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流星群  作者: せせり
今だけ、許して、
19/28

2

 息が苦しい。あの日のことを思い出すと決まって呼吸がしづらくなる。

 お母さんが死んだ時、これから先の人生にはもう、これ以上辛いことは起きないだろうと思った。あれから数年しか経っていないのに、ふたたび羽純は落とし穴につかまってしまった。

 一日のカリキュラムが終わって、羽純はまっすぐに教室を出た。友人たちに一緒にテスト勉強しないかと誘われたけど、具合が悪いと言って断る。というか、ほんとうに頭が痛いし、軽い吐き気までする。

 律のところに行こうと思った。

 律のすがたを見て、話して、触れて。そうすれば安心することができる。まだ律はかろうじて自分たちとつながっている。宇宙のどこかのふたご星なんかじゃなくて、自分たちのいる、この星とつながっている。一刻もはやくそれを確かめたかった。

 自転車置き場から裏門へ向かう。ふらふらと自転車を押して、ぎらつく夏の日差しをもろに浴びて眩暈がした。

 フェンス際の木陰に寄って、自転車を止めて座りこむ。

「羽純」

 声が降ってきて顔をあげた。博己。

「具合、悪いのか?」

「大丈夫。……ていうか、あんた、部活は」

「休み。テスト前だから。てか、おまえ、ひとりで帰れるのか? 顔色悪いぞ?」

「大丈夫だってば」

 無理やりに笑顔をつくって立ち上がろうとしたけど、ふらついて博己にとっさに腕をとられてしまう。

「あっぶねー。兄ちゃんに電話して迎えにきてもらえよ」

「仕事だし。……ていうか、離して」

 つかまれている腕が熱い。

「おまえが無理しないで家の人に電話したら離してやる」

「ばか博己。離してってば」

 しちゃったの。キス。

 耳の奥に貼りついた、笑里の、はちみつをまぶしたような声。

「やだ。やだやだ、触んないで博己」

「ちょ。おい、それじゃ俺がヘンタイみたいじゃん。……つーか……」

 蝉の声が降り注いで、木々の青葉の隙間から差し込むひかりがまだら模様をつくる。

「羽純、なんで泣いてんの」

 知らない。知らない知らない知らない。

 結局、そのまま博己に連行されるみたいにして保健室へ行った。先生は会議にでも行ったのか、不在だった。

「しばらく寝かせてもらえよ。体調ましになったら帰ればいいし」

 無言で、ベッド脇の衝立カーテンを引く。冷房が効いた室内にあって、糊のきいた清潔なシーツはひんやりと心地いい。

 上靴をぬいで身を横たえる。博己が、羽純から顔をそらしながら、そっとタオルケットをかけてくれた。

「…………ありがと」

「ん」

 ぎしっと小さなパイプベッドが軋んだ。博己が腰かけたのだ。あの日差し出されてつかみそこねた大きな手が、ベッドの端に所在なさげに置かれている。「俺に分けて」と言って羽純の両手を握った、あのときより。ずっとずっと、大きく、たくましくなった。

 羽純はタオルケットをかぶり、その手を見ないようにした。

 こんな気持ちになるなんて。自分から博己を遠ざけたくせに。笑里のしあわせを望んでいたはすなのに。胸の中でしつこくくすぶる赤い灯が、疎ましい。

「博己。いいよ、ついててくれなくて。あんた賢くないんだし、勉強しなきゃじゃん?」

「ばーか」

 博己の「ばか」には、ぜんぜん棘がない。昔から、羽純にちょっかいをかけては「ばーか」と笑って。羽純が友だちをしゃべっていると、突然後ろから髪を引っ張ってきたりして。でもぜんぜん痛くなくて、まるで子猫が甘噛みしあってるみたいに、羽純もぜんぜん棘のない「ばーか」を返す。

 博己のばか。廃校舎なんて行かなきゃよかった。告白されるんだっていう予感があったのに。なのに、のこのこ呼び出しに応じたこと自体、笑里への裏切りだったんだ。だったら自分に罰をあたえればいいのに、なんで律があんなことに。

「羽純。……おまえ、最近、ちゃんと眠れてんの?」

「…………」

 眠れていない。だけど、それを素直に認めるのも、なんだかしゃくだった。

「体力だけが取り柄なんだから。しっかり食って寝ろよ」

 誰のせいだと思ってんの? 

 ……自分、か。

 博己のスクバから、みじかい電子音が聞こえた。タオルケットをわずかにずり下げてぬすみ見る。博己はベッドの端に腰かけたまま、足もとに視線を落として、微動だにしない。

「見なくていいの? 笑里でしょ」

 博己はなにも答えない。灰色のもやのような不安が、羽純にまとわりつく。

「律のとこに行かなきゃ」

「羽純?」

「なんだか最近、いろんなことの歯車が、少しずつ、狂ってきてる気がして。ねえ、律、だいじょうぶだよね?」

「あいつ、夢ばかり見るって言ってた。なんか、ひどく不安げで……」

「ねえ。律にほんとうのこと教えるの、やっぱ、だめかな」

「俺は、あいつが自分で思い出すのが一番だと思う。俺たちが教えても、いまの律に受け止めきれるかどうか。パニックになったりしたら……、あいつ、どうなるかわかんねーし」

「そう、だね」

 じれったい。どうにか律を取り戻したい。でも、そもそもどうして律は。

「流星群」

 博己のつぶやきが、羽純の思考をさえぎった。

「夏休みになったら、流星群を見よう。ガキの頃みたいにさ、四人で。ジャングルジム登って」

「……うん」

 やさしいピアノの音が鼓膜の奥によみがえる。結局あのとき、流れ星は見えなかったんだっけ。そのかわりに、トロイメライが降ってきた。宇宙の果てにある、もうひとつの世界から。

 おかあさんの、音だった。

 目を閉じる。羽純をがんじがらめにしていたもろもろが、すうっと、溶けていくような感覚があった。ひさびさに、心地よい眠気が訪れる。

 ふわふわとした眠りの世界の入口で。うつらうつらしながら、羽純は、大きな手が自分の頭を撫でるのを感じていた。

――俺に、分けて。

 博己。

 今だけ。許して、今、だけ……。


散々な結果に終わったテストの答案用紙を放り投げ、羽純たちの夏休みははじまった。

 もちろん冷房なんてない、そもそも電気すら通っていない廃校舎のちいさな教室は、窓を開けていても蒸し暑くてたまらない。

 それでも律はすずしげな顔をしている。というか、ほんとうに暑くはないのかもしれない。長袖のカッターシャツをまくり上げて、窓の外、伸びた草の向こうにのぞく青空を見やっている。

 その横顔を見ていたら、言い知れない不安が羽純を襲った。

「博己、きょう、大会なんだろ?」

 空を見つめたまま、律がつぶやいた。うん、と返す。

「笑里が、羽純と一緒に応援に行くって言ってたけど」

「……ん。断った。なんか、面倒で」

「面倒?」

「疲れるっていうか……。たぶん夏バテだね、ははっ」

 うっかり弱音をこぼしかけてしまった。だけどもう、つくろうのさえ、しんどい。笑里の隣で、光を浴びて泳ぐ博己を応援するだなんて。自分の気持ちがすべて顔に出てしまいそうで、怖かった。

「笑里も、羽純も。ばかだよなあ」

 律が、くすっと笑う。光が透けそうなほどに、儚げな笑顔だ。

「律、」

「僕にしとけばいいのに。ふたりともしあわせにするよ?」

 ぷっ、と。羽純はふき出した。あまりにも律に似合わない冗談だったから。

「笑うとか、失礼だよなあ。これでも本気なんだけど?」

「じゃあどっちかに決めて」

「うーん……」

 律はわざとらしく眉間に縦皺を寄せた。

「じゃ、羽純」

 目の前にいる羽純を、ぴっ、と指差した。

 ひとしきり笑ったあと。「おねがいしまーす」と敬礼のポーズをとろうとしたところで、気づいた。

 律は笑っていない。がちがちに強張っている。

「え……? り、律……?」

 律のカッターシャツの裾をちょんちょんとひっぱった。律はふいっと羽純から目をそらして、

「あー。ばっかみてえ。ぼくも人のこと言えないよな」

 と、頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。なんだかみょうに気まずい。

 眩暈がしそうなほどにかしましい蝉の声。

「虫は、シンプルでいい」

「え? ちょ、どしたの律。さっきからへんだよ」

「……って。博己が言ってたんだよ」

 また博己の名前が挙がって、羽純の鼓動がはやくなった。だめ。考えるな。博己はいまごろ、まっすぐに泳いでる。笑里に見つめられながら。

「羽純」

 ふいに名を呼ばれて顔を上げると、律と目が合った。律はゆっくりと口をひらく。

「キス。してみる?」

「え?」

「羽純もしてみたらいいじゃん。案外たいしたことないかもよ」

「ばか。ってか、そもそも、誰と」

「誰と、って。ここには僕しかいないわけだけど」

「…………は」

 いったいぜんたい、今日の律はおかしい。羽純が絶句していると、

「冗談だよ、冗談。なに本気にしてんの」

 と明るい声をあげて、律がげらげらと笑い始めた。目じりに涙をうかべて、おなかを押さえて。息も絶え絶えに、笑い続けている。

 あっけにとられて、羽純は呆然と律を見つめている。

 と、ぴたりと笑い声がやんで、律は真顔になった。

「おじさんが、僕を呼ぶんだよ」

「海斗、おじさん?」

 律の叔父は事故ではなく自死だった、という噂を耳にしたことがある。背中をひやりと冷たいものが撫でる。

「ラジオから。聞こえるんだ。叔父さんの声。こっちに来い、って。どうしてまだ来ないのか、って。どこに? って聞くけど、それには答えてくれない」

 羽純は両のこぶしにぎゅっと力を入れた。自分の足が、小刻みにふるえている。

「まさか、律、思い出したの……?」

「なにを?」

「なにを、って」

「僕はおかしい。どうして今まで気づかなかったんだろう。僕はあきらかにおかしい。夢と現実の境目がわからない。おじさんの声も、幻聴かもしれない。だって僕しか聴いてないわけだし、」

「律!」

 羽純は律の腕をつかんでゆさぶった。どこかぼんやりと、焦点の合わない目。だめ。そっちに行っちゃ、だめ。

「律はここに居る。ちゃんと居る。ちゃんと、あたしたちと、つながってる」

 律の右手を、そっと両手で包み込んだ。氷のように冷たい手だった。




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