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告白だったのだ。
自分なりの。精いっぱいの。
羽純のことを見ていられなかった。博己のことを忘れさせてやりたいと思った。
羽純はいつだってやせ我慢して、強がっている。だけどほんとうは泣き虫だ。泣き虫のくせに強いふりをするから、ほうっておけなくなってしまう。
博己と律。羽純と笑里。
男女でペアになります。じゃんけんで相手をきめてください。
男子同士、女子同士、それぞれじゃんけんをして、勝ったひと同士、負けたひと同士がペアになる。小学生のころは、いつもそんな風にしてふたり組に分かれていた。
だけどもう、そんなわけにはいかない。思いの矢印は簡単にはその向きを変えられない。わかっている。自分がいちばん、わかっている。
僕には羽純を、変えられない。羽純はずっと、博己だけを見ている。
笑里もずっと博己を見ているから。だから羽純は、強がるしかない。
どうしてうまくいかないんだろう。
ゆっくりと落ちていく夏の陽。ふるい教室にもぐり込む橙。ふいに、なにかを思い出しそうになる。
この間、博己が意気揚々と夏休みの計画を話してくれた。
「海行くだろ。いや、この間みたいなのじゃなくて、ちゃんと女子たちには勝負水着を着てもらってだな」
「羽純が嫌がるだろ。誰かさんのせいで海水浴嫌いになっちゃったし」
「……。じゃ、花火大会に、祭りだ。ちゃんと女子たちには浴衣を着てもらう」
「羽純が嫌がるだろ。浴衣だと走れないとかなんとか言って。ていうか羽純ってスカートすらめったにはかないのに、浴衣なんて持ってるのかなあ」
「…………流星群」
「…………」
「羽純とそんな話をしたんだ。また四人で見ようって言ったら、あいつ、うなずいてた」
博己が彼女の名を呼んだとき。はすみ、と、いつもよりやわらかく発音した。ように、律には聞こえた。だいじなだいじな、たからものに触れるような感じで。
博己。おまえの矢印も、ほんとうは、変わってないんじゃないのか?
夕暮れの橙が、溶けていく。このちいさな教室が水槽で、律は透明なオレンジに染めあげられて、くるしい。
しゅっ、と。画がうかんだ。
制服のまま、抱き合っているふたり。羽純の背中にまわされた博己の大きな腕。たがいの息がかかりそうなほどに近づいたふたりの顔。羽純が、魔法にかかったみたいに、うっとりと目を閉じようとしていて。くちびるとくちびるが、いまにも触れそうで。
なんだ、これは。これも夢か?
どこからどこまでが夢で、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが過去の記憶なのか。
おじさん。
教えてよ。
教卓に置いたラジオから、ザーッと、砂嵐の音が聞こえる。やがてそのノイズは霧が引くように消え去り、ちがう宇宙とつながる。
――律。ぜんぶ、夢だ。
「ぜんぶ?」
四人で桜をみたことも、ほたるを見たことも。笑里と珈琲を飲んだことも、博己と海でじゃれ合ったことも。羽純が律の手を握ってくれたことも。
ぜんぶ?
――夢だ。まぼろしだ。目がさめれば痛みも消える。だからはやく、こっちへ。
無性に恐ろしくなった。こどものころ、一緒にゲームをしたり、おもしろい本やまんがを教えてくれたり、めずらしい植物のなまえを教えてくれたりした、海斗おじさん。優しくて、無垢で、笑顔がふんわりやわらかくて。いつも無精ひげを生やして、だらしないと母さんに叱られていた。
大好きで、しょっちゅうまとわりついていた。おじさんというより、うんと年上の、ともだちみたいな存在。
それなのに。今ラジオから律を呼ぶのは、たしかにおじの声ではあるのに、どこか異質だった。
――どうして迷う?
おじさんがいる場所は、いったい、どこなんだ。
――律。おまえは、そろそろ決めなければいけない。こちらへ来るのか、それとも。
「それとも……」
――自分で選ぶことが、できるか?
自分で、選ぶ。
そもそも、なにを。
――チキンレースしようよ。
いきなり、声が聞こえた。おじさんのものではない。これは、木原の。中学からの親友、木原祐市の。少し鼻にかかる、男子にしては高めの声。
ぶわっと、目の前にスクリーンが広がった。
高校の制服を着た、ふたりの男子のすがた。急勾配の細道のてっぺんで、自転車にまたがって並んでいる。
「びびって先に止まったほうが負け」
「いいよ。国道出るまでなら」
「負けた方は罰ゲームとして好きな女子にコクる」
「げっ! ぜったい無理!」
「負けなきゃいいんだよ」
にやりと笑う、木原。
「じゃ、オッケー? ようい」
スタートっ!
律は自転車で坂道をすべり降りた。これはたんなる遊びで、冗談だ。木原は無茶なことをするタイプの人間じゃないし、すぐにブレーキをかけるはず。そう高をくくっていた。
なにも深く考えてはいなかった。
横目で、となりを走っている木原の姿を見やる。
どこにもいない。視界にあるのは、流れていく、畑と石垣と民家の入り混じったでこぼこの風景だけで、親友のすがたはどこにもない。
あいつ、速攻で止まりやがったな。言いだしっぺのくせに。
自転車を止めて、木原が追いつくのを待とうと思った。ぎゅっと、ブレーキレバーを握る。だけど。
止まらない。車輪は回転をやめない。
「うわああああああっ!」
気づいたら、叫んでいた。
冷気がからだを伝って、全身が粟立った。がくがくとからだがふるえる。律は腕をさすった。だけど。
まくり上げた袖からのぞいた素肌をまじまじと見つめる。鳥肌なんてたっていない。つるりとした、平常通りの、なめらかな皮膚。
どういうことだ? たしかに、ぞくりと産毛が逆立つような感覚があったのに。
じわりと、いやな汗が噴き出す。噴き出す、感覚があった。しかし、腕にも首にも額にも、一滴だって汗は浮いていない。
おかしいじゃないか。いまは夏で、ここはクーラーもない小さな教室で。ここに来た羽純も博己も、暑いといって赤い顔をして、水筒だのペットボトルだのに入れたドリンクを飲んでいた。サイフォンは夏のあいだは封印だとか言って。
だけど、自分は。なにも飲んでいない。こんな真夏に、一滴も水分をとらないで、平然としていられるだなんて。今さらのように、そのことに思い当たってしまう。
目の前に浮かんだ、チキンレースの顛末への恐怖は、みずからのからだへの恐怖へとすり替わってしまった。
おかしい。おかしいおかしいおかしい。
――自分で、選べ。
おじさんの声が、夕暮れの廃校舎で、浮いて漂っていた。




