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一日の練習メニューを終えて、博己は、クールダウンするためにゆっくりと泳いでいた。ひさびさにからりと晴れた日の屋外プールで泳ぐのはやはり気持ちよかった。もうすぐ七月だし、このまま梅雨が明けるかもしれない。
息つぎのために顔をあげたときに垣間見える景色が好きだ。こうして、ゆったりとただ泳いでいるときは特に。普段のレースのときはそんな余裕はないが、まれに、水を掻く音も歓声もやけにくっきりと響くときがある。呼吸するために水面から顔を出した、ほんの一瞬のことなのに。青くて、まぶしい。そんな感覚があるときは、自分でも驚くぐらい良いタイムが出ているから不思議だ。
プールからあがりスイムキャップを脱ぐ。ぬるい水が滴り落ちる。もう午後五時を回っているはずだが、まだ日は高く、明るい。
遠くでじわじわと蝉が鳴いている。
着がえたら、笑里に電話をかけようと思った。
笑里に告白されたとき。正直、驚いた。それまでずっと、自分は嫌われているのだと思っていたから。
はじめて彼女に会ったのは小学校の入学式で、それ以降はずっと同じ教室で過ごしてきたわけだが。思えばしょっちゅう泣かせていた。すべて自分のデリカシーのなさが原因だったんだけども。
たとえば。
笑里が転んだせいで町内対抗リレーで負けたと言ってしまったりとか。掃除を怠けないでと注意されて、軽く逆切れしたりとか。同じ女子でも羽純はぽんぽん言い返してくるし、ときには手が出てきて逆にこっちが痛い目を見ることだってある。だから、つい同じ調子で接して、泣かせたあとで「しまった」と後悔して。……その繰り返しの六年間。
中学に入ってからは、話しかけても笑里はうつむくばかりで、羽純を間に挟まないとコミュニケーションが取りづらかった。まじで嫌われてんだな俺、ってちょっと落ち込んだ。
律のほうが笑里にはお似合いだと思っていたのだ。律は自分より繊細で優しいし、おまけに頭もいい。とびきり、だ。中学のときは学年でトップの位置にいた。
ま、頭脳レベルは関係ないとしても。
幼なじみ四人で、自分と羽純がつき合って、律と笑里がくっついて……みたいな妄想を、よくしていた。中二で羽純に告白をスルーされるまでは、ほんとうに自分は能天気きわまりなかったなと苦笑する。
ニコール目で笑里は電話に出た。駐輪場そばの桜の木にもたれかかってしゃがみ、博己は話を切り出す。
「笑里、もうガッコ終わってんだろ? まだバスじゃない?」
「スクールバスはもう出ちゃったから、今日は電車で帰るの。今駅に向かってるとこ」
「あー。ひょっとして寄ってきた?」
「うん」
葉桜の影にすっぽりと覆われていても暑くて、博己はスポーツバッグからサイダーのペットボトルを取り出して飲んだ。ぬるいし炭酸が抜けかけている。
「おばさんに会ったよ。すごくやつれてて……、憔悴してるっていうのかな。笑里ちゃんありがとうって言われて」
「うん」
「博己や羽純にもありがとうって伝えてって。言ってた。羽純も時々来てるみたいね」
「うん」
「おばさんに、元気出してって、律はちゃんと居るからって、言っちゃった。だって、可哀想で。ねえ、どうして」
そこで笑里はことばを詰まらせた。鼻をすする音がする。
「どうしてあたしたちにしか、律のこと、見えないのかな」
通話を終えてからも、博己はしばらく桜の木の下にいた。おもむろに、ペットボトルの中身をどぼどぼと地面にぶちまける。飛沫が舞って、傾き始めた夏の陽を跳ね返してきらきらと光った。
――おれたち以外にも、律の姿が見えるやつが、いる。
博己は空になったペットボトルを踏みつけた。ぐしゃり、と。プラスチックのひしゃげる音がやけに耳についた。
おかしいと思っていた。二年になって同じクラスになった木原祐市。かつての、律の、親友。木原はやたらと律の席を怯えた目でちらちら見やっていた。そのうち学校を休みがちになり、今ではほとんど教室にいるところを見ない。中学の頃から、あんなにがりがり勉強している奴だったのに。不登校になってしまっては、どこを受ける気だったのか知らないが、将来のプランは大幅に狂ってしまっただろう。
律は天才型。子どものころから、だ。授業を一回聞いただけで大抵のことは理解できて、かつ、それをずっと記憶している。とくに勉強せずともテストの結果はとびきりいい。
同学年にふたりしかいない男子の片方がこんなに優秀で、比べられて悔しい思いをしたことがあるかと問われれば、そうでもないと答えるだろう。まあ、まったくないとは言わないが。
ようするにセンスの問題なのだ。律には勉強のセンスがある。自分は、勉強はそこそこだが、かわりに運動センスが抜群だ。わざわざ同じ土俵で勝負することはない、自分の得意を磨くほうがずっと効率的だ。あいつはあいつ、俺は俺、の精神だ。
だが木原は。どうだったんだろう。
自転車のスタンドを跳ね上げてまたがる。ゆっくりと漕ぎ出し、校門を出て、ゆるやかな坂をくだっていく。
古くからある民家と、小さな畑と、新築の家が入り混じった風景。区画は整理されてなくて、海岸沿いの国道に降りる細い脇道がいくつもある。博己はハンドルを右に切った。
この抜け道がいちばん国道まで近いけど、かわりに坂の勾配がきつい。ブレーキをかけずに一気に下りきろうとしてみるも、本能がそれを良しとしないのか、気づけば両手でブレーキレバーを握りしめている。
なんでだ。無茶苦茶だろ、律。
細い急坂を下りながら、プールの水で濡れた髪を逆立てながら。博己は考える。
降りきった先の国道を、行きかう車の群れ。博己は思いっきりブレーキをかけた。タイヤの軋む音がする。
ぜったいに、おかしい。どうして律は、こんな場所で。
律が高校に来るときは、大抵、屋上にいる。本人はエスケープしているという感覚なのだろう。
二限目が自習になったので、博己は屋上に上った。梅雨の晴れ間の陽光はぎらついて、熱いというよりちりちりと痛いぐらいだ。もう、真夏といっても過言ではない。
律を探すが、いない。かわりに博己は、フェンスに片手をかけて佇んでいる女子生徒の姿を認めた。真っ黒い、つややかなショートボブが風に揺れている。どこかその背中が、儚げに見えて。博己は一瞬、声をかけるのをためらった。だけど。
ゆっくりと、羽純は振り返った。
泣いてる?
その大きな瞳が、きらりと光ったように見えたのだ。しかし羽純は博己を見やって、ふふん、と笑んだ。
「えろ」
開口一番、言い放つ。意地悪くまゆ毛を上げて、でもどこか愉しげに揶揄する感じで。
「博己のえろ。すけべ。へんたーい」
「なんだよそれ」
大股歩きで羽純のもとへ。泣いてなんかないじゃないか、心配して損した。そう思って少し安堵する。
羽純は博己のわき腹を、ちょんとつついた。
「聞いたもんねー。ぜんぶ聞いたもんねー。蛍見に行った帰りー」
額に手をやって、はああと大げさなため息をつくと、博己はぼやいた。
「何なんだよ。おまえらって全部筒抜けなわけ?」
いくら親友だからって、キスしたこと、速攻でしゃべることはないだろうに。女子ってみんなこんな感じなんだろうか。
「あたしと笑里は特別だから。たとえ笑里が黙ってたってお見通し」
下を向いて、くすっと笑う羽純。
「笑里がわかりやすすぎるっていうのも、あるけど」
何が可笑しいのか、羽純はちいさな肩をふるわせて、くくくっと笑い続けた。博己は羽純の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「もう言うなよ? ってか、律にも言うなよ?」
「ちょ、博己顔真っ赤。おもしろすぎー」
大きな口を開けて屈託なく笑う羽純に、少しだけ博己は失望して、失望している自分に気づいて、あわてて否定する。
羽純にははっきり振られてるわけだし。それで自分もきっぱりあきらめた。
自分のシャツの袖をつかんで震える笑里の告白に、うなずいたとき。きっと好きになれると思った。嫌われているなんてとんでもない、すべてが好意の裏返しだった、そのことを知って。かわいいと思った。笑里のうわべの可愛さにつられる男はあまたいるけど、自分はちがう。ずっと一緒に居られる、大事に出来る。そう確信したのだ。
そうじゃなければ、幼なじみとつき合おうなんて思わない。
羽純のことをあきらめようと思ってつき合ってきた女子たちとは根本的にちがうのだ、きっと。
「エロ大魔神ー。笑里パパに言いつけてやろっかな」
「ばか。つーかおまえ男子小学生かよ。しょーもないなあ」
ま、キスとはいっても額だしな。口にするのは……もうすこし先か。月明かりに照らされた笑里があまりに綺麗で、汚してしまう気がして、それで躊躇してしまったのだ。
「博己。羽純」
ふざけ合うふたりの背後で、低いしずかな声が響いた。
「律」
やっと現れてくれた。律は羽純と博己の間に割り込むようにして入り込んだ。
なにを勘違いしたのか、博己の目をじろりと睨む。
「こっえー」
律の目があまりに冷やかだったから、つい博己はふざけてまぜっかえしてしまった。
「心配すんなよ、律」
律の肩をぽんと叩く。ちゃんとぬくもりがあること、律に触れるたびに不思議な感覚に陥る。
「なにが心配なわけ?」
羽純が眉間にしわを寄せた。なんでもねーよととぼける。
やっぱり羽純なんだろうな、と博己は思った。律を取り戻すための、だいじな鍵。
それは羽純だ。
博己だけが、そのことに気づいている。




