原は律に気づくやいなや、めがねの奥の目を大きく見開き、――蒼白になった。
人間の「血の気がひく」瞬間というものを、はじめて見た。ほんとうに、するすると青ざめていくのだ。
それで確信した。犯人は木原だったのか、と。
四時限目の終了のチャイムが鳴るやいなや、木原は逃げるように教室から出て行った。もちろん律はすぐに追いかける。問い詰めるつもりだった。かつての友人のことを、嫌いになったとしても、いやがらせをするような奴じゃなかった。もしかしたら誰かにおどされているのかもしれない。
「律」
低い声に呼ばれる。ざわめきの中で。めいめいに購買へ向かったり、仲の良い者同士机を寄せて弁当を広げている、ランチタイムのざわめきの中で。その声はみょうにくっきりと律の耳の中に残る。ゆっくりと振り返る。
「……博己」
「どこ行くの」
「どこって」
「メシ。食おうぜ、一緒に」
博己はにかっと笑うとパンの入った包みを掲げてみせた。
いつもの律の逃避場所――屋上へ向かう。博己が一緒だと目に見える風景も頭上の青空もちがったものになってしまう。明度も、彩度も。いちだん明るいものに変わるのだ。
「あー。先客がいるわ」
給水塔を見上げてつぶやく博己。
「何やってんだよ、羽純」
「寝てた。四限目体育だったから、だるくて」
上から声が降ってくる。俺たちも行こうぜ、と律の背中をとんと押す博己の声がはずんでいる。台形の給水タンクにかけられた細い梯子をのぼると、羽純が青空をバックに風に吹かれていた。
「体育さぼったの? 得意なくせに」
博己が羽純のとなりに腰かける。なんの躊躇もなく。投げ出された足は長くて、真横にいる羽純のつま先は博己のふくらはぎのあたりで宙にただよっている。
「体調悪くて。見学してるより空でも見てたほうがまし」
ふーん。と。博己は言って、ちらと羽純の横顔を見やってから、
「大丈夫なん?」
と。あくまでさりげない風に、彼女を気遣う。
「大丈夫だよ。もうへいき」
律も羽純のとなりに座った。博己と反対側、ちょうど男ふたりで羽純をサンドイッチしているような位置関係。羽純のみじかい髪が、春のやわらかい風にゆれる。
博己はパンの袋を破って食べ始めた。
「足りるの? それだけで」
「早弁しちゃったから。昼に食うの、こんだけなんだよ」
「ふーん」
「羽純は?」
「食欲ない」
「やっぱ大丈夫じゃないじゃん。風邪? 熱は?」
博己が大きな手のひらを羽純の額に伸ばして――触れようとしたところで、羽純がびくっとからだをふるわせて身をひいた。
「――あ。ごめん」
博己が行き場をなくした手を引っ込める。羽純が目をそらす。
脳みその奥で、何かがちかちか瞬いた。これは既視感というやつだ。こんなふたりを、いつかどこかで、見たことがある。
「……つ。律」
羽純が僕の目の前で手のひらを上下に振っていた。はっと我に返る。
「律は、ごはんは……」
妙に遠慮がちに聞いてくる羽純。律には弁当はない。引き出しになにもなかったように、ロッカーにもいっさい荷物はなかった。木原か、あるいは木原に命じた誰かと言ったほうがいいのか――の仕業だろう。
博己が自分の包みを律に差し出す。
「やる。食えよ」
「……サンキュ」
優しさに甘えて、たまごサンドをいただくことにする。ビニールを破って食べようとしたところで、まったく食欲がないことに気づいた。
「ごめん。僕も、ちょっと、食べれそうにない」
そうか、と博己は言った。一瞬、博己の目にも、それから羽純の目にも。影が落ちる。
「心配すんなよ」
律は明るい声をつくって、精いっぱいの笑顔を浮かべてみせた。
「僕は平気だ。ぜんっぜん、平気だ」
クラス中のやつに無視されても。荷物を隠されても。博己がいる。羽純がいる。今頃、三つ葉女子の制服に身を包んで幸せそうに笑っているだろう笑里もいる。
仲間が、いる。