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ぴとん。ぴたん。ぴたん。
水のしずくがしたたり落ちる音がする。
ぴとん、ぴたん。
律はゆっくりと目をあけた。
にぶく頭が痛む。
あたりは薄い闇にくるまれていた。からだを起こすと、なにかが摩擦でぎゅっと音をたてる。ソファだ。僕は革張りのソファの上に横たわっているみたいだ――そう気づいて律は首をかしげる。いったい、どこの。律の家にもソファはあるが布張りのものだ。
艶のない、黒い革を撫でる。このソファ。ずっと憧れていたやつだ。校長室にあるやつ。掃除の当番が校長室にあたったときは少しだけ緊張してどきどきした。こっそり、この黒い革張りのソファに腰かけてみたりしていた。
闇に目が慣れたころあいであたりを見回せば、そこは記憶のなかの校長室そのものだった。
壁には数々の賞状や校歌の歌詞の書かれた木彫りのボード――過去の児童の卒業制作だろう――が掲げられている。しかしガラス貼りの棚のなかはからっぽだった。廊下に面したドアのこげ茶色の木枠にはすりガラスがはめこまれていて、それは、律が過ごしてきた教室と同じものだ。しっとりと息をしているような、古い木の壁、床。
間違いない。ここは橘小学校。
いや、だとしても、なぜ自分はこんなところで寝ている? そもそも、いつここに来たのだろう。春休みに花見に来て、六年生の教室で羽純と珈琲を飲んだ。あれからどれぐらい時間がたった? 少なくとも高校の新学期はもうはじまっている。
記憶がぼんやりしている。
そもそも。今、何時なんだろう。律はぼうっと考える。こんなに暗いところを見ると、夜であることは間違いないが。
――あかりを点けないと。だけど、当たり前だけど、ここにはもう電気は通っていない。
ソファの前にあるガラスのローテーブルの上には、いつものラジオと、アンティークのランプが置かれていた。ぼんやりする脳みそをフル回転させて思い出す。これは笑里が、父親が骨董品集めを趣味にしている父親からくすねてきたものだ。ハリケーンランタン、というタイプのものらしい。普段は六年生の教室に置いているが、ここにあるということは、自分が運んできたのだろう。覚えていないが。ランタンの横にマッチがあるが、これを持ってきたのも自分なのだろう。
ランプに灯をともし、つまみをひねって炎の大きさを調節する。
オレンジ色のひかりがゆらゆら揺れて、ふるい床板や壁の木目を照らす。律たちも六年間、掃除の時間に磨きこんできた校舎。親たちのそのまた親たちもかつてここで子ども時代を過ごした。ずっと子どもたちの笑顔を、泣き顔を、見守ってきた木造校舎。かつて使っていた机も椅子も黒板も、ここのソファのような備品も。処分されずそのまま捨て置かれている。
まるで、住んでくれと言わんばかりだ。
――住む?
なにかが頭の隅にひっかかる。少し落ち着きたくて、ラジオの電源を入れる。ラジオは律のお守りだ。
今日はなにか拾えるかもしれない。
霞がかかったような脳みそを懸命に回転させる。
自分はどうしてこんな時間にここにいるのだろう。自分の家には帰らなかったのか。思い出そうとすると頭がにぶく痛む。律はじっとランプの炎を見つめて痛みをやり過ごした。
ランプの光。ラジオ。この町に大きな台風が直撃して、ふた晩停電がつづいた時のことを思い出していた。ちょうどこんな感じだったのだ。家族三人身を寄せ合って、ろうそくの光のもとでカップめんを食べた。あのころは両親の仲も良かった。
あのころは? じゃあ、今は?
頭が痛い。家に帰ったほうがいいともうひとりの自分が言うけど、どうしてもからだが重い。きっと僕の電話の着信履歴は母さんの携帯の番号でいっぱいだ。そう思い当たってポケットをさぐるけど、なにもない。
なくしたんだろうか、スマホ。スマホだけじゃない。なにもない。バッグとかリュックとか、おおよそ荷物らしきものはなにもないことに気づいて愕然とする。どこかに忘れてきたんだろうか。
ラジオだけだ。今ここにある、僕のものは。叔父さんがくれた、ラジオだけだ。
チューニングのつまみを回す。
これは特別なラジオなんだよ、と。生前、叔父は言っていた。おじさん――海斗さん。母さんの弟。カイちゃん、と母さんが呼ぶと、くすぐったそうに、「ガキじゃねーんだからその呼び方やめろよ」と笑っていた。
空想癖のあった海斗おじさんの、突拍子もないほら話。
――死んだ人間はどこに行くか知っているか? ふたご星に行くんだよ。広大な宇宙のどこかに、地球そっくりの「ふたご星」がある。地球での生を終えた人間は、それまでの記憶をリセットして、ふたご星で生きる。だけど時々、地球での人生を思い出し、夢に見る人間がいる。
このラジオはふたご星からの電波を受け取ることができる。死んだひとの夢のかけらを、ひろうことができるんだ。
そんな話を大真面目に語ってくれた海斗おじさんは、ほんとうに死んでしまった。
死んだあと、彼がどこに行ったのかはわからない。もしかしたらほんとうに、海斗さんは、ふたご星の存在を、第二のなにかを、信じていたのかもしれない。
ばかだ。おじさんはばかだ。ずっとそう思ってきたけど。
一度だけ、ラジオが奇跡をくれたことがある。
トロイメライ。
泣いていた羽純に聴かせてくれたトロイメライ。
やさしいメロディが耳の奥で響きだす。
律はもう一度、ゆっくりと目を閉じる。