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息が苦しい。あの日のことを思い出すと決まって呼吸がしづらくなる。
お母さんが死んだ時、これから先の人生にはもう、これ以上辛いことは起きないだろうと思った。あれから数年しか経っていないのに、ふたたび羽純は落とし穴につかまってしまった。
一日のカリキュラムが終わって、羽純はまっすぐに教室を出た。友人たちに一緒にテスト勉強しないかと誘われたけど、具合が悪いと言って断る。というか、ほんとうに頭が痛いし、軽い吐き気までする。
律のところに行こうと思った。
律のすがたを見て、話して、触れて。そうすれば安心することができる。まだ律はかろうじて自分たちとつながっている。宇宙のどこかのふたご星なんかじゃなくて、自分たちのいる、この星とつながっている。一刻もはやくそれを確かめたかった。
自転車置き場から裏門へ向かう。ふらふらと自転車を押して、ぎらつく夏の日差しをもろに浴びて眩暈がした。
フェンス際の木陰に寄って、自転車を止めて座りこむ。
「羽純」
声が降ってきて顔をあげた。博己。
「具合、悪いのか?」
「大丈夫。……ていうか、あんた、部活は」
「休み。テスト前だから。てか、おまえ、ひとりで帰れるのか? 顔色悪いぞ?」
「大丈夫だってば」
無理やりに笑顔をつくって立ち上がろうとしたけど、ふらついて博己にとっさに腕をとられてしまう。
「あっぶねー。兄ちゃんに電話して迎えにきてもらえよ」
「仕事だし。……ていうか、離して」
つかまれている腕が熱い。
「おまえが無理しないで家の人に電話したら離してやる」
「ばか博己。離してってば」
しちゃったの。キス。
耳の奥に貼りついた、笑里の、はちみつをまぶしたような声。
「やだ。やだやだ、触んないで博己」
「ちょ。おい、それじゃ俺がヘンタイみたいじゃん。……つーか……」
蝉の声が降り注いで、木々の青葉の隙間から差し込むひかりがまだら模様をつくる。
「羽純、なんで泣いてんの」
知らない。知らない知らない知らない。
結局、そのまま博己に連行されるみたいにして保健室へ行った。先生は会議にでも行ったのか、不在だった。
「しばらく寝かせてもらえよ。体調ましになったら帰ればいいし」
無言で、ベッド脇の衝立カーテンを引く。冷房が効いた室内にあって、糊のきいた清潔なシーツはひんやりと心地いい。
上靴をぬいで身を横たえる。博己が、羽純から顔をそらしながら、そっとタオルケットをかけてくれた。
「…………ありがと」
「ん」
ぎしっと小さなパイプベッドが軋んだ。博己が腰かけたのだ。あの日差し出されてつかみそこねた大きな手が、ベッドの端に所在なさげに置かれている。「俺に分けて」と言って羽純の両手を握った、あのときより。ずっとずっと、大きく、たくましくなった。
羽純はタオルケットをかぶり、その手を見ないようにした。
こんな気持ちになるなんて。自分から博己を遠ざけたくせに。笑里のしあわせを望んでいたはすなのに。胸の中でしつこくくすぶる赤い灯が、疎ましい。
「博己。いいよ、ついててくれなくて。あんた賢くないんだし、勉強しなきゃじゃん?」
「ばーか」
博己の「ばか」には、ぜんぜん棘がない。昔から、羽純にちょっかいをかけては「ばーか」と笑って。羽純が友だちをしゃべっていると、突然後ろから髪を引っ張ってきたりして。でもぜんぜん痛くなくて、まるで子猫が甘噛みしあってるみたいに、羽純もぜんぜん棘のない「ばーか」を返す。
博己のばか。廃校舎なんて行かなきゃよかった。告白されるんだっていう予感があったのに。なのに、のこのこ呼び出しに応じたこと自体、笑里への裏切りだったんだ。だったら自分に罰をあたえればいいのに、なんで律があんなことに。
「羽純。……おまえ、最近、ちゃんと眠れてんの?」
「…………」
眠れていない。だけど、それを素直に認めるのも、なんだかしゃくだった。
「体力だけが取り柄なんだから。しっかり食って寝ろよ」
誰のせいだと思ってんの?
……自分、か。
博己のスクバから、みじかい電子音が聞こえた。タオルケットをわずかにずり下げてぬすみ見る。博己はベッドの端に腰かけたまま、足もとに視線を落として、微動だにしない。
「見なくていいの? 笑里でしょ」
博己はなにも答えない。灰色のもやのような不安が、羽純にまとわりつく。
「律のとこに行かなきゃ」
「羽純?」
「なんだか最近、いろんなことの歯車が、少しずつ、狂ってきてる気がして。ねえ、律、だいじょうぶだよね?」
「あいつ、夢ばかり見るって言ってた。なんか、ひどく不安げで……」
「ねえ。律にほんとうのこと教えるの、やっぱ、だめかな」
「俺は、あいつが自分で思い出すのが一番だと思う。俺たちが教えても、いまの律に受け止めきれるかどうか。パニックになったりしたら……、あいつ、どうなるかわかんねーし」
「そう、だね」
じれったい。どうにか律を取り戻したい。でも、そもそもどうして律は。
「流星群」
博己のつぶやきが、羽純の思考をさえぎった。
「夏休みになったら、流星群を見よう。ガキの頃みたいにさ、四人で。ジャングルジム登って」
「……うん」
やさしいピアノの音が鼓膜の奥によみがえる。結局あのとき、流れ星は見えなかったんだっけ。そのかわりに、トロイメライが降ってきた。宇宙の果てにある、もうひとつの世界から。
おかあさんの、音だった。
目を閉じる。羽純をがんじがらめにしていたもろもろが、すうっと、溶けていくような感覚があった。ひさびさに、心地よい眠気が訪れる。
ふわふわとした眠りの世界の入口で。うつらうつらしながら、羽純は、大きな手が自分の頭を撫でるのを感じていた。
――俺に、分けて。
博己。
今だけ。許して、今、だけ……。
散々な結果に終わったテストの答案用紙を放り投げ、羽純たちの夏休みははじまった。
もちろん冷房なんてない、そもそも電気すら通っていない廃校舎のちいさな教室は、窓を開けていても蒸し暑くてたまらない。
それでも律はすずしげな顔をしている。というか、ほんとうに暑くはないのかもしれない。長袖のカッターシャツをまくり上げて、窓の外、伸びた草の向こうにのぞく青空を見やっている。
その横顔を見ていたら、言い知れない不安が羽純を襲った。
「博己、きょう、大会なんだろ?」
空を見つめたまま、律がつぶやいた。うん、と返す。
「笑里が、羽純と一緒に応援に行くって言ってたけど」
「……ん。断った。なんか、面倒で」
「面倒?」
「疲れるっていうか……。たぶん夏バテだね、ははっ」
うっかり弱音をこぼしかけてしまった。だけどもう、つくろうのさえ、しんどい。笑里の隣で、光を浴びて泳ぐ博己を応援するだなんて。自分の気持ちがすべて顔に出てしまいそうで、怖かった。
「笑里も、羽純も。ばかだよなあ」
律が、くすっと笑う。光が透けそうなほどに、儚げな笑顔だ。
「律、」
「僕にしとけばいいのに。ふたりともしあわせにするよ?」
ぷっ、と。羽純はふき出した。あまりにも律に似合わない冗談だったから。
「笑うとか、失礼だよなあ。これでも本気なんだけど?」
「じゃあどっちかに決めて」
「うーん……」
律はわざとらしく眉間に縦皺を寄せた。
「じゃ、羽純」
目の前にいる羽純を、ぴっ、と指差した。
ひとしきり笑ったあと。「おねがいしまーす」と敬礼のポーズをとろうとしたところで、気づいた。
律は笑っていない。がちがちに強張っている。
「え……? り、律……?」
律のカッターシャツの裾をちょんちょんとひっぱった。律はふいっと羽純から目をそらして、
「あー。ばっかみてえ。ぼくも人のこと言えないよな」
と、頭をぐしゃぐしゃにかきむしった。なんだかみょうに気まずい。
眩暈がしそうなほどにかしましい蝉の声。
「虫は、シンプルでいい」
「え? ちょ、どしたの律。さっきからへんだよ」
「……って。博己が言ってたんだよ」
また博己の名前が挙がって、羽純の鼓動がはやくなった。だめ。考えるな。博己はいまごろ、まっすぐに泳いでる。笑里に見つめられながら。
「羽純」
ふいに名を呼ばれて顔を上げると、律と目が合った。律はゆっくりと口をひらく。
「キス。してみる?」
「え?」
「羽純もしてみたらいいじゃん。案外たいしたことないかもよ」
「ばか。ってか、そもそも、誰と」
「誰と、って。ここには僕しかいないわけだけど」
「…………は」
いったいぜんたい、今日の律はおかしい。羽純が絶句していると、
「冗談だよ、冗談。なに本気にしてんの」
と明るい声をあげて、律がげらげらと笑い始めた。目じりに涙をうかべて、おなかを押さえて。息も絶え絶えに、笑い続けている。
あっけにとられて、羽純は呆然と律を見つめている。
と、ぴたりと笑い声がやんで、律は真顔になった。
「おじさんが、僕を呼ぶんだよ」
「海斗、おじさん?」
律の叔父は事故ではなく自死だった、という噂を耳にしたことがある。背中をひやりと冷たいものが撫でる。
「ラジオから。聞こえるんだ。叔父さんの声。こっちに来い、って。どうしてまだ来ないのか、って。どこに? って聞くけど、それには答えてくれない」
羽純は両のこぶしにぎゅっと力を入れた。自分の足が、小刻みにふるえている。
「まさか、律、思い出したの……?」
「なにを?」
「なにを、って」
「僕はおかしい。どうして今まで気づかなかったんだろう。僕はあきらかにおかしい。夢と現実の境目がわからない。おじさんの声も、幻聴かもしれない。だって僕しか聴いてないわけだし、」
「律!」
羽純は律の腕をつかんでゆさぶった。どこかぼんやりと、焦点の合わない目。だめ。そっちに行っちゃ、だめ。
「律はここに居る。ちゃんと居る。ちゃんと、あたしたちと、つながってる」
律の右手を、そっと両手で包み込んだ。氷のように冷たい手だった。




