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期末考査が終われば、ほどなくして夏休みに入る。
中学の頃バレーボールをしていた羽純は、夏休みは部活三昧で、合宿だの試合だので充実した日々を送っていた。去年は海の家で短期のアルバイトをした。
さて。今年はどうしよう。
頬杖をついてしばし考える、みじかい休み時間。この夏は、四人でたのしいことをたくさんしよう。すべては、律を自分たちのもとへ引き止めておくため。
と、携帯がみじかく鳴った。画面を見ながらため息をつく。笑里から頻繁にメッセージが送られてくるのだ。博己と夏休みに海に行く約束をしたとか。電話でどんな話をしたかとか。顔を寄せ合っての自撮り画像まで送ってくる。今羽純に送られてきたのもそれ。加工なんかしなくてもじゅうぶんキラキラしてアイドルなみに可愛い笑里と、笑里の肩を抱く博己のあほ面。
いちいちこんなの撮るなよ。ていうか送ってくるなよ。まあ、浮かれるのもわかるけど。
――キス、しちゃったの。
頬を染めて秘密をうちあけた笑里の、恥じらうような笑み。そのとき飲んでいたアイスコーヒーの味が消えたのを覚えている。
混乱した。そして今も、混乱は続いている。
馬鹿みたい、と思う。自分のことを、だ。
「はっすみー」
いきなり後ろからぎゅうっと抱きつかれて、えぐっ、と羽純は喉をつまらせた。ふりほどいてからだを後ろにねじると、同じクラスの悦子がへらへら笑っている。
「なにすんの! 一瞬呼吸できなかったんだけど! 殺す気?」
「逆だよ逆ー。現世に引き戻してあげたのー。羽純、この世の終わりみたいな顔してたからー。感謝してよねっ」
悦子がにっかり笑った。中学のときバレー部で同じだった悦子は、いまもバレーボールを続けている。高校ではもうやらないと言った羽純をさいごまでバレー部に引き入れようと粘ったのも悦子だ。
「この世の終わりねー。そう簡単には来ないよ?」
「なになに? 悟っちゃってますね羽純サン」
「こう見えて苦労してるし」
「あー。だよねー」
悦子は笑って軽く流した。悦子の、こういう、なにごとも深刻に受け止めすぎない性質が羽純は好きだ。博己も似たようなところがある。律はちがう。必要以上に重くとらえて自分のなかにためこんでしまう。
「つーか、それ? 羽純のため息の原因」
は? と首をかしげて、すぐにスマホの画面を開いたままだったことに気づく。しまった、見られたか。
「城崎笑里じゃん。えー、なに? あの子、博己とつき合ってんの?」
悦子がおもいっきり眉間にしわをよせて、嫌悪感をあらわにした。彼女は中学のころから、笑里のことが嫌いだとはっきり言っている。もっとも、羽純以外の友人にはそんな態度はおくびにも出さないし、笑里本人にも普通に接する。羽純とふたりきりの時だけ、笑里への不満を口にするのだ。悦子のことは好きだけど、その点だけは、正直扱いに困ってしまう。
「そだよ。もー仲良すぎておなかいっぱい」
なんだか取り繕うのもめんどうくさくて、投げやりに言い放った。ふうーん、と悦子は口をとがらせる。
「前から思ってたんだけどさー。城崎笑里って、あんたのこと、ほんとに親友だって思ってんの?」
「え?」
「あんたが落ち込むのわかってて、ていうかそれ狙いでこんな画像わざわざ送ってくるんじゃん」
「……べつに落ち込まないし。げんなりはするけど」
「ばーか」
悦子は羽純の頭をこづいた。
「城崎のことも嫌いだけど羽純のそーいうとこも嫌い。ていうかあたしが城崎のこと嫌いなのって、羽純があの子に遠慮ばっかりしてるからだもん」
「ちょ、悦子」
「すっごいうっとうしい。博己を返せって、はっきり言ってやったら? んで、河原で殴り合いでもしたらいいじゃん」
「殴り合い……」
もろもろ通り越してあきれてしまった。
「ま、またすぐに別れるかもね。なんだかんだフラフラしても、博己は羽純じゃないとダメなんだよ。あたしはそう思う」
「やめてよ悦子。あたしたちほんとにそういうんじゃないし、……笑里とは続くよ」
悦子はぶーっと丸いほっぺたをリスのようにふくらませている。
「ていうか博己が笑里を傷つけるようなことがあれば容赦なく殴る」
羽純は眉をきりっと上げて力強く宣言した。
「あたしが城崎だったら、そういうのが一番傷つくけどな」
「……え?」
チャイムが鳴った。つぎの授業がはじまる。
「なんでもない。じゃね」
悦子はひらひらと手を振って自分の席に戻っていった。
しちゃったの、か。
珈琲の味が消えたあとに蘇ってきたのは、至近距離に近づいた博己の息遣いだった。
廃校舎に呼び出された、あの日。ぎゅっと羽純を抱きしめた博己は今までに見たこともないぐらいに苦しげで、ごめん、あきらめきれなくてごめん、と、うわごとのように何度も繰り返していた。
どうにかなってしまいそうだった。
魔法にかかったみたいにからだが動かなくて、熱くなって、やがて博己が羽純にゆっくりと顔を近づけてきて。磁石みたいに吸い寄せられて。好きだと言われた瞬間に、笑里の存在も何もかも、すっぽりと自分の中から抜け落ちてしまった。
風の強い秋の日だった。古い校舎の窓がかたかた鳴っていた。その向こうの空は澄んだ橙色に染まっていて、秘密基地と化した小さな教室まで、橙がもぐりこんでふたりを染め上げていた。
くちびるが触れそうに近くなって、抗えなくて羽純は目を閉じる。……閉じる、寸前だった。
博己が突然、羽純のからだを引き離したのだ。
それをきっかけに、羽純も冷静さを取り戻した。
「ごめんな、羽純。俺……、コントロール失ってた」
「……うん」
ゆっくりと、息を整える。はげしい鼓動を静める。
「でも、好きだっていうのは本当だから。羽純が俺のことをそんな風に見れないのはわかってるけど」
「…………」
「今度こそ、これで最後にする。羽純がどうしても俺とはつき合えないって言うんなら、今度こそきっぱりあきらめる」
「じゃあ」
羽純は大きく息を吸い込んだ。
「じゃあ、あきらめて。博己とは友だちのままでいたい。彼氏とか、そういうのは、むり。さっき抱きしめられてはっきりした。むりだって思った」
「そっか」
「うん。むり。無人島でふたりきりになったとしてもむり。空と陸がさかさまになってもむり。人類が滅びて最後のふたりになったとしても、むり」
冗談めかして、つぎつぎにたたみかけた。胸がずきずきと痛んだ。痛いけど、
「そこまで言われたら逆にすっきりした。思いっきり振られてよかった。がんばって次行くわ。羽純」
懸命に笑顔をつくる博己に、羽純も不器用ながら笑みをかえした。
「うん」
「これからも、友だちとして」
握手をもとめる博己の手。羽純に差し出された、大きな、手。その手を取ろうとしたところで、バッグの中で電話がふるえているのに気づいた。
液晶画面に笑里の名前が表示されている。笑里。笑里ごめんね。もうすこしで、笑里を傷つけてしまうところだった。すべてを博己に持っていかれてしまうところだった。
「もしもし……笑里?」
「羽純? いったい何してるの? 何度もかけてるのにつながらないし。博己にもつながらないし、既読もつかないし、」
笑里は涙声だ。なぜ。見られていたはずはないのに、罪悪感がこみあげる。
「ごめん。授業中にマナーモードにしてて、そのまま戻すの忘れちゃってて。……え?」
つぎに飛び込んできたことばに、羽純の心臓は一瞬、止まった。