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一年のうちでもっとも憎むべき季節、夏。紫外線は強烈だし、汗で日焼け止めも流れ落ちるし、なによりべたべたして不快だ。さらに最悪なのはエアコンの冷気。からだの芯が冷えて頭が痛くなってしまう。
笑里はため息をついた。今しがた、博己と一緒に乗るはずだったバスが出てしまったのだ。田舎ゆえ本数が極端にすくなく、この地区まで来るバスは一日に二本のみ。
――あーあ。ひさしぶりのデートだったのに。
夏だから。博己は前にも増して部活に精を出し、泳ぎまくっている。練習後やオフの日は律に会うことを優先していた。もちろん、できるかぎり笑里も一緒に会いに行くことにしていたが。ふたりきりの時間だって、ほしい。
田んぼに囲まれた町道の中ほどにあるバス停の、屋根つきの古ぼけたベンチに座って、ぼんやりと夏の風景を見やる。風が吹き、青い稲の穂が波打ち、水面に映った白い雲の影もゆらめく。お盆が近づいて、とんぼがちらちら舞うようになった。それでも暑さは相変わらずだ。
のどかな光景とは不釣り合いな、みじかい電子音が鳴り響く。やっと博己がメッセージをくれた。
――ごめん笑里。寝坊した。
とある。寝坊って。いま、何時だと思ってるの?
おろしたてのワンピースを着て、髪も巻いて、うっすらメイクもして。汗で崩れないように何度もパフで押さえて。博己の前ではいちばん綺麗な自分でいようって、がんばった自分がばかみたい。
羽純はなにもがんばってないのに。いつもジーンズにTシャツに足もとはスニーカーのそっけない恰好だし、ジャージ羽織ってることもあるし、まるで、綺麗に装うことをあえて拒否してるみたい。そう笑里は考えて、ああもう、と首をぶんぶん振った。
いつも自分は、羽純のことばかり意識してしまう。
苦労知らずの自分ががんばれるのは、外側を磨くことだけ。おかげで、お堅い校風の三つ葉女子の制服を着ていても、羽虫みたいにうようよナンパ男が寄って来るけれど。笑里がほしいのは、たったひとりだけ。なのに。
羽純との待ち合わせだったら、博己はきっと寝坊なんかしないはず。やめようと思ったのに、また、そんなふうに考えてしまって。
笑里はいつも同じところでぐるぐる回っている。
中学生のころ、博己にはじめての彼女ができたときのことを思い出す。廊下の窓辺で、博己と彼女が楽しそうに笑っているのを見たとき。ふうん、と思った。持って三か月。早くて一週間。ベテランの医師みたいに、笑里はひと目見ただけで「余命」がわかってしまった。そしてその通りになった。つぎの子も。そのつぎの子も。
べつにとくべつな力があるわけじゃない。ただ、子どものころから博己を見てきたから、なんとなくわかるだけなのだ。博己が飽きるか、「彼女」が耐え切れなくなるか、どちらかだろうって。
蝉の声を聞きながら、ぼうっと入道雲を眺めて。そんなことを考えていたら、なんだか頭がもうろうとしてきた。アスファルトの向こうでゆらめく陽炎のように。ゆらゆら、ゆらゆら……。
「笑里。ごめんっ」
目を開けると、汗みずくで息を切らした博己がいる。
「笑里? どうした? だいじょうぶか?」
「う。うん……」
笑里はバッグからステンレスボトルを取り出して、飲んだ。麦茶がのどをすべりおちて、なにもかもがクリアーになっていく。
博己のまとっているひかりは、相変わらずまぶしくて、胸がくるしくなる。
「まじでごめんな。こんど、穴埋めするから」
となりに腰かけた博己が、笑里のあたまを撫でる。笑里はぷーっとふくれた。
「仕事で遊園地の約束をドタキャンした父親みたい」
「え?」
「よくあるじゃない。ドラマとかで。そういうシチュエーション」
「あ。そう、だな」
博己が少しわらった。笑里はまだ拗ねている。
好きだと言ってくれたことばは、嘘じゃないと信じている。ただ、「好き」にもいろんな種類があって、博己の笑里にたいする「好き」は、笑里の博己にたいする「好き」と、質も、量も、色も、ちがっているような気がしていた。
だって。
いま、博己はぼんやりと虚空を見つめている。青空のむこうの、なにかを。こころをどこかに置いてきたみたいに、となりにいる笑里のことを忘れてしまっているような瞬間が、最近増えた。
あんなにばかにしていた博己の過去の「彼女」たちと、自分が同じ運命をたどるなんて、想像もしたくない。
「博己」
彼の腕に自分の手を添わせて、そっと、もたれかかった。
「穴埋めとか、いいから。博己の部屋に、行きたい」
博己の部屋を訪れるのは、小学生のころに遊びに来て以来だ。そのときと比べてなんだか狭く感じるのは、博己の背がずいぶん伸びてしまったせいだろう。
六畳のフローリングの、ロフトつきの部屋。むかしは、博己は律や羽純といっしょに、ロフトを秘密基地に見立てて遊んでいた。笑里はたまに、そこに加わった。いまは、漫画だのCDだのなんだのが無造作に突っ込まれて、物置と化している。
ベッドは、ロフトの下のスペースに置かれている。笑里はそっと、腰かけた。
博己は、飲み物を持ってくると言って、キッチンへ行っている。
博己の家は兼業農家で共働き。今の時間、彼の祖父母は畑に行き、両親はそれぞれの勤務先に居る。はずだ。
「おまたせ」
ペットボトルのサイダーとグラスを持って、博己が帰ってきた。
「これしかなかった。笑里、炭酸苦手だっけ」
「いつの話してるの? いまはもう、へいきだよ」
苦笑してしまう。たしかに小学生のころまでは苦手だった。羽純はそれでも、今も笑里には炭酸系のジュースは注がない。
また、羽純のことを思い出してしまった。
博己はローテーブルにグラスを置いてジュースを注いでいる。
「流星群、楽しみだな」
ちいさくうなずく。あさって。この地域では、ペルセウス座流星群がいちばんの見ごろを迎えるという。リベンジだよと博己が提案した。羽純も律も乗り気だという。
「どしたの笑里。元気なくね?」
「博己のせいだもん。映画、楽しみにしてたのに」
投げ出した足を、じたばたさせる。
「ごめんってば」
「……となりに、来てよ」
上目使いで博己をかるく睨んで、甘い声を出した。
「となりって」
「博己。ジュース、こぼれてる」
「あ。ああ、ごめん。布巾持ってくる」
「いいから!」
じれったくてたまらない。
「早く来てよ」
遠慮がちに、博己はベッドの端に腰かけた。笑里のとなり、二十センチほどのすき間をあけて。
笑里は博己のひざの上に、そっと手を置いた。
「博己。ぎゅって、して?」
「笑里?」
「いや?」
博己は笑里から顔をそらして、自分の後頭部をわしわしと掻いた。
「嫌じゃねーよ? でも、なんつーか、その」
「じゃあ、キスして。オトナのキス」
「ちょ、笑里。おまえ、どうしたの? 今日、おかしくないか?」
「おかしくない。だってつき合ってるんだもん、あたしたち。いっぱいいちゃいちゃしたいし、博己がのぞめば、ぜんぶ、したっていい」
「ぜんぶ、って……。笑里」
博己、ちょっと引いてる。そう気づいたけど、笑里はもう止まれない。
「博己はしたくないの? 男子って、そういうことで頭がいっぱいなんでしょ?」
「落ち着けよ笑里。俺だって、たしかにやらしいことは考えるけどさ、その、まだ早くないか?」
「早くない。こどものころから好きなんだもん。博己が好きなんだもん」
博己は笑里の両肩をつかんで、まっすぐに目を合わせた。
「笑里。わかった。わかったから。でも、もうちょっと自分のことを大事にした方がいいと思う」
ゆっくりと、噛み含めるような言い方。どうしようもないいらいらが募ってくる。
「博己。あたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「ほんとうに、好き? どれくらい、好き?」
「どれくらいって言われても」
涙がじわりと浮かんで、あふれてくる。つぎつぎにあふれてこぼれて、笑里は嗚咽した。
ひっく、ひっく、と。泣きじゃくる笑里を、博己は背中を撫でてなだめた。まるで小さい子あつかいで、くやしくて、博己の胸に飛び込んで泣いた。そっと、抱きかえしてくれる。
――泣き止んだら、すぐに離れてしまうのかな。
そう思ったら、また、くるしくなった。




