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流星群  作者: せせり
海へ行く
16/28

2

それから二日後、気象台が梅雨明け宣言をした。例年より早い梅雨明け。湧いては降りそそぐ蝉の声がうるさい。プールの水はゆらゆらと光を跳ね返している。期末考査で部活動が休みになるため、練習できるのは今日が最後だ。

 飛沫が散る。ひたすらに泳ぐ。泳ぐことは気持ちよかった。タイムを伸ばそうとか、レースで勝とうとか。そういうもろもろを含めても。

バレーボールをあっさり辞めて水泳に転向したのに、さして深い意味はない。中学のそれより広いプールに惹かれた、それだけだ。

と、周囲の友人には言っている。ほんとうは、羽純が泳げないからだ。絶対に羽純は水泳部には入らない、だから。自分は水泳を選んだ。

 プールからあがる。熱い日差しが濡れた肌に心地よい。水分舗給をし、仲間が泳ぐ軌跡を目を細めて見やりながら、

「海行きてーな」

 などとつぶやく。と、近くにいた上級生の斉藤があきれ声を出した。

「おまえ、あほだな。毎日毎日こんだけ泳いでんのに、まだ海行きたいとか」

「だって海は特別っすよ」

 塩素ではなく潮の香りがして。波がたって、砂に足をとられる。

 五年生のとき、四人で海水浴に行った。それぞれの家族と一緒に。スポーツ万能のくせにカナヅチな羽純を、ふざけて無理やり海にひきずりこんだ。足がつくかつかないかの際どい場所まで引っ張って連れていって――そこで、羽純の浮き輪に穴があいて空気が抜けた。

 泣きわめきながら博己にしがみついてきた羽純。

 抱き着かれたまんま、なんとか波打ち際まで戻ったけど、大人たちに嫌と言うほど叱られたっけ。あれからしばらく、羽純は博己と口をきいてくれなかった。

「博己、なに笑ってんの」

「いや」博己は首を横に振った。

「海は女の子の水着も露出高いし、やっぱいーよなって。ビキニ最高っす」

「おまえとは分かり合えないな。俺、スク水派だし」

「とりあえず競泳用はねーよって感じしません?」

「いや、それはそれで、そそる」

「結局、何でもいーんじゃないっすか」

 こらっ、さぼるなっ、と部長の怒鳴り声が飛んできた。やべ、と舌を出して、博己はふたたび水に入った。

 練習のあと、着替えを終えてクラブハウスから出ると、律がいた。

「博己ー。なんか軽く食っていかね?」

 同級生たちに誘われたけど、やんわり断った。律のすがたは、ここでは自分にしか見えない。

 駆け寄って律の肩に手をかける。

「めっずらしー。何の用?」 

 クラブハウスから体育館を通り過ぎ、駐輪場までゆったりと歩く。蝉が鳴いている。交尾の相手をさがして、短い命を燃やして鳴きわめくのだ。蛍もそうだ。

「虫ってシンプルでいーよな」

「なに言ってんだよ、博己」

「べっつに。生まれ変わったら虫もいいかなって話」

 もちろん冗談のつもりだったが、口にしてみると悪くないアイディアのような気がしてきた。めんどくさくない。一夜かぎりの、いや、一生一度きりの逢瀬で燃え尽きるいのち。

「生まれ変わったら、か」

 ぼんやりと、焦点のあっていないような律の目に、博己は物騒な話をしたことを後悔した。

 駐輪場に着いて自分の自転車のスタンドを起こす。律はぼうっとその様子を見ている。

「博己。僕、さ」

「うん」

「僕の自転車、いま、どこにあるんだろう」

「……え?」

「変なんだよ。いろんなことが思い出せないんだ。記憶にぽこぽこ穴が開いていて……、くっきりした夢ばかり見る。目が覚めてもまだ夢のなかにいるような気がする」

「律」

「クラブハウスの前まで、どうやって来たのか思い出せない」

「律」

「僕はいったい、」

「律。海行こうぜ」

 気づいたら、博己はそう口走っていた。

「乗せてやるから。野郎同士で二ケツとか、しょっぱいかもしんねーけど」

 律の腕をとる。律はようやっと、弱弱しく笑った。


 件の抜け道――やたら勾配がきつい坂――はあえて通らず、国道まで出て信号を渡った。畑を抜けて堤防まで来てから自転車を止める。あっという間だ。

 海水浴場から小山を挟んで東側の海岸。砂浜に降りることはできるが遊泳禁止だ。そのせいか、誰もいない。

「あっちい。浜、行く?」

 律がうなずいたから、ふたりは堤防の切れ目につくられた細い階段を降り、砂浜を踏んだ。

「うっわーローファーに砂入るわ」

「波打ち際のほうに行ったほうがよくね? 歩きやすいと思う」

「野郎ふたりで渚でキャッキャウフフとか、……ま、いいけど」

「いいだろ博己はめちゃくちゃかわいい彼女がいるんだから」

「まーな。今度は笑里と来るわ」

「……うまくいってんだ?」

「まあ。好調ですよ。充実しまくってますよ」

 ふーん、とつぶやくと、律は水平線の彼方へ視線をとばした。陽は傾いて赤みを帯びて来ている。

「博己は、ほんとに、それで」

「ん?」

 風が吹いた。海を渡ってきた風は熱くて、潮をふくんでべたべたする。

「なんでもない」

 なんだよ、と博己は笑って、波打ち際ぎりぎりまで寄って律に手招きした。まんまと寄ってきた律に、海水をすくってぱしゃっとかける。

「ひゃっ。なにすんだっ」

「言いたいことがあるならはっきり言えよって話」

「べつに僕は……って、やめろって」

 博己は靴と靴下を脱いでズボンを膝までまくりあげた。律の腕をつかんで引き寄せると、波がきて律はもろにかぶってしまった。

「ひろき……こんの、」

 やり返そうと律が博己の襟首をつかもうとするのを、するりとかわす。ひゃははと笑って逃げる。ぬるい海水を、蹴って。

 ぱしゃん、と。飛沫があがる。律のポケットから何かが落ちたのだ。

「あ。……ラジオ」

 しゃがみこんで拾いあげる律。カッターシャツの裾で濡れたラジオを拭いている。梅雨が過ぎ夏が来ても律は長袖のまま。

「暑くねーの」

 思わず、聞いてしまっていた。律はゆっくりと博己の顔を見て、ふしぎそうに首をかしげ、それから。

「……暑い」

 とつぶやき、シャツの袖をまくりあげた。まるで、他人ひとに言われてようやく暑さを感知したかのように。

 波の音。律は表情の消えた顔で、黙り込んでうつむいてしまった。

「ってか、ラジオ大丈夫?」

 空気を変えたくて、博己は明るい調子で言った。

「壊れてない?」

「もとから壊れてるんだよ」

「そっか、でも。それ、霊界通信的なあれじゃん」

「おじさんのほら話だよ」

 律が少し笑った。博己はかるく安堵して、自分のみじかい髪をかきあげた。

「で。俺に、なにが言いたかったわけ?」

 足首まであるぬるい海水が引いて、そしてまた寄せる。

「話があって、俺のとこまで来たんだろう?」

 聞いておかなければいけないと思った。律はいつも、誰かの聞き手にまわるばかりで、自分自身は心のうちを打ち明けることはなかった。少なくとも、博己には。

 今までの自分だったら、ガキの頃から知ってる男子に真面目な相談なんかされても、こそばゆくてはぐらかしただろう。でも今は。

 切羽詰まっている。残された時間は少ないような気がしていた。根拠はない、ただの勘だ。だけど。

 太陽は赤みを増して、沈みゆこうとしていた。波が跳ね返すひかりも、やわらかく朱く染まっていて、それでも、きらめきはまばゆくて。

「博己の、本当の気持ちを知りたくて」

 律が低い声で告げる。けして大きくはないけど、よく通る声。

「羽純のこと。本当は、まだ好きなんじゃないのかって」

 こんなに単刀直入に聞かれたのははじめてだ。律は博己の目を見据えてそらさない。

 好きだった。特別だった。ずっと自分がそばに居てやると勝手に決めていた。

 母を亡くした羽純が、喪が明けてふたたび登校してきた日のことをはっきりと覚えている。拍子抜けするぐらいいつも通りで、ふざけて冗談を言ったり、はしゃいでドッヂボールをしたり、木に登って怒られたり。あまりにも普段の羽純と変わらなかったことがかえって気になって、その日の夕暮れ、彼女の家を訪れた。

 だけど、いつものように気軽に呼び鈴を押すことができなくて。暗くなるまでうろうろして。羽純の兄に見つかって、逃げることもできなくなった。

 夜が近くて。もう月が淡く輝きはじめていて。羽純の家の敷地を出て、ふたりで田んぼのあぜ道を歩いた。

「どうしたの? 博己」

 かぼそいつぶやきに歩をとめて、羽純の目を一瞬、とらえて、だけどすぐに逸らした。

「俺に、」

 どうしようもなく胸が熱く苦しくなった。

「分けて。羽純」

 気づいたら、そう言って、彼女の両手をとっていた。

「俺に、分けて」

 ちいさくてやわらかくて、あたたかな手。

「なにを?」

 羽純は首をかしげてくすりと笑んだ。寂しげに。だけど、今までどこにそんな顔を隠していたんだろうというぐらいに、綺麗だった。後にも先にも、羽純のあんな表情(かお)を見たのは一度きり。

「なにを、って」

 たじろいだ。分けてほしかったのは、彼女の。

「なんでもねーよっ」

 投げつけるように言い捨てて、あぜ道を走った。どうしていいかわからなかった。足をとられて田んぼに落ちそうになって、かっこわりいと自嘲して。走って、走って、どきどきしている自分を、月が追いかけてきて。自分が守ってやりたいと、密かに思いつづけていた女の子を置き去りにしてきたことに気づいて、さらに自己嫌悪。

 つぎの日。通学途中で。とぼとぼと歩く博己をひゅんっと追い越してった影。博己が顔を上げたタイミングで羽純は振り向いて、「ありがとっ!」とにっかり笑った。朝の白いひかりを浴びて。

 蘇る羽純の笑顔を胸に押し込めて、博己は、ぐっと奥歯をかみしめた。

 彼女の、痛みを。

 分けあうことなら、きっと、友だちのままでも、できるはず。何より羽純自身が、それを望んでいる。

「律」

 飾らない、「いま」の気持ちを舌にのせる。

「羽純のことは。もう、好きじゃ、ない。恋愛ってイミでは、だけど」

「本当に?」

「ああ。あきらめた」

「羽純が博己を好きだと言っても?」

 間髪入れずにたたみかける律の勢いに、つい、これまでのくせで笑ってまぜっかえそうとしたくなったけど。だけど博己は律の目をじっと見つめ返した。

「ありえない。羽純にははっきり断られてる。この先なにがあっても、人類が滅んでさいごのふたりになっても、博己とはありえないって言われた」

 口を引き結んで、黙り込む律。

 律。思い出せ。

「知ってるだろ? 律。おまえもその場にいたんだから」

 律が廃校舎の窓の外から、あの日の自分たちを見ていたこと。羽純は気づいていなかったけど、博己は気づいていた。目が合ったから。

 そして、いつの間にか律は霧のように消えてしまっていた。

「律。おまえこそ、羽純のことを」

 律は博己から目をそらした。水平線の向こう、沈みゆく夏のはじめの陽をぼうっと見つめている。

 波の音に混じって、ラジオのノイズが聞こえた。


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