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橘小学校。律たちの卒業と同時に廃校になり、いまはだれもいない。のちの用途は未定で、どこかの業者が管理を委託されているらしいが、ほぼ放置状態だ。時おり地域の住民がボランティアで草払いをしてくれているが、それでも敷地のあちこちに雑草ははびこり、伸びていく。
律たちは、卒業以来、こっそりここに忍び込んで遊んでいる。まわりの大人たちが気づかないはずはないが、あえて黙認してくれているのだろう。あくまで、「グラウンドに忍び込む」ことに関しては、だけど。
ふたりは正門までのルートを行かずに、段々に連なった畑の間を走る、長い石段をのぼった。石段はグラウンドに通じている。ぐるりにある畑のいくつかはかつて学校菜園として使われていたが、いまは世話するひともなく荒れている。藪と化した畑から少しばかり奥の林に寄ったところに小さな家屋があり、そこは校長用の住宅だった。もちろんもう誰も住むものはいないし、これから住むものもいないだろう。
一段とばしで石段を渡り切った羽純は、てっぺんから律を見下ろし、おそーい、と叫んだ。青空と、桜のうすもも色と、羽純のジャージの緑のコントラスト。まぶしくて律は目を細める。そして、一気に駆けあがった。
ぽつぽつと草の生え始めたグラウンドを取り囲むように植えられたソメイヨシノの、いちばん大きい一本の下にレジャーシートを広げて座る。羽純は帆布トートから中身を取り出し、
「紙皿オッケー。紙コップオッケー。敷物、オッケー。お菓子もばっちり」
と、ぶつぶつつぶやきながら買い忘れがないか点検している。
「からあげ、サラダ巻き、フライドポテト……」
つぎつぎに惣菜や菓子を並べていく。真ん中に鎮座するのは「でかくて食べごたえのある」つかさ菓子舗のケーキ。もちろんホールだ。
伸びかけのショートボブの、サイドの髪がはらりとこぼれ落ちてきて、羽純は鬱陶しそうにすくって耳にかけた。
「ね。お惣菜、これだけで足りるかなあ?」
一瞬魅入ってしまった律はすぐに答えることができず、あわてて「飲み物は」と口を挟む。と、羽純はあっと小さな声をあげて立ち上がった。スマートフォンをジャージのポッケからとり出し、電話をかけはじめる。博己に買い出しを頼んでいるようだ。
博己たちが来るまで手持ぶさたになってしまい、しばらくふたりはぼうっと桜を眺めた。
ややあって、羽純が、
「ね、今日は何か聞こえた?」
と。内緒話をするような声のトーンでもって、ひそやかにたずねてきた。律は黙って首を横に振ると、ポケットからラジオを取り出して電源を入れる。
「なんかしゃべってー」
なんて言いながら律のトランジスタラジオをつつく羽純の指先はしなやかで細い。こんなとき、彼女はたしかに自分とはちがう生き物なんだと、律は思う。
ぬるい風が吹いた。ざあっと、桜の花びらが舞う。
ガ・ガ・ガ。
ラジオが突然唸り出して、律と羽純は息を飲む。
「おいっ」
背後から突然声がして、ふたりはびくっと肩をふるわせた。ふり返ると博己がいた。
でかい。博己はでかい。中二からぐんぐん身長が伸び始めた博己はあっという間に律の背を追い抜いて、十六歳の現在、百八十三センチある。本人いわく。しかも、いまだ伸び続けているらしい。水泳部で鍛えた肩はがっちりと張っている。二の腕も足もほどよく筋肉がついて、ひょろっこい律はひそかに妬ましく思う。ぜったいに言わないけど。
くわえて博己は自由形のエースだ。高身長はあらゆるスポーツで有利で、水泳においてもそうらしい。もちろん、持ち前の運動センスの高さがベースにあるのだけど。
「何やってんだよ、羽純。律」
くしゃっと笑う。博己の、すっきりと細い目が三日月のかたちになる。
博己の大きな背中の後ろで、レースの日傘がちらちら揺れている。「笑里」と羽純が声をかけると、日傘で顔をかくすようにして笑里が博己の背後からあらわれた。
「笑里。誕生日おめでとう」
羽純が言うと、笑里は傘を持ち上げ、少しだけ微笑んでみせる。
「あれ? だいじょうぶ? 熱でもあるんじゃないの?」
思わず、律はそんなことを口走っていた。とくに暑いわけでもないのに、笑里の透き通った肌は熟れた桃のように染まっているのだ。
笑里はぶんぶんと首を横に振った。
「ありがとう、ふたりとも。わたしはだいじょうぶ」
にっこりと笑む。人形のように綺麗だ。オフホワイトのVネックのニットに合わせた、ライトブルーのフレアースカートがひらりと揺れる。白い日傘は紫外線を敵とみなしている笑里には年中欠かせないアイテムだ。新雪のように白い素肌も、生まれつき色素のうすい笑里の栗色のやわらかい髪も、茶色がかった瞳も。だいじに守られて一点のけがれもない。
「おいで」
羽純が笑里に手招きした。親友というより、まるで彼氏みたいな物言い。笑里はこくんとうなすくと羽純の隣に座った。女子ふたりの身長はほぼ同じなのに、羽純のほうが声も動作も大きいから、体まで大きく見える。
博己は笑里の隣にどっかり腰を下ろした。四人が円座になる。博己はジーンズにチェックのシャツといった素っ気ない恰好で、律は制服姿だし、羽純なんてジャージ羽織ってるし、笑里だけが姫で三人の騎士が守っているような、そんな構図に見えて思わず苦笑してしまう。
「なにが可笑しいんだよ」
博己が律の腕にこつんとこぶしをぶつけてきた。
「いや。だってさ。まるで男女のふたごみたいじゃん? こいつら」
「……そうだな」
博己も笑った。
自分の発した台詞とはうらはらに、律は思い出していた。ラジオをつついていた羽純の指先。律にとって羽純はどうしようもなく「女の子」だ。そして、おそらくは博己にとっても。
春風が吹いて頭上にある桜の枝を揺らす。はらりと、うす紅色の花びらが舞い落ちる。
紙コップに注いだ飲み物がみんなにいきわたると、羽純がこほんと咳払いした。
「えーっと。今日、三月二十六日は、みなさんご存じ、城崎笑里さんの、十六回目の誕生日でございます」
「なんでそんなかしこまってんだよ。オッサンかよ」
博己が茶々をいれる。羽純はぎんと博己をにらんだ。
「カンパイの音頭っつたらそれなりにきちんとやんないと!」
「ハッピーバースデー笑里! かんぱーい! で、いーだろ?」
博己がくくっと笑う。羽純はぶうたれると、
「ハッピーバースデー、笑里」
と。ぼそっと言って、紙コップを高く掲げた。かんぱーい、とコップのふちをたがいに合わせる。笑里が「ありがとう」と笑った。日傘はたたんで、かわりに、つばの広い帽子をかぶっている。
「わたし、すごくすごくしあわせ。今日のこと、一生、ぜったい忘れないと思う」
目をうるませている。んなおおげさな、と羽純がサラダ巻をつまみながら、からっと言う。笑里はそれには答えず、なぜかほおを赤く染めてうつむいてしまった。
小学校を卒業してから毎年、春休みに誕生日をむかえる笑里のために、四人はここで花見をしている。桜だってだれかに見てもらったほうがいいに決まってる、そんなふうに羽純は言う。桜だって。校舎だって。もう学校としての役割は終えたけど、いつまでも自分たちは忘れない。何も語らなくても、四人ともみんな、そんな思いを抱えていることはおたがいにわかっていた。
笑里のコップに花びらが舞い落ちて浮かんでいる。笑里はぽうっとそれを見つめて、ゆっくりと息をついた。大きな瞳がうるんでいる。
なんだか今日の笑里はようすがおかしいと律は思う。ふわふわしているのだ。もともとふんわりした雰囲気の子だけど、それだけじゃなくて、どこか夢見心地というか。
あらかたおかずをつまんだあと、それじゃいよいよ、と羽純がケーキにろうそくをたてた。ハッピーバースデーを歌い主役が火を吹き消すというお決まりの儀式を終えたあと、いざ食べようとしたところで。あっ、と頓狂な声をもらす。
「ナイフが、ない」
「えーっ。忘れたわけ? どーやって切り分けるんだよ」
博己があきれ顔でこぼすと、羽純がぎろっと博己をにらんで、ごめん、とぼそりとつぶやいた。
「あんなに点検してたのに……」
律が言うと、博己はうれしそうに笑いながら、
「つーか飲み物のことも忘れてたしな! 結構抜けてるよな羽純って」
などとのっかる。羽純はむきになって、
「割り箸で! 切るから! いい!」
と。まじで割り箸でごりごりやりだした。
「へたくそ、俺にやらせろ」
「忘れたバカが責任とるからあんたは黙ってて」
「なに逆切れしてんだよ。だれもバカだなんて言ってねーだろ? 間抜けだって言っただけで」
「おんなじじゃん!」
そんなふうにぎゃーぎゃー言いながら。羽純と博己が切り分けたケーキはがったがたのぐずぐずで、腹がよじれるほど笑って。フォークもなかったからみんな割り箸で食べて。ふわふわのクリームの甘いにおいが、時折吹く風にも混じっている気がして。
「あ」
ふいに博己が笑里に手をのばした。
「クリーム。ついてる」
笑里の頬についたクリームを。指ですくって、そのまま舐めてしまった。とたんに笑里は真っ赤になる。熟れた桃どころじゃない、林檎だ。
律は思わずため息をついた。まったく博己は。女子にたいしてナチュラルにこういう振る舞いができるところがやっかいだ。クラスでも底辺の自分がやったらさんざん叩かれるだろうに、顔もまあまあすっきり爽やか系で、運動部エースで、女子にたいして(表向きは)がっついたところのない博己がやると嫌味がない。んで、落ちる女子は数知れず。
しかしだな。笑里にそれをやるなよ。
――本命がいるくせに。幼なじみで仲間の、笑里に。自分をずっと思い続けてきている子に、それをするなよ。……博己自身が笑里の想いに気づいているかはわからないけど。
律の責めるような視線に気づいたのか、博己はばつが悪そうに首のうしろを掻いて、
「あー」
と。意味のわからない声を発して、となりで小さくなっている笑里をちらと見やる。笑里がなぜだか、こくりとうなずいた。博己は大きな手のひらを笑里の頭にぽんと置き、
「つき合うことになった。俺たち」
と。言い放った。
羽純の右の眉がぴくりと動いて。だけどそれは一瞬で、まったく表情は変わらない。平然とした顔でケーキを食べ続けている。
沈黙が気まずい。
「えーと。……まじ?」
とりあえず間をつなぐために、そんな言葉を発してみる。まじ、と博己の低い声。
「いつから? いつからその、おまえら」
「今日からだよ」
「あたしがっ」
笑里が顔をあげた。
「あたしが、告白したの。その、ここに来る途中……、ばったり会って、一緒に歩いてるうちに……。なんか、もう、黙ってられなくなっちゃって」
そうか。それで笑里、ずっと様子がおかしかったのか。
「そっか。よかったじゃん」
明るい声が割って入る。羽純だ。
「おめでとう。今日は笑里と博己の、リア充記念日だ」
はい、はくしゅー、と羽純があおる。しぶしぶ、拍手した。するしかないじゃないか。
「末永く爆発し続ければいーんじゃない?」
「言われなくてもそうさせていただきますわ」
むしゃむしゃとケーキを食べながら博己が返す。律はずっとやきもきしている。納得いかない。とうてい、納得いかない。
博己に向かって口を開きかけた律のひざに、羽純の手が置かれた。
「笑里。おめでとう。良かったね」
そう言った羽純は、ほんとうに綺麗に笑っていて。胸が痛くなる。




